田舎娘、マヤ・パラディール! 深淵を覗きこむ!
第二章:その五 ソドム:うたかたの……
ロビーは各宿泊棟に一つずつあり、暖かな照明に照らされた落ち着いた空間だった。静けさが満ち、数名の男女が、脇に設置してあるカウンターで、バーテンから酒を振る舞われていた。中央にはゆったりしたソファが幾つもあり。壮年の男性が一人、酒を飲みながら煙草をくゆらせている。
ジャンとヨハンセンは、カウンターとは反対側の壁にもたれて談笑していた。最近のヨーロッパ事情をジャンから聞いていたヨハンセンは、いやはやと大げさに溜息をついた。
「まったく戦争の臭いは中々消えんなあ! 春はいつ来るのやら……俺達も陸が恋しいよ」
「あんたなら、陸でもやっていけると思うがな」
「かもしれん。ところで春と言えば……ジャンよ、お前にも春が来たな!」
ジャンは、はあと間抜けな声を出した。
「何を言ってるんだ、お前は?」
ヨハンセンはにやりと笑うと、ジャンの腹をつついた。
「惚けるなよ! 素敵な恋人じゃないか! いや、俺は友人として嬉しいよ! 後でお前の部屋に夜会用の服を届けるとしよう! その服じゃ、幾らなんでも――」
「いや、服は自前を持ってきているから結構だ……。もしかしなくてもマヤの事か?
違うぞ。彼女は仕事でだな……」
「ああ、聞いたよ。でも助手じゃないんだろ? 俺に嘘はよくないぞ! 大体お前、凄く嬉しそうじゃないか!」
「だ、だから、何を言ってるんだ、お前は!?」
ソファに座った男性が、ふふっと小さく笑うと、煙をふうと吹く。
「手品師殿は、自分の感情を消失させるのは得意ではないとみえるね」
ヨハンセンがうまい! と拍手をする。ジャンは口をパクパクとさせ、頭を振った。
「いや、まったくそんなことはない。大体、俺みたいな不細工に恋人なんて、笑い話――」
「こらこら、男は顔じゃないぞ、俺を見ろ、問題はハートだよ!」
ドヤ顔のヨハンセンにジャンは閉口する。ソファの男性がおっと声をあげた。
「君、手品師。あれは君の恋人じゃないか?」
振り返って宿泊棟に繋がる階段を見上げたジャンは、ぎょっとして固まった。
マヤが着ているのは薄いピンク地で、蘭の花をイメージした、ちょっと古い型のイブニングドレスを改造したものだった。背中と胸元が大きく開き、横についたスリットから健康的な足がのぞいていた。真っ赤な顔で、スカートを両手でつまむと、ちょこちょこと階段を降りてくる。絶句していたジャンはヨハンセンにつつかれ、目を瞬かせた。
目の前に立ったマヤをじっくりと下から上にと目を走らせる。マヤは恥ずかしそうに身をよじった。
「親父のプレゼントだって。あと金庫にたくさんお金が入ってた」
「そ、そうか……」
「あ、あんまりジロジロ見ないでほしいといいますか……恥ずかしいといいますか……」
「あ……あ! いや、すまん!」
「……で、どう?」
ジャンは体をびくつかせ、一歩後ずさる。
「ニゲルなよ、ジャン」
ジャンは耳元のガンマを掴むと襟に押し込み、ううっと呻くと、マヤの顔を見た。
「……似合っている、と思う」
マヤはぱっと明るい笑顔をした。
「本当に!? はは、いや~正直あたしっぽくないな~なんて思ってたんだけど、似合ってんならいいや! どう? どのくらい淑女してる?」
ヨハンセンが台無しだという顔をした。ジャンが肩を竦めた。
「凄い凄い。淑女すぎて目がつぶれそう」
「ちゃんと褒めろよ~。つまんねえなあ」
「いやいや、ちゃんと褒めたろうが。
ところで、マヤ、そんなドレス着ていたら、その……カレー料理が食えないんじゃないか?」
マヤはげっと言う顔をし、慌てて辺りを見渡し、ソファに座る男性の前に置いてあったナプキンを一枚取ると、首に結び付ける。
「これで、よし……」
ソファに座った男性が酒を吹き、ジャンが悲鳴を上げた。
「やめてくれ、並んで歩くのが恥ずかしいわ!」
「だまらっしゃい! さ、カレー食べにいこうよ」
「おい、それは後だろ」
ジャンはマヤの耳元に顔を近づけると、声を潜めた。
「で、親父はいなかったんだな?」
マヤもひそひそと返す。
「ああ。手紙すらないんだよ! お金とドレスだけが部屋にあってさ、正直気味が悪くて。お金が本当にあたしの物なのかも疑わしいと思わない?」
「なら、執行部に行って確かめてみないか? あの招待状を出したのは執行部だったろ」
ジャンの提案にマヤは頷いた。
「さっきヨハンさんから聞いて、あたしも行こうって思ってた。ヴィルジニーって名前の部長さんもいるらしい」
「本当か! で、それは――」
「いや、あたしの夢のヴィルジニーは、その部長さんと年齢が違うんだなあ」
「ふーむ……」
マヤは姿勢を正すと、声を元の調子に戻した。
「で、行く前にカレーを食べようと思って――」
「却下だ。カレーの匂いをさせながら真面目な話はできん」
「じゃあ、カレーの匂いが取れてから行くという事で――」
「おいおいおい! なんなんだ君達は!? デートではなくカレーの話ばかりして! 聞いてるだけで、酒と煙草からカレーの匂いがしてきそうだ!」
ソファの男性が素っ頓狂な声をあげ立ち上がった。呆れた顔でジャンとマヤを見ている。
「デートならば、もっと匂いのしないものを食べに行きたまえ!」
ジャンが慌てて手を振って否定する。
「我々は本当に、そういうのではないのです! ゆ……友人です!」
マヤもうんうんと頷く。
男性は天井を仰ぎ、呻いた。
「何と言う説得力のなさ! 誰が見たって君達の間に流れている見えないそれは――いや、皆まで言うまい! だがね、君たち、人が出会って恋に落ちるのは自然な事だよ。後悔しないよう生きなくてはならない。
マイヤーリング事件をご存知かな?」
ジャンはいきなりの言葉に目を白黒させ、はあ、まあと答えた。
「確か……オーストリア皇太子の情死事件でしたな。暗殺の噂もありましたかな」
男性は、空のグラスを持ちあげると、ヨハンセンにおかわりを要求した。ヨハンセンが走っていくと、男性はジャンに向き直る。
「私はあれを題材に小説を書いていてね、完成させようと、ここに籠って数年、ようやく私にも幸運が向いてきたというわけだ! 君達には何かを感じるぞ! 恋愛は後悔してはいけないよ! 例え惨敗しようともね! ああ、何かが再び湧いてきた!」
「そ、そりゃ、良かったですなあ」
男性はマヤに振り返る。
「お嬢さんも! 若いうちの激情って奴は、愚かだけど尊いもの! 泡のように、消えゆく一瞬にこそ価値があるのだ! そう、例えば、来週の月曜に約束をしても、『暗い日曜日』が来れば、月曜は来ないのだよ!」
「は、はあ?」
「つまり! そのドレスは素晴らしい! 退廃的で劣情を催す! 簡単に言うと、大変いやらしい!! どうだ、こういう風に褒めればよいのだ、手品師!」
マヤは顔を歪めて、ゆっくりとジャンの後ろに隠れた。
「そ、そういう評価はいらないと思うのでありますが……」
ヨハンセンが、銀のトレイにボトルを乗せ、小走りで戻ってきた。
「クロード様! あ、いや、シェイファー様!」
「良い所に来たヨハンセン君! ようやくサービスキープだ! 大量の紙を持ってきてくれよ! インクもだ!」
男はヨハンセンを従えて、鼻歌を歌いながら階段を大股で登って行ってしまった。
取り残された二人は顔を見合わせる。
「……なんなの、あれ?」
「……どうやら俺達はミューズの女神ってとこらしい」
「はーん……。よくわからんが、カレーの匂い漂う小説じゃない事を祈るね」
マヤの言葉にジャンはにやりと笑った。
ジャンとヨハンセンは、カウンターとは反対側の壁にもたれて談笑していた。最近のヨーロッパ事情をジャンから聞いていたヨハンセンは、いやはやと大げさに溜息をついた。
「まったく戦争の臭いは中々消えんなあ! 春はいつ来るのやら……俺達も陸が恋しいよ」
「あんたなら、陸でもやっていけると思うがな」
「かもしれん。ところで春と言えば……ジャンよ、お前にも春が来たな!」
ジャンは、はあと間抜けな声を出した。
「何を言ってるんだ、お前は?」
ヨハンセンはにやりと笑うと、ジャンの腹をつついた。
「惚けるなよ! 素敵な恋人じゃないか! いや、俺は友人として嬉しいよ! 後でお前の部屋に夜会用の服を届けるとしよう! その服じゃ、幾らなんでも――」
「いや、服は自前を持ってきているから結構だ……。もしかしなくてもマヤの事か?
違うぞ。彼女は仕事でだな……」
「ああ、聞いたよ。でも助手じゃないんだろ? 俺に嘘はよくないぞ! 大体お前、凄く嬉しそうじゃないか!」
「だ、だから、何を言ってるんだ、お前は!?」
ソファに座った男性が、ふふっと小さく笑うと、煙をふうと吹く。
「手品師殿は、自分の感情を消失させるのは得意ではないとみえるね」
ヨハンセンがうまい! と拍手をする。ジャンは口をパクパクとさせ、頭を振った。
「いや、まったくそんなことはない。大体、俺みたいな不細工に恋人なんて、笑い話――」
「こらこら、男は顔じゃないぞ、俺を見ろ、問題はハートだよ!」
ドヤ顔のヨハンセンにジャンは閉口する。ソファの男性がおっと声をあげた。
「君、手品師。あれは君の恋人じゃないか?」
振り返って宿泊棟に繋がる階段を見上げたジャンは、ぎょっとして固まった。
マヤが着ているのは薄いピンク地で、蘭の花をイメージした、ちょっと古い型のイブニングドレスを改造したものだった。背中と胸元が大きく開き、横についたスリットから健康的な足がのぞいていた。真っ赤な顔で、スカートを両手でつまむと、ちょこちょこと階段を降りてくる。絶句していたジャンはヨハンセンにつつかれ、目を瞬かせた。
目の前に立ったマヤをじっくりと下から上にと目を走らせる。マヤは恥ずかしそうに身をよじった。
「親父のプレゼントだって。あと金庫にたくさんお金が入ってた」
「そ、そうか……」
「あ、あんまりジロジロ見ないでほしいといいますか……恥ずかしいといいますか……」
「あ……あ! いや、すまん!」
「……で、どう?」
ジャンは体をびくつかせ、一歩後ずさる。
「ニゲルなよ、ジャン」
ジャンは耳元のガンマを掴むと襟に押し込み、ううっと呻くと、マヤの顔を見た。
「……似合っている、と思う」
マヤはぱっと明るい笑顔をした。
「本当に!? はは、いや~正直あたしっぽくないな~なんて思ってたんだけど、似合ってんならいいや! どう? どのくらい淑女してる?」
ヨハンセンが台無しだという顔をした。ジャンが肩を竦めた。
「凄い凄い。淑女すぎて目がつぶれそう」
「ちゃんと褒めろよ~。つまんねえなあ」
「いやいや、ちゃんと褒めたろうが。
ところで、マヤ、そんなドレス着ていたら、その……カレー料理が食えないんじゃないか?」
マヤはげっと言う顔をし、慌てて辺りを見渡し、ソファに座る男性の前に置いてあったナプキンを一枚取ると、首に結び付ける。
「これで、よし……」
ソファに座った男性が酒を吹き、ジャンが悲鳴を上げた。
「やめてくれ、並んで歩くのが恥ずかしいわ!」
「だまらっしゃい! さ、カレー食べにいこうよ」
「おい、それは後だろ」
ジャンはマヤの耳元に顔を近づけると、声を潜めた。
「で、親父はいなかったんだな?」
マヤもひそひそと返す。
「ああ。手紙すらないんだよ! お金とドレスだけが部屋にあってさ、正直気味が悪くて。お金が本当にあたしの物なのかも疑わしいと思わない?」
「なら、執行部に行って確かめてみないか? あの招待状を出したのは執行部だったろ」
ジャンの提案にマヤは頷いた。
「さっきヨハンさんから聞いて、あたしも行こうって思ってた。ヴィルジニーって名前の部長さんもいるらしい」
「本当か! で、それは――」
「いや、あたしの夢のヴィルジニーは、その部長さんと年齢が違うんだなあ」
「ふーむ……」
マヤは姿勢を正すと、声を元の調子に戻した。
「で、行く前にカレーを食べようと思って――」
「却下だ。カレーの匂いをさせながら真面目な話はできん」
「じゃあ、カレーの匂いが取れてから行くという事で――」
「おいおいおい! なんなんだ君達は!? デートではなくカレーの話ばかりして! 聞いてるだけで、酒と煙草からカレーの匂いがしてきそうだ!」
ソファの男性が素っ頓狂な声をあげ立ち上がった。呆れた顔でジャンとマヤを見ている。
「デートならば、もっと匂いのしないものを食べに行きたまえ!」
ジャンが慌てて手を振って否定する。
「我々は本当に、そういうのではないのです! ゆ……友人です!」
マヤもうんうんと頷く。
男性は天井を仰ぎ、呻いた。
「何と言う説得力のなさ! 誰が見たって君達の間に流れている見えないそれは――いや、皆まで言うまい! だがね、君たち、人が出会って恋に落ちるのは自然な事だよ。後悔しないよう生きなくてはならない。
マイヤーリング事件をご存知かな?」
ジャンはいきなりの言葉に目を白黒させ、はあ、まあと答えた。
「確か……オーストリア皇太子の情死事件でしたな。暗殺の噂もありましたかな」
男性は、空のグラスを持ちあげると、ヨハンセンにおかわりを要求した。ヨハンセンが走っていくと、男性はジャンに向き直る。
「私はあれを題材に小説を書いていてね、完成させようと、ここに籠って数年、ようやく私にも幸運が向いてきたというわけだ! 君達には何かを感じるぞ! 恋愛は後悔してはいけないよ! 例え惨敗しようともね! ああ、何かが再び湧いてきた!」
「そ、そりゃ、良かったですなあ」
男性はマヤに振り返る。
「お嬢さんも! 若いうちの激情って奴は、愚かだけど尊いもの! 泡のように、消えゆく一瞬にこそ価値があるのだ! そう、例えば、来週の月曜に約束をしても、『暗い日曜日』が来れば、月曜は来ないのだよ!」
「は、はあ?」
「つまり! そのドレスは素晴らしい! 退廃的で劣情を催す! 簡単に言うと、大変いやらしい!! どうだ、こういう風に褒めればよいのだ、手品師!」
マヤは顔を歪めて、ゆっくりとジャンの後ろに隠れた。
「そ、そういう評価はいらないと思うのでありますが……」
ヨハンセンが、銀のトレイにボトルを乗せ、小走りで戻ってきた。
「クロード様! あ、いや、シェイファー様!」
「良い所に来たヨハンセン君! ようやくサービスキープだ! 大量の紙を持ってきてくれよ! インクもだ!」
男はヨハンセンを従えて、鼻歌を歌いながら階段を大股で登って行ってしまった。
取り残された二人は顔を見合わせる。
「……なんなの、あれ?」
「……どうやら俺達はミューズの女神ってとこらしい」
「はーん……。よくわからんが、カレーの匂い漂う小説じゃない事を祈るね」
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