気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

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 内田教授は安堵の色を隠せない感じの視線で指を見ていた。
「――病院長も、療養中に心ないことを仕出かしたと物凄く反省されていました。
 正直、あんな病院長を拝見したのは初めてです。事務局長の現場無視の無茶振り――ほら、香川外科の医局の慰安旅行の時に補助金が出なくて田中先生が困っていた事態が有りましたよね――」
 ああ、そんなことも有ったなと懐かしさで笑みが零れた。
 祐樹の高い矜持心を傷付けないようにと、配慮に配慮を重ねて自分のお金から50万円を出したので。
 今なら、その話題を祐樹と交わしてもお互い笑い話に出来るだろう。
 そして、今回の「事件」も笑って話題に出来る日がなるべく早く来て欲しいと思う。
 今はまだ生々しい傷なので――身体的にも、そして精神的にも――触れない方が良いのは言うまでもない。
「有りましたね。そういう、言葉は悪いのですが慰労と言う名の『遊び』のお金が減らされるのは、未だ理解出来ますが……」
 自分は体験していたわけではないが、バブル経済真っ盛りの頃は製薬会社などの一晩の接待だけでお一人様100万円のお会計を支払ってくれたことなどザラにあったようだ。そんな接待自体に興味が有るわけでもないが――そんなことに時間を潰すくらいなら自宅で裕樹と寛いだり、祐樹を想いながら家事をこなしていたりする方がよほど幸せな気分になるので――医局の皆が親睦を図って、より親しみと尊敬を持って日頃の業務にも助け合い補い合っていける精神を持った方が良いに決まっている。
 そういえば、医局の慰安旅行や親睦会を――今度は医師だけではなくて、ナースなども誘って――しようと柏木先生や裕樹が言っていたが、この件が落ち着いたら今度は自分が全額負担でも良いので提案してみようかと思った。
 ずっと付きっきりだった祐樹を始めとして、他の医局員にもそれぞれに負担を掛けてしまったのも事実だった。自分だけが被害者というわけではない、今回の「事件」は。
「ええ、慰安旅行などは有志がお金を出し合って行いたい医局だけ行えば良いと思っています。
 しかし、例えば救急救命室などは、好き好んで赤字を出しているわけではないですし、それにイザとなった時に無ければ困る部門ですよね。
 そういう、節約すべき所と赤字でも存続させるべきモノが病院内には有ります。
 損得勘定では計れない、ね。
 コロンビア大学のMBAホルダーだか何だか知りませんが、あの事務局長の言いなりになる必要は有りません。そういうことを理論武装した後に病院長に掛け合うのですが、そういう時は一応『反省』の態度を見せては下さいます。
 しかし、今回の件で、ああ、あの『反省』はジェスチャーでしかなかったのだと痛感した次第です。
 ま、それを見極める判断基準をこの目で見ただけでも良かったと思います。
 とにかく、病院長を始めとする教授会の煩い面々は私が責任を持って抑えますので、教授は……しゅ……手術……をつつがなく行えることだけを考えて下さい。
 ああ、もう8分も経ちましたね。そろそろ、失礼致します」
 「手術」という単語を殊更ゆっくり発音した時の内田教授の言動は患者さんのご臨終に立ち会うような細心の注意を払っていたのが分かってしまう。
 ただ、そのフレーズを聞いた時にも普段と同じように振る舞えていた。
 指の震えもなく。
 多分。

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