気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

117

 祐樹が僅かに表情を強張らせている。
 ごくごく些細な変化なので、柏木先生とか黒木准教授なども気付かない程度だろうけれども、祐樹をずっと見て来た自分だからこそ分かってしまう。
 いくら二人のお気に入りとはいえリッツに来たのは早計だったかと思いながらホテルマンにクラブフロア宿泊の旨を伝えた。
 クラブフロアは専用の鍵がないとエレベーターすら停まらない仕組みになっている。
 そしてクラブラウンジフロアにエレベーターが静かに停まって、扉が開いた。
 何時ものようにチェックインカウンターに向かおうと祐樹の表情をそっと窺うと、ある一点を――端っこの目立たない席だったので、多分呉先生が森技官を通じて教えてくれた元研修医が座り続けた席だろう――凄惨な事故現場の傷跡も生々しい道路を見るような眼差しで見詰めている、呼吸すらも忘れて。
 やはり祐樹はあの「事件」のことで自責の念を強く持っているのだなと、そして自分なら大丈夫だからと言いたかったけれども、あの元研修医にむちゃくちゃに押し付けられた熱くて硬いモノの恐怖と、そして腱の上にメスを突きたてられそうになった時のことが――後者は大丈夫だろうが――その恐怖がフラッシュバックしないという保証もないので言い切ってしまうことが出来ないのが自分でも歯がゆく思った。
「祐樹、どうした?ああ、あのサーモンのムースが気になるのか?」
 祐樹が凝視しているテーブルにはアメリカ人と思しきご夫婦が座っていて、大食漢という感じでテーブルの上に所狭しと料理を載せていた。
 その中で一番祐樹が好きそうな物を選んでそう言ってみた。
 すると、祐樹は我に返った感じでこちらを向いてくれたものの普段の笑顔ではなかった。
 太陽の輝きというよりも月の蒼褪めた光りのような気がして背中に冷や汗が伝うのを感じた。
 このホテルに来たのは早計だったのかも知れない。いくら第二の愛の巣とも言うべき二人とも気に入っているホテルだったが、気分転換も兼ねて他の同格のホテルでも良かったのではないかと思ってしまう。
「ええ、あのサーモンのムースの塩加減が最高だったなと思って見ていました」
 祐樹が無理に笑っているのが分かる感じの表情で答えてくれた。
「チェックインは、お願いしても良いか?その代わり、中華も鉄板焼きも私が払うので」
 デートの場合、特別なことが無い限り割り勘にしている。
 このホテルのクラブフロアに泊まる料金と、一食分の食事代が同じ程度だ。
 ただ、祐樹に「事故現場」を見せておくよりも、チェックインの顔見知りにスタッフと話していた方が気も紛れるだろうし。
 そして。

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