少女の指先と虫

内野あきたけ

№0004

 


「……何をするの?」
「……おいしいのよ」




 彼女は、ついに少年の危惧していた行為を行ってしまった。虫の精液とバーミキュライトを絡めて食べるという、退廃的な行為を仲の良い男子の目の前で行ってしまったのだ。




 少年は声を失った。あまりの興奮に大きく開いた瞳孔を、少女は遠慮なく覗き込んでくる。その目は美しかった。


 その表情は可憐だった。少年は世界中の花束を彼女にあげたいと切に願った。


 しかし、そんな可憐で清らかな、孤高の少女の口の中には、舌と密接に絡み合うバーミキュライトと精液が混在しているのだ。


 空間全体を包み込むようなカオスが辺りに充満しているのだ。その絶望的な行為だけは、どうしても彼は理解する事ができなかった。


 だけれども彼女の唇が解き放っている清らかさは、その中に含まれている凄惨な状態をも感じさせないように艶やかだった。少女は精液とバーミキュライトを口内に絡めながら、ねっとりと味わうように咀嚼しているのである。


 少年は、そのうっとりとした表情を眺めて
「おいしいの?」と尋ねた。


「うん。おいしい。そうだ、アナタも食べる?」
「えっ。いや、僕は遠慮しておくよ」
「どうして?」


 痛々しいほど無垢な瞳で見つめてくる。


 彼は、ここで断ってしまっては今度こそ彼女を傷つけてしまうのではないだろうかと心配になって、それを受け入れる事にした。


「じゃあ、そうだね。少しいただこうかな」


 その言葉を発した後に、少女は少し困った表情を浮かべた。
「……誘っておいて悪いんだけど、やっぱり私、今夜の為にこの子たちの精液は取っておきたいな。だから、私の口の中にあるモノで許して」




 彼は、少女の言葉に耳を疑った。


 この言葉が意味するもの、それは凄惨で艶めかしい例のアレを、少女はまだ飲み込んではいないという事実。加えて、その口の中にあるモノは直後に、自分の元へと捧げられるという事実だった。彼の胸は高鳴った。




 虫の精液とバーミキュライトの残骸が、さらに少女の唾液と混ざりあって、唇の奥でより神々しさを放っていように思えた。
「いいよ。それでも」


 少年の心の中にあった淡い青春が磨かれて、光を放って行くような感覚になった。熱い、熱い欲情が彼の心の中をかき乱した。


 その感覚は、耐えられないような美しさと鮮やかさに包まれていて、先ほど感じた邪悪で凄惨な虫に対する衝撃を、すべて払拭するに等しかった。


「本当にいいの? 私は遠慮なんてしないよ」
「遠慮何て、僕には必要ないよ」


 彼は目の前の少女がいつにも増して繊細な佇まいをしている事に気が付いた。


 次の瞬間、いきなり少年を強引に抱き寄せて自分の清らかな唇を重ねると、その中に含まれていた精液とバーミキュライトの残留物を、少年の口の中に流し込んできたのだ。


 覚悟していた事とは言え、少年はその行為に驚愕した。顔が熱い、まぶたが熱い。胸が重い、呼吸が苦しい。そう彼は感じた。


 彼女の口の中に含まれている全ての残留物が、少年の元へと流れていった。彼は自分の口の中にバーミキュライトのざらざらと、虫の精液と、少女の唾液が交じり合った液体を痛烈に感じ取った。


 うっとりしながら見つめる視線の先には、口づけを終えたばかりの少女が虚ろな瞳で彼の方を見つめていた。


 少年は、今、自分の口の中にある液体の一部が少女の唾液である事に感銘していた。


「ねえ。私、アナタだからやったのよ。アナタは大丈夫な人だと思ったからしたの。普通の人にこんな事したら、嫌われちゃうでしょう?」


 実をいうと、少年は全く大丈夫ではなかった。むしろ、一般の人よりも数十倍の衝撃を受けたのではないかと思われるほど、気が動転していた。


 それに加えて、この得体の知れない虫が放つ精液が、人間にとって有毒なものかも知れないという心配に襲われた。


 しかし、彼は死んでも良いと思っていた。どれだけ有毒なモノだろうと、すべて飲み込んでやろうと決心した。


 少年は今後この瞬間以上の喜びを感じる事はできないのだと考えていたため、いつ死んでも悔いはなかったのだ。


 この狂気的で煽情的な感覚は未だに彼自身こそ信じられてはいなかった。でもこの感覚は少女に悟られまいと彼は必死に強がるのだ。


「そうかい? じゃあ僕は特別?」
「うん。特別」


 そういって彼女は天使のような微笑みを浮かべるのだ。
「ありがとう。でも、そろそろ時間かな。僕はもう帰ろうと思う」


 突然彼は別れを切り出した。この不自然な状況と彼女の眼差しに完全に心を打ち抜かれて、非日常の衝撃を今も感じ続けているから、少年はもうこの場に居ては自分の精神が持たないと思ったのだ。


「もういいの?」
 予想通り彼女は悲しそうな瞳をしていた。


「明日、学校で会おうよ」
 上目づかいで寂しそうに語り掛ける少女に少年は明るく答えた。


「ああ。また明日会おうよ」
 今日はこれでお開きとなった。


 少年は、今日、あの数時間の間に起こったすさまじい出来事に対して心の整理をする時間が欲しかった。だから、少女の家を足早に去って行った。


 彼女は少年の事を見送ってくれていた。


 今まであの凄惨さ漂う虫をいじくり回していたその指が、その白い可憐な指先が、彼に向けられてバイバイと振られている。


 少年は、足をガタつかせながら、心臓をまだバクバクと言わせながら、それを知られまいと満面の笑みを浮かべて、少女に手を振った。同じように、バイバイと。


 それから、しばらく彼は町をさまよっていた。彼は今までの人生の中で体験した事のないような動悸と、混乱と、未知なる青春を感じていた。


 その感覚を受け入れようと、心の整理を付けようと、ただひたすらに歩いた。春の空気と沈みゆく夕日を背中に感じながら、薄い街頭で照らされたコンクリートの道を歩いた。




 いつもと変わらない町並みだった。この辺りを包み込む空気も、形ばかりの街路樹も、自動販売機も看板も、昨日と表情ひとつ変えずに立っている。




 違うのは、少年の心の中だった。


 彼の心の中は晴嵐のように騒いでいた。
 少女の事で胸がいっぱいだったのだ。


 正直、彼にとってあの虫はさして問題ではなかった。それよりも気になるのは少女と虫の対比と例の行為である。


 彼女の虫に対する異常な愛情を目の前で見せられて、さらに男の欲情を最高にかき乱した挙句の、あの行為だ。




 今でも喉の奥に残っている繊細で艶美な破片が、彼の胸の血液を躍らせ続けている。



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