気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

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 祐樹の愛情は――特別な関係になってからも長い間、完全に信じてはいなかった。というよりも人の気持ちのように数値化出来ない上に気が変わることも良く有ると思っていたという側面もあって。ただ、その南極の氷のように厚く頑なな気持ちを気長に溶かしてくれたので――不動のモノだと実感はしていた。
 だから、元研修医に物凄く嫌だし考えたくもなかったが後までされたとしても、祐樹は仕方ないものとして受け入れてくれたと思う。
 祐樹の愛情を微塵も疑う積りはない。それは自信を持って断言出来る。
 ただ、身体に「そういう」行為をされたという忌まわしい記憶は絶対にフラッシュバックとして蘇ってきてしまうだろう。不幸中の幸いだったが、最後までされたわけではなかったものの。ただ、門の周りを力任せに押し当てられた時の恐怖はまだ消えていない。
 そして、メスを腱の上に置かれた時の恐怖は今思い出しても身体が震えるくらいの恐怖だった。
 祐樹に愛されている自分という自信は有ったし、それは今も疑っていない。しかし、身体に与えられる恐怖というのは理性では制御出来ないのがもどかしい。
 そして、自分の(ちっぽけな)プライドは二つしかない。その二つは二輪車のようなもので、どちらかが欠けてしまえば自分が自分でなくなるような気がした。
 一つは祐樹に愛されているということで、もう一つは手技が普通の外科医よりも優れているということで、腱断絶ということにでもなれば、自分のアメリカの恩師でもあるゴールドスミス博士のように、現役引退を余儀なくされてしまう。今は、後進の指導に注力していらっしゃるようだが――そして事故当初は執刀医が自分に回ってきたこともあって、そちらの方に全神経と体力を向けていたので博士のことまで頭が回らなかったのも事実だったしお見舞いに行くこともままならなかった、今思えば非常に薄情なことでもある――当時は抑うつ状態と診断されたと聞いていた。
 自分も外科医としてはこれからが脂の乗り切った時期とも言われる年齢なだけに、元研修医に腱断絶などをされてしまうと抑うつ状態どころではないほどの精神的なショックを受けただろうと思う。
 祐樹を始めとして色々な人の尽力の賜物で、そういう事態は免れて本当に感謝してもしきれないのも事実だったが。
 そんなことを考えていると、祐樹が憂いを帯びた眼差しで自分を見ていた。
 慌てて笑みを取り繕ってしまったが。
「マツタケにも催淫効果が有れば良いな。どう考えても上海ガニにはそういうのはなさそうなので。
 お肉と赤ワインそして、マツタケを食べてから部屋に行こうか?」
 すると。

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