気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

69

 背筋を伸ばして手術室へと入った。
 当然ながら手術用マスクをはめた手は定位置にかざしていたが、全く震えることもなく、普段のままだった。
 そして、黒木准教授までが居てくれるという――ある意味厳戒態勢めいた――人数の多さとか、各々が浮かべる憂慮とか心配の眼差しが手にも注がれていた。
 ただ、祐樹の眼差しが美術館に飾ってある日本刀の鋭さで輝いていた。研ぎ澄まされた鋼のような。それだけを一瞬視界に収めても震えていない指が本当に嬉しかった。
「手技を始めます」
 そう宣言した瞬間からは、一切の余計なことは考えずに手技に集中出来た。
 時折は祐樹の眼差しが自分の背中を押すような力で輝いているのを自覚しつつ。
「手術終了しました。何かお気付きの点が有ればおっしゃって下さい」
 そう告げて手術室を見回した。
 祐樹の眼差しが安堵と称賛の輝きに満ちている。そのことを他の人よりもきっかり5秒間だけ長く視線を絡ませて安堵の吐息を零してしまった、マスクの中に。
「お疲れ様でした」
 黒木准教授が温和そうな中にも疲労を――この土日は休日返上で医局の束ねに回ってくれたのだからある意味当然だっただろうが――隠しきれない声で言った。
 皆の気持ちを代弁するかのように、喜びと安堵の表情を浮かべて肉厚な手を差し出して握手を求められた。
「ご心配をお掛けした点と、そして余計なお手間を取らせたことを深くお詫び致します。
 黒木准教授を始めとして、ここに居る全ての皆様に」
 深々と頭を下げた。
 すると一斉に拍手が起こった。手の空いているスタッフのみ、だったが。
 何だかトランポリンに乗った――実際にそんな経験はなかったが――気持ちで心が軽くなった。内田教授の言葉の正しさに何だか目頭が熱くなってきた。
 自分は「被害者」だから――伏せている点は当然有るが――そういう好意を受けることが出来た。
 しかし、祐樹の場合は「最悪のことが防げて良かった」的な言葉を実際に掛けられているかはまだ聞けていないし、今後聞けるかどうかすら怪しいが……この事件に対応してくれた人たちは間違いなく思っているだろう。
 ただ、祐樹は「救えなかった」と思っている上に、自分が薬のせいで混濁した意識の中だったとはいえ口走ってしまった言葉を確実に聞いている。
 その罪悪感と――本当はそんなものを抱いて欲しくなかったが――心の傷を治すのは自分の務めだと思った。
 呉先生とも――彼だって休日返上で付き合ってくれたので、疲労が取れた頃を見計らって――良く相談してからの話になるだろうが。
 そう決意しつつ手術室のドアを開けるために足で蹴った、気持ちに一区切りつけるために。

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