カイカイカイ…

霜月 秋旻

アンダンテ

アンダンテ。中学のとき、音楽の授業で習った記号。たしか、『歩く早さで』という意味だったと思う。しかし歩く早さは人によって、もしくは時と場合によって様々である。
氷川喜与味の歩くペースが早く、僕は置いていかれそうになった。朝もきっと、このペースで歩いてきたのだろう。早歩きと走るの中間、というべきか。そのくらい彼女のペースは早かった。
「なにモタモタしてるのよ。時間が勿体ないわ。さっさとしてよ」
時間が勿体ないなら僕なんかに付き合わず、さっさとバスに乗って帰ればいい。そう言ってやりたかったが、それに対してまた容赦なく反論の矢が飛んできそうだったのでやめた。本当に一昨日までのおとなしい彼女とはまるで別人である。彼女は二重人格だったのかもしれないとさえ思う。そして、僕は改めて自分の体力の無さを痛感した。
「仕方ないわね」
溜息をつきながらそう言うと彼女は、僕の腕をぐいっと掴んで引っ張り、また歩き出した。これで僕は強制的に、彼女のペースに合わせなくてはならなくなった。恐ろしい女である。
そうこうしているうちに、僕の家に着いた。これ以上彼女に付き合わなくて済むという安堵感が漂ってきた。家の庭に入ろうとすると、彼女に腕を引っ張られた。
「まだだよ」
安堵感もつかの間、僕の家を通り越して彼女はさらに歩きだした。
「いや、僕の家ここなんだけど…」
「なるほど。あなたの家はここなんだ。覚えたわ。このままレディを一人で帰らせるつもり?最後まで付き合ってもらうよ」
僕の腕を掴んで歩いている目の前の女は、鬼のように思えた。このままのペースで彼女の家まで連れて行かれるのか、それまで僕の体力はもつのかと、あらゆる不安が押し寄せてきた。
しかし彼女が向かっている先は、彼女の家がある地区ではなかった。明らかに山道へと歩いている。
「ちょっと待って。いったいどこ行くんだよ」
「いいからいいから」
彼女はいったい、僕をどこに連れて行こうとしているのか。だんだんと僕は、嫌な予感がしてきた。
木々がざわめく山道をもくもくと歩き続け、やがて彼女は足を止めた。僕はその場にしゃがみこんだ。どうやら彼女の目的地に着いたらしい。僕はここまでの道を覚えている。そしてたどり着いたこの建物ももちろん知っている。それもそうだ。つい昨日、黒沢アカネに連れてこられたのだから。
「いらっしゃいませ」
建物の入り口に立つ無表情の女性が、こちらをみて会釈をしている。左胸にあるネームプレートには、『咲谷』と書かれている。もちろん僕は、この女性も知っている。昨日会ったばかりなのだから。
そう。たどり着いた先は、ブックカフェ『黄泉なさい』だった。

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