碧き舞い花

御島いる

418:絶望に消える

 完全にすくみ上がっていた。ナパードでこの場を去ることもできぬほどに。
 セラはもう後退ることもせず、ただただ運命を成り行きに任せる。今度ばかりはもうだめなのだと。成す術はないのだと。自分をはじめ評議会が相手にしようとしていたのが、これほどまでに絶望感を与える存在だった。
 心で感じているということすら不確かな、恐怖。頭では理解できない、恐怖。ただ、身体だけがひしひしと恐怖を受け取っている。
 膨れ上がり、辺りをさらに暗くしてゆく暗黒の靄。
 賢者とてこれを前にしたら、何もできないだろう。
 こんな存在に挑める者など、渡り合える者など、ましてや勝利を手にする者などいない。
 ついさっきの勇気は、気の迷い。
 許容できない恐怖を前に、感情が狂い、あらぬ方向へと心を動かしたのだ。
 故郷を焼いたガフドロへの復讐心を種火に、心を奮い起こそうにも、燻るだけ。不安定な呼吸では、心の炎を燃え盛らせることは無理だった。
 せめてナパードができるくらいには奮起してほしい。そう自分の心に訴えかける彼女。逃げたい。


 ――そう。逃げて、力をつけて、この闇夜を前にしても平気な存在になりたい。ならなきゃいけない。異空のためにも、みんなのためにも。


 ――だから、今は逃げるだけ。それだけの力を、お願いっ……ちょうだいっ!


 ――ちょっとでいいの。光を…………!


 ――光を。


 彼女の想いとは裏腹に、世界は闇に包まれていく。
 もうじき、靄が全てを包み込む。今、このウェル・ザデレァにはセラとフェース、そして漆黒の靄だけしかいないように思えた。
 そうして完全な“夜”が訪れる。
 暗闇の中、靄がいることだけがセラには把握できていた。フェースは感じることすらできない。どこかへ跳んだのかもしれないが、彼のことなど気にならなかった。今は前の靄がいつ自分の命を奪いに来るのか、それだけに集中していた。それ以外は、諦めていた。希望を持てなかった。
 光のない世界。
 闇に紛れ、暗黒がセラに迫った。
 ついに来た。
 最後の最後。固く目を瞑り、亡き兄ビズラスに助けを求めるように、オーウィンを強く握った。
 その手を誰かが、上から優しく包み込むように握ったのをセラは感じた。暗闇に感覚すら奪われた状態では、誰だか判断がつかなかった。そもそも死を前にした幻かもしれない。


 ――お前は希望に死ぬか? 絶望に死ぬか?


 唐突にヌロゥ・ォキャの言葉が思い出された。そして彼女は思う。
 わたしは希望に死ぬのだと。
 この手を握る誰かの手は、誰のものでもなく、誰のものでもある。
 これまで出会ってきた人たちの手。
 父、母、兄、姉、伯父、幼馴染、友……。
 温かい思い出に満ちて、希望の中で命を終える。
 ………………。
 …………。
 ……。
 違う。
 そうじゃない。
 希望は死の恐怖を和らげる薬ではない。
 死んでは駄目だ。
 止まってなんていられない。
 セラのことを希望だと思ってくれる人は多い。ユフォンには『碧き希望』とも言われたこともある。けれども、セラにとっては、そんな彼らが希望だ。
 希望を絶やさず、護るために。
 止まってなんていられない。
 サファイアが闇の中に光る。
 セラはオーウィンを振り上げる。希望の手と共に。
「んぐあっ!」
 しかしその強大な闇の波に、彼女の抵抗は、絞り出された勇気は、希望は、なかったものとされた。
 そうして舞い花の身体は暗黒の奔流に巻き込まれ、闇にその姿を消したのだった。

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