気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

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 普段は悪性新生物用の手術室付近でしか見かけることはない桜木先生が、うっそうとした感じの表情を浮かべて立っていた。
 ちなみに、手術室にも棲み分けがあり科が違うと遭遇率も低くなる。その上、桜木先生は表向きは教授の執刀ということになっている手術でも――メスも内視鏡も両方とも――実際は桜木先生が行っていることが多い。
 野心の有る医師なら――大学病院ではそういう医師の確率も高いのが現状だ――それほどのスキルを持っているなら、別の病院でもっと良いポジションに就くとかそういう道を模索するだろうが、彼の場合は難易度の高い手術が出来れば良いと思っている。
 手術室に出入りする外科医は先生のことを「手術室の怪人」と――「オペラ座の怪人」をもじったのだろう、多分――畏敬を込めて呼んでいる。「手術室の頑固職人」とも言われているようだが。
 その思いもしなかった桜木先生の姿に一瞬立ち止まると、がっしりとした手で右手を掴まれて、握手を――大まかに分類すればそうなるだろう――求めつつ、左手は肩に置かれた。
 祐樹などは指も長いが、外科医に求められているのは器用さと力の強さなので長さや細さなどはそれほど重要なポイントではない。
 「歴戦」と呼ぶに相応しい――しかも専門が悪性新生物、いわゆるガンなので死亡率も高い――大きくて厳つい感じの指から「外科医としてのオーラ」が伝わってくるような気がした。
 桜木先生は何も言わなかったものの、「傲岸不遜」という四字熟語は彼のためにあるのかと思ってしまっていた目を伏せて視線を合わせようとはせずに、ただ指を握り続けてくれた。
 祐樹の指とは異なった種類のパワーが入ってくるような気がした。
 桜木先生は病院に滞在する時間だけは異様に多い。といっても裕樹のように激務に追わて仕方なくというわけでもなくて、普通の社会人が野球やサッカーをテレビで観戦するのと同じ感覚で手技を見る趣味を持っている。「手術室に住み込んでいるのでは?」と揶揄されるほどモニタールームでお気に入りの手技を夜中に観戦……いや、何度も見て勉強していると祐樹から以前聞いたことがある。
 そして、彼ほどのキャリアになると病院内のウワサも――斉藤病院長を始めとする上層部の動きまで――入ってくるので、多分先生なりの「お見舞い」なのだろう。
 傲岸不遜という性格ではないと自分では思っているし、祐樹などには「もっと自信を持った方が良いですよ」と言われている。
 ただ、言葉が足らずにいる点とか手術への熱意については非常に似ている点が有るので、もし自分がアメリカに渡らずに病院へそのまま勤務していれば、桜木先生のような医師になっていただろうと思うと親近感は湧いたし、彼の伝えたいことは充分心に響いた。
(そんなことに負けるな。頑張れ)みたいな言葉だろう。
 ウツ病患者に「頑張れ」という言葉を使うのは経験を積んだ精神科医でも難しい単語の一つとされている。もちろん、そのフレーズを専門でない人間が抑うつ状態の人に言うのは禁忌だ。
 ただ、桜木先生の以心伝心の言葉には、確かに「頑張れ」が含まれていて、そして「頑張ります」と口には敢えて出さなかったが手を使って伝達した。
 桜木先生は安心した感じで唇をゆがめた笑みを浮かべて、眼差しはどこか照れたような光を放っているのが印象的だった。
 すぐさま身体の向きを変えて後ろ手で手を振ったのも、彼なりのエールだろう。
 内田教授との話に出たトランポリン効果がまた一つ出て、精神が真っ直ぐに手技の成功への道だけを目指しているような真摯で静謐な闘志のようなモノで満たされた。
 そして。

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