少女の指先と虫
№0001
「趣味が悪い……とか言わないでね」
放課後の教室で、少女は悲しそうな表情を浮かべながら少年に語り掛けた。
「私、環形動物に興味があるの」
「環形動物?」
言葉を濁したその声は、少年の心をくすぐるように純粋だった。
彼が聞き返すと、少女は少年の瞳をじっと見つめた。
「クネクネした虫」
二人は趣味の話をしていた。
少年が初めてこの少女をクラスの片隅で発見した時、その透き通る色白の肌と落ち着いた表情に心を吸い寄せられた。
決して飾らない純白の出で立ち。
まるで獣たちの群れにたった一匹、冷えた目をしたユリカモメが佇んでいるみたいな独特の雰囲気があったのだ。
彼は以前から、この少女の生きる事を諦めたかのような瞳がたまらなく気になってしまって、距離を縮めたくて、できるだけ会話を途絶えさせないようにと試みていたのである。
十四歳の春の季節の事である。入学当初から二人は同じクラスだったので、少年は頻繁に話しかけてノートを見せてもらったり、テストの内容なんかについて質問したりした。
最初は高嶺の花だろうと感じていた。けれども周りの雰囲気をよく見ていると、特別に彼女が持ち上げられている様子なんか無い事に気が付き拍子抜けした。
そして彼女は比較的地味な部類として認識されているのだなと確信した時、なぜか一人だけ勝ち誇った優雅な気分を感じていたのだ。
事実、男子たちは誰の目にも明らかな美人を狙っていた。マスクで顔を隠して、口数が少なく、目立たない人材に声を掛けるのは相当のもの好きだと思っていたのだ。
例えそれが、孤高に輝くアメジストの原石だろうと男子たちは見向きもしない。ただの炭であった物を圧縮し、表面を雑に削って造形したような人口のダイヤに目が惹かれてしまう、そういう性をしているのである。
この事実にいち早く気付いた少年は、いつしか他愛もない話ができる友達という関係にまで上り詰めていた。
教室の片隅でぽつりと輝くアメジストを発見した事に、少年は深い喜びを感じていた。
「ミミズやゴカイなんかの、クネクネした虫がすごく好きなの」
「へえ。可愛いなとか思ったりするの?」
「……うん、ものすごく可愛い。家では二匹飼っているの。この話をするとみんな気持ち悪いとかいうけれど、私は……あの子たちが可愛くてたまらないわ」
この少女は普段、表情があまり豊な方ではない。たまに本当に喜怒哀楽があるのかなあ、と考えてしまうほど落ち着いていた。決して暗いわけではない。
けれども、顔の筋肉がそういうふうに固まってしまっているだけであって、感情の変化は人並みにあるのだなあと、少年は理解していた。
「僕、今までミミズみたいな軟体動物には興味なかったけど、君が飼っているなら少し見てみたいな」
「ミミズは軟体動物じゃないよ」
「えっ。そうなの?」
「勘違いされがちだけど、正確には環形動物ね」
「へえ。詳しいんだね」
「私、品種についても勉強しているの、何回か交配させて新品種を作る実験をしているんだ」
少年は思った。今までは普通の女の子として接してきたけれど意外と人って、変わった趣味を持っている事もあるんだな、見た目からは想像できないな、と。
「ねえ。よかったら私の家に来ない? ぜひ見てほしい子がいるの」
そう言われると少年の胸が躍った。少女の家に足を踏み入れる事ができるかもしれない状況は、嬉しかった。
「いいよ。行きたい! 虫も見させてよ」
「じゃあ、一緒に帰ろうよ」
少年は、少女との距離を大きく縮められる事を非常に喜んでいた。
でも実際は、彼女の飼っている虫の事なんてどうでもよかった。
とりあえず、彼女との共通の話題を見つけてこの関係をより密なものへと変えたかったのである。
その後二人は人目を気にしながら学校を出て行った。
桜の花びらはもう落ちてしまったが、それでも明らかな春の暖かさが、生徒たちを包み込んでいる。
柔らかい風が吹いて、花壇に咲いている花と少女の頬をかすめて、少年の肺に吸い込まれた。
肺をつたって全身を巡るこの柔らかさが彼にとって非常に心地良かった。少年はこの些細な幸せをいつまででも噛みしめていたいと願った。
そうして二人が肩を並べて歩く姿は、純粋な恋愛感情さえうかがう事ができた。
道の途中には、小さな教会がある。
建物より高く建つ巨大な十字架は、住宅街の片隅に紛れ込んでしまっていて目立たない。彼女がこの場所でふと足を止めたので、少年は問いかけた。
「カトリック?」
「ここ、宗派は分からないけど私はいつもお祈りをする事にしているの。キリスト教徒じゃないんだけどね。私」
少年はその純粋で可愛らしい微笑みに見とれて、心が洗われる気分になった。
「お祈りか。僕もやろう」
手を合わせつつ、少年が手を二回叩いてお辞儀をしたので少女は「それは、神社の参拝のやり方よ」と言ってまた笑った。
彼はしくじったと思いつつも少女が楽しそうにしているので、自分自身も暖かい気持ちになった。それから、目的地に着くまで数分とはかからなかった。
「着いたよ。ここが私の家」
そのアパートの外装から察するに、多分新築だろうと予想できた。
表面には綺麗な赤レンガ並べられている。少年は、少女が飼っている虫を見る為という事でもあったが、何より彼女との距離を縮めたかった。
どうしても彼女を手に入れたかった。虚ろな瞳の奥にある小さな心を自分のものにしたかったのだ。あわよくば「何かが起きてくれないかな」という漠然とした淡い期待を描いて、足を進めた。
「お邪魔します」
部屋に上がると、些細だが土の香りが漂っていた。
果樹園を連想させるその微かな匂いはどこか湿っていて、それでいて周りの空気はジメジメとはしていなかった。
また、妙に埃っぽさもあるから、少年を不思議な感覚にさせた。彼はこの匂いについて彼女に質問しようかと思った。
でも失礼になるかもしれないという不安がよぎるので、それは飲み込んだ。
「今、だれも居ないからくつろいでね」
「ありがとう」
彼はソファーに腰かけた。
彼女はキッチンの方向に歩いて行って、冷蔵庫を開けた。
「お茶か牛乳、あといちごミルク、どれがいい?」
「じゃあ、いちごミルクで」
少女はマグカップを用意した。用意してから
「紙コップもあるんだけど」と何かを気にかけている様子だったので、少年は
「そこまで潔癖症じゃないよ」とほほ笑んだ。
彼の目の前で、いちごミルクを注ぎながら彼女は語る。
「いちごミルクに使われているこのピンク色の色素、何かわかる?」
「えっ。着色料とかじゃないの?」
「それがね。その着色料、虫から作られているの。カイガラムシやエンジムシから取れる色素がコチニール色素なのよ」
少年はつくづく、この子は虫が好きなんだなあと感じた。
「なるほどね」
少年はしばらく少女と雑談をすると、さっそく虫を見ようという話になった。
「来る? じゃあ、着いてきて」
二人は立ち上がった。少年は虫には全然興味がなかったけれど、それ以上に彼女の事が気になっていたので、これを機に環形動物についての知識を深めようと心に決めた。
「ここが私の部屋よ」
彼は女の子の部屋という場所に、ちょっと期待を抱いていたけれど少し想像と違った。
その場所は広かった。
一見すると理科の実験室のようだとも感じられる。
「広いんだね。ここ、一人で使っているの?」
「親は仕事が忙しくてめったに帰ってこないし、それに、あまり人を入れないから。そう、貴方が初めてのお客さんだよ」
そんな事を言われて少年は少し嬉しい気分になった。なんだか、自分が特別であると言ってくれているような気がしたからだ。
「ねね。そんな事よりさ、私の子たちを見てよ」
その少し興奮した表情を見て、少女が自分の虫たちにどれほど愛情を注いでいるのかが感じ取れた。
目の前には大きな虫かごがあった。
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