気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

103

「ただ今」
 何となく習慣で答える人間など居ないと分かっている玄関に声を掛けた。
 ただ、灯りが点いているのを不審に思いながら。
「お帰りなさい。未だ外は暑かったでしょう?夕立には降られませんでしたか?」
 祐樹の笑顔で迎えられて立ち竦んでしまった。
「ただ今。祐樹、今日は救急救命室では?」
 そうと分かっていたら早く帰宅したのにと思いつつ、玄関先で口づけを交わした。
 指の付け根まで絡めあわせつつ、そして唇と舌でお互いの存在を確認するように甘く深くなっていくキスに煙草の香りが混じっている。
「北教授が久々に現場の指揮を執るとかで……。だから、一人余った私は帰宅するようにと突然言われました。
 まあ、休める時には休もうかと思いまして。
 貴方の帰りを待ちながら夕食を作るのも良いかなと。
 味は保証出来ませんが、ね」
 多分、病院長から北教授に「密命」でも下りたのだろうな……と思ってしまう。
 北教授もスタンガンを――「一応」命の危険が「ほぼ」ないとは言われているが、運が悪い人も報告されているのも事実だった――元研修医に当てられた被害者の一人なので「事件」のことはかなり詳しく知っている人だった。
 そして、白河「教授」も、学生時代の自分のように救急救命室に修業に来ていたという過去まで有ったらしいと祐樹に聞いていた。時期がずれているので全く顔を合せなかったが。
 だから北教授の陣頭指揮を執るという名目の「祐樹を休ませる」日なのだろう。
 それならそうと斉藤病院長から――北教授と異なって祐樹と自分の本当の仲を知っている――何か言って来てくれれば早く帰ったのにと思いつつも祐樹と過ごせるのも嬉しく想った。
「祐樹の手料理も久しぶりだな。とても楽しみだ」
 ぎこちなくならないように内心頑張って笑みを浮かべた。
「貴方のようにあんな凝った料理は無理ですが、我ながら上手く出来たと思います、よ」
 キッチンからはシチューの良い香りが漂っていた。
「祐樹のビーフシチューは肉が大きくて、しかも口に入れるとしんなりとバラけて行くので大好物だ」
 明らかに帰宅が遅かった自分に「どこに寄っていたのですか?」という質問がなかったことに安堵のため息を内心零しながらうがいとアルコールまで使った手を洗いに洗面台の方へと向かった。
 聞かれても別に疾しいことをしているわけでもない上に、祐樹相手に嘘をついても直ぐに見抜かれるので「呉先生と話していた」と言う積もりではいたが、相談内容は祐樹ほど敏くなくとも直ぐに分かるだろう。
 そして、内心穏やかでいられないような気もした。
 だから。

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