碧き舞い花

御島いる

91:朝のひととき

 開会式から一夜明けて。
 ユフォンの部屋で一人いち早く目覚めたセラは、昨日、開会式終了直後の選手控え室から各人の宿泊先までを回りに回って取材をしていたユフォンの寝顔を覗いてから静かに部屋を出た。
 仄かにオレンジを残す街灯と朝の青い空気が支配するマグリアの街は大会の開催は嘘だったのではないかと思わせるほどしんとしていた。
 ほとんどの人が寝ているのだろう。これから人々が一人、また一人と目を覚まし、昨日のようなお祭り騒ぎになっていくはずだ。大会開催中では唯一といっていい静寂の時を彼女は満喫していた。思えば一人でマグリアを歩くのは初めてだった。
「セラ!」
 どうせなら『竪琴の森』を目指そうと用水路に沿ってまずは噴水広場に向かって歩いてセラに水路の向こう側から声が掛けられた。
 こんな朝早くから誰だろうと彼女が目を向けると、幾何学的な紋様のガラスをリズムよく足下に出しながら水路の上を超えてくる黒装束頭巾男の姿が目に入った。アスロン・ピータスだ。
 セラが大会の予選で出逢った男が、軽く手を振りながら彼女の前までやって来た。
「やあ。早起きだね」
「え、うん。まあ……」彼女は笑みを返すが少しばかり苦々しい。それもそのはず、彼女が早く起きる理由は決まって悪夢のせいなのだから。
 だが、事情を知らないアスロンにはそうは映らないらしかった。
「ああ、そうだよな。多かれ少なかれ緊張はするよな。っと、遅れてごめん。本戦出場おめでとう。ズィプにも伝えといてくれ」
「うん、ありがと。……えっと、アスロンはどうしてこんなに早く?」
 見る限りアスロンの姿は早朝の散歩にしては大袈裟だった。黒装束の上にこれまた真っ黒な外套を羽織り、肩には術式狙撃施条銃が入っているであろうケースとナップザックを掛けている。
「ああ、俺はメィリアに帰んだよ。君の戦いを見てみたかったけど、こればっかりはね、仕事がある。……よければ一緒に来るかい?」
 頭巾から覗く目がわざとらしく窺うように動く。口角が上がったのも頭巾の動きで分かる。それが冗談で言われていることに気付かないのはフェズくらいだろう。
「必ず行く」セラは笑顔のまま少々深めに頷いて応えた。
「待ってるよ。じゃあ」
 アスロンは荷物を掛け直し、軽く手を上げてから歩き出した。そんな彼にセラも「じゃ、また」と声を掛けた。
「っと、その前に」行きかけて、振り戻るアスロン。
「なに?」
 セラも歩き出そうとして止まったので、プラチナと水晶、それから立体十字が揺れた。
「隠れ近衛の俺は専門外だからはっきりと断言できないんだけど。出場者に大会を目的としてない人間が何人かいた」
「え?」
「あ、いや。これはこの世界の問題だし、セラが気にする必要はないんだろうけどさ、一応ね。あと、前置きしたように俺は専門外だ。大雑把に違う目的があって動いてるやつがいるなぁって判断しただけだから、あまりあてにしなくてもいい。それに、俺も大会を目的に参加したクチじゃないから、他人のことはあまり言えないしな。まぁ、その程度の判断だってことだ。……あー、やっぱ言わない方がよかったかな? 本戦前に惑わすようなこと言って悪りぃ」
「あ、うん。大丈夫。わたしもそもそもは大会が目的じゃなかったし。大会に出る理由なんて人それぞれだしね」
「そだな。じゃ、今度こそ」
「うん、またね」
 セラはアスロンの言葉を頭の片隅のさらに片隅に少しだけ留めておくことにして、彼と別れたのだった。


「ただいまぁ、ユフォン、起きてる?」
 セラは『竪琴の森』を散歩した後。ナパードでユフォンの部屋に戻った。というのも、彼女が森を出るとすでに街はお祭り騒ぎを取り戻しつつあり、歩いて戻るのでは途中で人ごみに揉まれてしまうかもしれない可能性があったからだ。
「ああ、セラ、おはよう」
 ユフォンはまだ起きたばっかりだったようで、寝ぼけ眼を擦っていた。
「昨日は疲れたよ。朝刊に間に合うように記事を書くって大変だ」
「お疲れさま。今、疲労に効く香草でお茶淹れてあげる」
 セラはそう言って狭い台所で湯を沸かし始めた。マグリアの一般家庭のコンロは魔素を流し込むことで火が着くようになっている。つまり、彼女にも問題なく使えるということだ。
 湯が沸くまでの間に、薬カバンから香草としても使える薬草を乾燥させたものが入った小瓶を一つ出した。わりとどの世界でも手に入る労い草ウーラの葉だ。
「どこに行ってたんだい?」
「『竪琴の森』。散歩してきたの」
「朝の森か……なかなか良かっただろ?」
「うん、ちょうどよくリラックスできた。今なら思ってることが分かるくらい、感覚研ぎ澄ませそう」
 セラは出来上がったウーラ茶をティーカップに注ぐ。
「ほんとかい? じゃあ、僕が今何を考えてるか――」
「疲れたぁー、でしょ。はい、これ飲んで。今日も試合の記事書くんでしょ」
「あ、ははっ、まあね」
 ユフォンは何かを期待していたのか、少し残念そうな顔で香り豊かなお茶を口に含んだのだった。

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