碧き舞い花Ⅱ

御島いる

345:人の価値

「ああっ!」

 これまた呆気ない。あまりに戦いというものを舐めている。もしくはユフォンを舐めている。ジュンバーはその手に衝撃を甘受し、手帳を手放した。

 ユフォンは太ももの痛みを我慢し、駆け出す。手帳を奪えばこれ以上ジュンバーを相手にする必要もない。

「あっ! させるかよ!」

 痛んだ手を擦っていたジュンバーが、ユフォンが目の前を通るのを見て、やっと反応した。彼がユフォンの脚にしがみついた。それも怪我をしている右脚だ。きっと考えてではないだろうが。

「っぐ……」

「それは俺のだ。なに取ろうとしてんだよ」

「さっき言っただろ、フェズを返してもらうって。そんな記憶力じゃ物書きは務まらないよっ」

「うるせえな!」

「っつ!」

 ジュンバーはユフォンの太ももに羽ペンを突き立てた。

「八つ当たりもいいところだね……」

 言いながら、ユフォンは幽体を身体から出した。その幽体が手帳を拾い上げる。

「あ、くそ!」

 ジュンバーは羽ペンごとユフォンから離れ、幽体に飛び掛かる。それを幽体のユフォンはふわりと浮かび上がり躱した。そして悠々と本体に戻った。

 なにも掴めずに伏すジュンバー。そんな彼の前で止まる足があった。ユフォンは手帳を懐にしまい、戻ってきた男に顔を向ける。

「グース」

 名前を呼んだのはジュンバーだ。仲間を見上げる彼を、まるで仲間とも思っていないような冷たい眼差しでグースは見下していた。

「やはりあなたは連れてくるべきではなかった。たった一つ、世界に愛されし者を捕えておくことさえままならないとは。私の人を測る目もまだまだな」

 グースはしゃがみ、ジュンバーの持つ羽ペンを奪い取った。

「あ、おい。なにしやがる、グース!」

「あなたの手には余るものだ。私が使おう」

「ふざけんな、それは俺がヴェィル様から貰ったものだぞ! 返しやが、っぐ……」

 ジュンバーは立ち上がったグースに頭を踏みつけられ口を閉ざした。ユフォンはその光景にさすがに口を挟まざるを得なかった。

「グース。それはやりすぎなんじゃないかい? 仲間だろ?」

「筆師……残念だが、私と彼は仲間ではない。彼の役割はヴェィル様の存在を異空中に知らしめること。それはとうの昔に済んでいるのだよ。つまり、今ではなんの価値もない駒だ。生かして貰えているだけ感謝しなければいけないのだよ、彼は」

「ぐぁぁっ……」

 グースの力が増したのか、ジュンバーが苦痛の声を漏らす。

「しかしそのことを理解できていない。知性の欠片もない。ペンを持つに値しない存在だ。あなたもそう思っているのではないか、筆師」

 グースは羽ペンについたユフォンの血を取り出した布で拭いながら言った。その言葉に、ユフォンは沈黙を返すことしかできなかった。

 ジュンバーは確かに、筆を握りなにかを伝えようとすることに対して、そう強い想いを持っているわけではないだろう。だからこそ、真実ではない噂話で埋め尽くされた新聞を異空中にばら撒いていた。彼が求めていたのは、名声と富。もしくは、優越感だろう。

 ただ彼のその優越感は大衆に対してのみ意味を持っていた。本物の情報を持つ者の前では意味をなさないのだ。あることないことを書き連ねた新聞も、知る人が読めば嘘だとわかる。噂話と濁していたからこそ、当時、異空連盟は目を瞑っていたのだ。

「わざわざ答えるまでもない、ということでいいかな?」

「……確かに」ユフォンは踏まれるジュンバーを今一度見やる。「ジュンバーの書くこと、書いていたことは、下卑なことばかりだった。誰かを貶めようとしていたのが見え見えだった。僕もセラのことを悪く書かれたときは、怒ったしね。ただ、彼の情報収集能力と拡散力はずば抜けていた。もちろん根も葉もない、尾ひれのついたことも多かったけど、それでも異空連盟は彼の新聞社から『夜霧』の情報を貰うこともあった。あなたたちだって彼の情報の拡散力を買って利用したんでしょう」

「ええ。先ほども言いましたが」ジュンバーを踏みつけたまま、グースはペンを拭き終え、汚れた布を捨てる。「使い捨ての価値として、ですがね」

 ぐすっと、ジュンバーから鼻をすする音が聞こえた。ユフォンは拳を鳴らした。

「ジュンバーには筆を握る価値はないかもしれない。だけど、彼は頭を踏まれるような人間じゃない! 人の価値は決して一つじゃない!」

「その通りだ。利用価値は一つじゃない。それは私とて心得ているつもりだ。ふむ、頭を踏まれるような人間じゃない、ですか。そうですね、では私がこの羽ペンを彼よりうまく使えるということを試すため、利用させてもらいましょう。まだペン先にインクも残っていることですし」

 グースはジュンバーの頭の上から足を下ろし、再びしゃがみこんだ。そして彼の目の前の床にペンを走らせる。

「最後に身をもって知ってもらえば、返せとは言わないでしょう」

「やめ――」

 ジュンバーの必死の声が、ぱたりと途絶えた。

「失礼、言えない、が的確な言葉でしたね」

 倒れる彼の身体にどこか傷がついたような様子もない。なにより傷つけば、ジュンバーなら叫ぶだろう。急に声が途絶えるなんてまるで……。

 ユフォンは叫びながら魔素を放つ。「なんて書いた!」

 グースがユフォンの攻撃を避けるのを確認すると、ジュンバーに駆け寄る。そして彼の見開かれた目の前に書かれた言葉にユフォンは絶句した。

「この男は傷つけることしかできなかった」グースが淡々と説明する。「しかし私は命を一瞬で奪えるほどに使いこなせた。私が使うべきなのは自明の理でしょう」

『ジュンバー・ペルセスサス、絶命』

 床の白いレンガには、そう書かれていた。

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