碧き舞い花

御島いる

232:約束の上書き

 提案の翌日、セラは部屋に籠っていた。
 黒酒の芳醇なアルコールの匂いと多種多様な薬草の類の独特の匂いが充満しているその部屋は、ホーンノーレンの帝居に特別に設えられた、彼女専用の研究室と言えるだろう。
 彼女がここで何をしているかは想像に難くない。
 液状人間の支配から人々を救う薬品の製作。
 ズィーとセラは毒によって液状人間の浸透を退けた。操作している水から伝わるものの一つとして有害なものがあるのではないか。そこに可能性があると感じた彼女は、自身の使った解毒薬という名の毒をどうにかして弱めることは出来ないかと考えたのだ。彼女以外が飲んでも大丈夫なものを。
 薬草術の技術は四年前の比ではなく、毒自体は完成していてそれを弱めるだけ。時間はかかると予想されたが、それでもまったく何もない状態から産み出すわけではない。ひと月もかからないだろう。そうセラは考えていた。


 それが甘い考えだったと彼女が知ることになったのは、製作五日目だった。
 黒酒とオウゴンシタテングタケの胞子が原料の薬。その強力な効能を消すことには成功した。しかし、調整が難航した。
 液状人間を追い出す程の強さを残しつつ、ホワッグマーラの人々の身体を傷つけない。
 そのちょうどいい加減を見極めることに困難を極めた。それにより彼女の思考に隙間ができたことで、新たな問題が浮かびあがる。
「あ、薬ができたとして、試せないんだ……」
 誰か液状人間の支配下の人間を連れて来て薬を飲ませればいいという問題ではないのだ。仮に失敗していれば、その者の命を危険に晒すことになるの。
 出来上がった薬は彼女自身が服用して検証していた。仮にその方法で毒性の強さを決めれたとしても、彼女以外の人が飲んだ時どうなるかは実際に飲ませてみないことには分からないことだった。
 副作用が出ていたとしても、変態術を会得しているセラの身体には異常は出ないからだ。
 薬の副作用、思ってもみなかった効能は実際に使って初めて分かる事の方が多い。そう彼女はトゥウィントで学んでいたのだ。
 セラの技術云々ではなく、トゥウィントの薬剤師たちとて同じ。何度も試作を繰り返しようやく目的の薬を完成させる。
 気持ちが急いていたのか、そんなことも忘れてしまうとは。セラは溜め息を吐いた。気分転換が必要だと感じた彼女は意識を散漫させた。
 と、そのとき部屋に向かってくる一つの気配を捉えた。
 セラは扉に向かい、彼がノックしようとしたその時を見計らって開けた。ちょっとした悪戯心だ。
「ぅわっ……!?」
 そこには虚を突かれたユフォンの顔があった。
「ふふっ」セラは楽しそうに笑う。「何か用? ユフォン」
「ははっ。外のことに意識が向いてるんなら、大丈夫かな」
 セラは眉をひそめる。「?」
「あまり没頭しすぎるのもよくないでしょ?」
「あ、うん。そうだね……」
「ん?」視線を逸らすセラにユフォンは少し顔をしかめた。「さては君。息抜きしてないな」
「あー……ははっ」


 ユフォンに連れ出され、セラが赴いたのは井戸だった。
 ホーンノーレンの観光名所であり、生命線であるその場所は巨大な薄群青の東屋の下に一人の男の像が建てられているだけ。井戸と言われて連れ出されたセラからしてみれば、拍子抜けだ。
 セラは自身の三倍はあろう大きさの像を見上げながら問う。
「本当に井戸なの? この人は誰?」
「地下に魔具が埋められていてね。すごい遠くから水を引いて、それを都市全域に張り巡らされた管を通して各所に届ける仕組みなんだよ。ほんと、よくこんな場所に都市を造ったもんだよ、デェルブ・ホーン・ノーレンは。だからこそ偉大なんだろうけどね」
「もしかして、この人がここの初代帝?」
「お、誰かから訊いたのかい? その通り」
「ジェルマドさんとヒュエリさんからね。ここに来る前に」
「そっか」ユフォンは天井を見上げる。「僕も見たことないけど、本来なら天井から霧が出て角度によっては虹が見えるんだって。だから観光名所。ただ偉大な人物の像があるだけじゃないんだよ」
「そうなんだ……」セラも天井を見る。「今の状態で水は危ないもんね」
「セラ、覚えてるかい?」ユフォンは唐突に言う。
「……」彼女は話が跳んだことに一瞬のためらいを見せたが、すぐに応える。「ガフドロを倒したら、旅の話をするってこと?」
「あ、うん。それもだけど、そうじゃなくて……って、ガフドロって? もしかして、赤褐色の髪の大男? 名前が分かったのかい? じゃあ、『白昼に訪れし闇夜』もっ!?」
「ううん」セラは首を振った。「全然。一文字も」
「そっか……って、今はその話は置いといて、僕が言った約束っていうのは、他の都市に一緒に行こうってやつ。どお?」
「……」
 セラは沈黙し記憶を辿った。そして辿り着く。
「あっ。大会の前だよね」
 それは四年前、魔導・闘技トーナメントへの参加登録を終えた彼女がユフォンと共に魔導書館を目指し歩いていた時のことだ。開拓士団に関することから派生し、話が他都市のことに及んだのだ。
「そおっ! ははっ! よかった覚えててくれた」
「でも、こんな形で他の都市に来るなんて思ってなかった」
「確かに、予想とは違った。だからあの約束はまだ果たしたことにしちゃいけないんだ」
「え?」
「ホワッグマーラが元に戻ったら、いいや、戻したら、ここで虹を見よう。別の場所にも行こう! 約束。約束の上書き、駄目かい?」
「ふふっ、いいね」
 二人はまだ見ぬ虹を思い浮かべ、微笑み合った。

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