碧き舞い花Ⅱ
347:喪失の予感
『魔素に侵された獣たち‐古代種編‐』は獣に関する図鑑だ。
ホワッグマーラには各都市ごとに、その近辺に存在する未開の地で確認された獣たちをまとめた図鑑が存在する。これらはそういった獣たちの情報をまとめることで、開拓士団がより安全に未開の地の探索を行えるようにと作成された。今では当初の目的から外れ、一般市民の子供たちの娯楽なんかとしても広く知られた書物だ。
そんな図鑑の中で唯一、古代種編だけが禁書となっているのには当然理由がある。
この巻だけ、想像で書かれている。
この巻は子供たちの知的な娯楽となった図鑑を、より楽しいものにしようと出版が企画されたものだった。そして当然のことながら、古代に生息した獣のことなど見たことがある人間などいない。そのためマグリアの研究者たちが現存する獣たちや、それまで行われた調査・研究をもとに、太古にはそういった獣がいたのではないかと想像を記したのだ。強い根拠を持ったものから突拍子もないものまで。
そうして原典が完成したときに、事件は起きた。
世に獣研究、未開の地探索の魅力を深く伝えたいという想いのせいなのか、原典から、想像された獣たちが姿をもって飛び出したのだ。
幸い犠牲者は出ず、獣たちは当時の警邏隊と魔導書館司書の活躍によって書物に戻された。そして封じられた。
「いくらあなたでも、獣相手は骨が折れるのではっ?」
ユフォンは魔素を綱にして、禁書に巻き付く鎖を掴むと、一気に引いて解き放った。
途端、猛獣の叫び、雄たけび、唸りが禁書館を恐々と震わせる。次の瞬間、魔素によって正気を失った想像上の獣たちが、溢れ出でた。
そのうちの一匹が口腔までびっしり並んだ牙を披露し、グースを食らおうとする。獲物にされたグースはすぐさま懐から大きな煌白布を広げた。
獣が布に飛び込み、消えた。食らおうとして、布に食われた。
だが獣は一匹ではない。
「ここはあなたの勝ちでいいでしょう、筆師。生きていれば次は私が勝ちますがね」
グースは獣に向けたものとは別の煌白布で自身を包んだ。それで禁書迷宮から跡形もなく消えた。
そうなると残るのはユフォンだけ。瞬間移動はできない。戦いに気を向けたことで、直線にいながら迷った状態だ。
禁書庫を満杯にするほどの異形の動物たちが所狭しと蠢き、互いに傷つけあう。何頭かはそれで気が逸れているようだが、大半がユフォンに対してぎらついた目を向けていた。
「ははっ……ごめんなさいサパルさん!」
ユフォンは鍵を回す想像をした。回す鍵は彼の内に宿る七封鍵が一本『名無しの鍵』だ。
概念を閉じる。
食べるという概念を、閉じる。
それで獣たちから食欲がなくなった。獲物を狩って命を繋ぐという考えがなくなった。あとは本に戻して、それから概念を戻せばサパルも許してくれるだろう。いや、そもそも使ったことは気づかれないか。ユフォンがそう思っていた矢先、紙が破れる音がした。次いで破裂音がユフォンの耳に届いた時には、彼は獣たちの雪崩に飲み込まれていた。
爪か、牙か、鱗か、はたまた甲羅かなにかか。
ユフォンは強く頭を打って気を失った。
闇の中。
碧き閃きが眩く彼の目に飛び込んできた。
ユフォンは手を伸ばした。
しかし眩しいと感じるほどの光に、手は届かなかった。
彼はさらに手を伸ばす。力いっぱい手を伸ばす。
駄目だった。
光は遠ざかっていく。
足掻いても遠ざかっていくばかりで、ユフォンは喪失感を突き付けられた。
「セラっ!」
意識を取り戻したユフォンは天に向かって伸ばした手を強く握っていた。その指には碧き宝石の指輪が。
なかった。
まだ組んず解れつ、獣たちに運ばれていた。いったいどれくらい時間が経ったのだろうか。
「あぁーっ! セラ!」
ユフォンは悲愴一色で辺りを見回した。獣たちも、その隙間から見える床も見える限り全てを見た。
それでも。
なかった。
左手を右手で包み込む。
形あるものが大事なのではない、大事なのは想いだ。そう言ってしまえれば、どれだけいいか。
きっと彼女も怒りはしないだろう。
それでもユフォンは自分が許せなかった。
朱と碧。
ちゃんと意味があるものなのだ。形あるものとしてそこにあることに、意味があった。
喪失感は膨れるばかり。ただふと彼は思う。
この喪失感はなにか違う気がすると、理由はわからなかったが、そう思った途端ユフォンの胸は騒いだ。
会いたい。
ユフォンは一度手を強く握りこむと、懐を探った。取り出したのはジュンバーの手帳だ。
獣たちが急に溢れ出した現状。きっかけを目にしたわけではないが、音は聞いた。禁書が、そう、形を失ったのだ。
それが正しい解放の方法かどうかなんて彼にはわからなかった。それでも彼は思いっきり、手帳を捻った。しかし存外にまとまった紙は強固だった。破れそうにないと判断したユフォンは、魔素を炎へと変え、手帳を燃やした。
吟詠ぎんえい酒場のテラス。
初めてセラとお酒を飲んだあの夜が、ユフォンの脳裏に浮かぶ。
全くと言っていいほどマカを使えなかったあの日の筆師は、こんな日が来ることを予想していただろうか。
恋も、友情も、冒険も。
彼女と出逢えたからこそだ。
セラとの出逢いはなにものにも代え難い、幸運なのだ。
それは手放してはならないものなのだ。
それなのに、いまユフォンの心を襲う指輪以上の喪失感。指輪はなにかの暗示のように、思えてしまう。
例えば、液状人間にホワッグマーラが乗っ取られたとき。あの時セラがユフォンの置手紙を、彼が捨ててもいいと言ったにも関わらず、彼女は手紙を取っておいた。それが後々に『名無しの鍵』が宿っていたものだったと判明した。
例えば、ホワッグマーラがズーデルたちに襲撃されたとき。あの時ユフォンは、セラの死を胸騒ぎとして感じ取った。
つまりはこの喪失感は、セラに関するユフォンの勘と言ってよかった。
勘は必ずしも当たるものではない。しかし、そのものに関して多くの知識や想いがあれば、その精度は高まる。セラを想えばこその勘、だがこればっかりは当たってほしくなかった。
早くセラと会わなければ。会って安心させてもらわなければ。
ユフォンの想いを種に手帳は燃え上がり、ついに形を保てなくなった。すると、手帳だった燃えかすから彼の親友は姿を現した。
この状況を収められるのは、フェズルシィ・クロガテラーだ。
ホワッグマーラには各都市ごとに、その近辺に存在する未開の地で確認された獣たちをまとめた図鑑が存在する。これらはそういった獣たちの情報をまとめることで、開拓士団がより安全に未開の地の探索を行えるようにと作成された。今では当初の目的から外れ、一般市民の子供たちの娯楽なんかとしても広く知られた書物だ。
そんな図鑑の中で唯一、古代種編だけが禁書となっているのには当然理由がある。
この巻だけ、想像で書かれている。
この巻は子供たちの知的な娯楽となった図鑑を、より楽しいものにしようと出版が企画されたものだった。そして当然のことながら、古代に生息した獣のことなど見たことがある人間などいない。そのためマグリアの研究者たちが現存する獣たちや、それまで行われた調査・研究をもとに、太古にはそういった獣がいたのではないかと想像を記したのだ。強い根拠を持ったものから突拍子もないものまで。
そうして原典が完成したときに、事件は起きた。
世に獣研究、未開の地探索の魅力を深く伝えたいという想いのせいなのか、原典から、想像された獣たちが姿をもって飛び出したのだ。
幸い犠牲者は出ず、獣たちは当時の警邏隊と魔導書館司書の活躍によって書物に戻された。そして封じられた。
「いくらあなたでも、獣相手は骨が折れるのではっ?」
ユフォンは魔素を綱にして、禁書に巻き付く鎖を掴むと、一気に引いて解き放った。
途端、猛獣の叫び、雄たけび、唸りが禁書館を恐々と震わせる。次の瞬間、魔素によって正気を失った想像上の獣たちが、溢れ出でた。
そのうちの一匹が口腔までびっしり並んだ牙を披露し、グースを食らおうとする。獲物にされたグースはすぐさま懐から大きな煌白布を広げた。
獣が布に飛び込み、消えた。食らおうとして、布に食われた。
だが獣は一匹ではない。
「ここはあなたの勝ちでいいでしょう、筆師。生きていれば次は私が勝ちますがね」
グースは獣に向けたものとは別の煌白布で自身を包んだ。それで禁書迷宮から跡形もなく消えた。
そうなると残るのはユフォンだけ。瞬間移動はできない。戦いに気を向けたことで、直線にいながら迷った状態だ。
禁書庫を満杯にするほどの異形の動物たちが所狭しと蠢き、互いに傷つけあう。何頭かはそれで気が逸れているようだが、大半がユフォンに対してぎらついた目を向けていた。
「ははっ……ごめんなさいサパルさん!」
ユフォンは鍵を回す想像をした。回す鍵は彼の内に宿る七封鍵が一本『名無しの鍵』だ。
概念を閉じる。
食べるという概念を、閉じる。
それで獣たちから食欲がなくなった。獲物を狩って命を繋ぐという考えがなくなった。あとは本に戻して、それから概念を戻せばサパルも許してくれるだろう。いや、そもそも使ったことは気づかれないか。ユフォンがそう思っていた矢先、紙が破れる音がした。次いで破裂音がユフォンの耳に届いた時には、彼は獣たちの雪崩に飲み込まれていた。
爪か、牙か、鱗か、はたまた甲羅かなにかか。
ユフォンは強く頭を打って気を失った。
闇の中。
碧き閃きが眩く彼の目に飛び込んできた。
ユフォンは手を伸ばした。
しかし眩しいと感じるほどの光に、手は届かなかった。
彼はさらに手を伸ばす。力いっぱい手を伸ばす。
駄目だった。
光は遠ざかっていく。
足掻いても遠ざかっていくばかりで、ユフォンは喪失感を突き付けられた。
「セラっ!」
意識を取り戻したユフォンは天に向かって伸ばした手を強く握っていた。その指には碧き宝石の指輪が。
なかった。
まだ組んず解れつ、獣たちに運ばれていた。いったいどれくらい時間が経ったのだろうか。
「あぁーっ! セラ!」
ユフォンは悲愴一色で辺りを見回した。獣たちも、その隙間から見える床も見える限り全てを見た。
それでも。
なかった。
左手を右手で包み込む。
形あるものが大事なのではない、大事なのは想いだ。そう言ってしまえれば、どれだけいいか。
きっと彼女も怒りはしないだろう。
それでもユフォンは自分が許せなかった。
朱と碧。
ちゃんと意味があるものなのだ。形あるものとしてそこにあることに、意味があった。
喪失感は膨れるばかり。ただふと彼は思う。
この喪失感はなにか違う気がすると、理由はわからなかったが、そう思った途端ユフォンの胸は騒いだ。
会いたい。
ユフォンは一度手を強く握りこむと、懐を探った。取り出したのはジュンバーの手帳だ。
獣たちが急に溢れ出した現状。きっかけを目にしたわけではないが、音は聞いた。禁書が、そう、形を失ったのだ。
それが正しい解放の方法かどうかなんて彼にはわからなかった。それでも彼は思いっきり、手帳を捻った。しかし存外にまとまった紙は強固だった。破れそうにないと判断したユフォンは、魔素を炎へと変え、手帳を燃やした。
吟詠ぎんえい酒場のテラス。
初めてセラとお酒を飲んだあの夜が、ユフォンの脳裏に浮かぶ。
全くと言っていいほどマカを使えなかったあの日の筆師は、こんな日が来ることを予想していただろうか。
恋も、友情も、冒険も。
彼女と出逢えたからこそだ。
セラとの出逢いはなにものにも代え難い、幸運なのだ。
それは手放してはならないものなのだ。
それなのに、いまユフォンの心を襲う指輪以上の喪失感。指輪はなにかの暗示のように、思えてしまう。
例えば、液状人間にホワッグマーラが乗っ取られたとき。あの時セラがユフォンの置手紙を、彼が捨ててもいいと言ったにも関わらず、彼女は手紙を取っておいた。それが後々に『名無しの鍵』が宿っていたものだったと判明した。
例えば、ホワッグマーラがズーデルたちに襲撃されたとき。あの時ユフォンは、セラの死を胸騒ぎとして感じ取った。
つまりはこの喪失感は、セラに関するユフォンの勘と言ってよかった。
勘は必ずしも当たるものではない。しかし、そのものに関して多くの知識や想いがあれば、その精度は高まる。セラを想えばこその勘、だがこればっかりは当たってほしくなかった。
早くセラと会わなければ。会って安心させてもらわなければ。
ユフォンの想いを種に手帳は燃え上がり、ついに形を保てなくなった。すると、手帳だった燃えかすから彼の親友は姿を現した。
この状況を収められるのは、フェズルシィ・クロガテラーだ。
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