気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

80

「大丈夫と安易に申し上げることは出来ません。しかし、田中先生も……その……、同居人が踏み込んだ時と……」
 呉先生が言い辛そうな感じでコホンと――多分空咳だろう――をしている。
 何を言いたいのかは大体分かったので、こちらから言うことにする。専門ではないが一通りの知識は持っていたので、PTSD発症を防ぐ方法も頭の中に入っている。
 辛い記憶などは心の中だけで消化しようとせずに、積極的に口に出すこととか聞いて貰うことが大切だと教科書に書いてあった。
 もしくは同じような体験をした人とゆっくりとそのことについて語り合うことも推奨されていたが、その機会は永久に訪れそうにない。
 何しろ――公にはされていないが――男性が性的被害に未遂とはいえ遭うというのは、年に数件は起こることらしいが、身近には居ないのも明らかだった。まあ、女性の場合でも警察沙汰にしない人の割合の方が多いと読んだ記憶がある。
 ましてや男性は尚更表沙汰にはしないだろう。つまりは泣き寝入りということになる。
 そんな砂漠の中から金の粒を探し出すような確率なので、探しても無駄という気もしたし、そもそもそこまでして話を聞いたり共感したりして欲しいとも思わない。
 呉先生に話を聞いて貰えるだけで充分だと思う。
「ええ、森技官と裕樹と島田警視は一緒に入って来て下さいましたよ。
 ――ちなみに、犯人、いや容疑者ですか……の挑発役は当初の計画では島田警視だったようですが、咄嗟の機転で森技官に変わりました。
 『同性相手に、そんな気になるなんて変態だ』みたいなことを言っていましたね。
 私は森技官も『そういう嗜好』の持ち主だということを当然知っていましたから、あの状況の中でも何だか可笑しかったのを覚えています」
 本当はもっと井藤元研修医の心に鋭く突き刺さるような言葉をはいていたが、流石に自分の口からは言えない。
「あはは、確かに自分のことを棚に上げていますね。
 ま、棚上げは得意中の得意ですから、その程度のことを口に出すのは同居人にとっては容易いでしょうが……。
 ただ、それをノーマルな恋愛観の持ち主に言われると……」
 同じ発言でも言う人間が変われば弾劾とも受け取れる。祐樹や森技官と異なって同類を見抜く目を全く持っていない自分ではあったが、島田警視は多分異性愛者だろうなという感触は抱いていた。だから彼が「変態行為」などと言った場合にただでさえ傷付いていた心と身体に更に――特に裕樹の絶望的な表情が今でも忘れられないほど鮮烈な苦さで脳裏に染み付いている――ダメージを受けただろうから。
「そうなのです。森技官は咄嗟にそれを悟って自分が言うしかないと判断したのでしょう。もちろん、暴力の矛先が自分に向くのも分かって」
 すると。

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