気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

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 自分は――病院に無事に入れるかと少しだけ案じていたが――全くの杞憂だった。
 井藤とかいう狂気の研修医の気配が色濃く残る場所でもない限り、その点は平静で居られる自信めいたものすら感じる。
 といっても、事件の現場になった、大阪の井藤の家には金輪際近付くことなどないだろうし、金曜日まで所属していた脳外科の医局にも赴く予定も必要もない。
 合同手術が稀には有るが、今の所予定はない。そもそも白河教授は――いつ任命されるのかとかは知らない――当分の間手技どころではなくて医局の立て直しに必死だろうから。
 
 その点、祐樹は精神の奥底に深い傷を抱えているのを知っている――というか勘付いている――のは自分と呉先生しか居ないし、祐樹が「功労者」と称賛されることはあっても、被害者だと気付いてくれる人はいないだろう。
 それに、祐樹の場合――そのメンタルの強さも大好きだったが――弱みを見せることを極端に嫌がっているというか、自尊心が許さないという一面も持ち合わせている。
 病院一の激務をこなす医師と評判通りに、ブラック企業の社員も裸足で逃げ出すほどの業務量をこなしている。ブラック企業は「土日が休めない」のも特徴の一つらしいいが、それのみ、しっかり死守してくれてはいるものの――土日は手術室自体が休みなので手技しかほぼしていない自分も休みにしている。その休みに合わせてくれているのは嬉しいが――勤務時間量は正直過酷過ぎると思っている。ただ、業務の内で一番減らしやすい救急救命室勤務も祐樹はバイパス術に使える太い動脈が人体のどこかにまだ有るのではないかと考えていて、その動脈を探すために外れたくないと考えている。救急救命室が激戦地の野戦病院さながらの状態が継続したまま、マンションに帰る体力すらなくて、仮眠室に泊まるような日でも、その数時間後には手術スタッフとして完璧な仕事を果たしてくれている。
 意志が強い上に体力にも恵まれているからそういう過酷な勤務が可能なのだろうが。
 ただ「強い木」ほど良く折れるという不吉な言葉を思い出して慌ててその考えを頭から振り落とそうとした。
「トランポリンとは、まさにそうですね。一人で抱え込んだら重い荷物でも、複数人が力を合わせればどんな逆境も跳ね返せると信じています。
 あの病院長が真殿教授にコテンパンに叱られている場面は、是非教授にもお見せしたかったです。
 何だか、川に溺れてやっと岸に上がってずぶ濡れのタヌキといった風情でしたよ。
 流石はパターナリズムの権化だと若い精神科の先生方に批判されているだけあって、そういう時の威厳が異なります。
 ああ、そういえば」

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