気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

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「ピザですか。余り食べる習慣がないので嬉しいです」
 デリバリーピザ屋さんは新聞にチラシは良く挟まっているので見ることは多かったものの、祐樹は自分の作った食事をとても褒めてくれるので家ではほぼ食べない。それに職場でも――医局によっては催し物があれば良く頼むところも有るらしいが、自分の科はそんなイベントも行われていなかった――電話してまで食べたいという気にはならなかったので、何となく機会を逸していた。
 ただ、今の自分はやっと治まってくれた手の震えが再燃してしまっても食べられるモノという呉先生なりの選択なのだろう。お箸を使わずに食べられるという点も加味して貰っているように感じた。
 それにチラシを見ている限りではとても美味しそうだと思っていたのも事実だった。わざわざ注文する気にはなれなかったが。
「時たま食べますが、このビザが最も美味しいというのが同居人と私の共通した結論です」
 森技官が意外にも――何だか「選良」とかエリートという言葉は彼のためにこそ相応しいような気がする――プライベートな外食は庶民的なことも内心驚いていた。それこそ、高級老舗料亭とか京都には意外と多い高級フレンチやイタリアンなどの方が相応しいと何となく思っていたが、どうやら気のせいだったらしい。
 炎天下の公園ではあったものの、藤棚の下は風が通ると涼しさを感じる。
 漠然とした事件の予兆というか、祐樹の奔走を息を殺すように窺っていた時間の長さは主観的に物凄く長かった。
 祐樹も色々と動いてくれていたようで――と言っても具体的なことは詳しく聞いたわけでもないが――時間は短く感じただろうが、この例年よりも湿度が高くて暑く感じた特別な夏が終わりを告げるかのように秋の気配を風が知らせてくれたような気がする。
 早く手の震えを治して――そして拙いと自覚している言葉ではなくて、態度や日頃の行いなどの手段で――祐樹の心の傷のケアをしたいと思ってしまう。
 祐樹は――多分呉先生も気付いてはいるだろうが――実績に基づいた高い矜持の持ち主だし、そうそう自分の弱みを他人に曝け出すことは避ける傾向にある。
 その上――自分は不可抗力だと判断しているものの――今回の事件に関して後手に回ってしまったということに深い自責と後悔の念を抱いている。
 その傷付いた心を癒すのも「恋人」としての役目だろう。ただ、そのためには先ず自分が立ち直らなければならない。
 一時的に手の震えは治まっているものの、それは自分を否定する人間がいないという点と、非日常に近い環境に居るせいもあることも分かっていた。職場を始めとする――黒木准教授を始めとして医局の皆には迷惑を掛けてしまっている点は重々承知しているが――人間関係は「日常」で、そちら側の人間に触れてしまえばまだどうなるのか分からない覚束なさが自分でも情けなく思ってしまう。
 濃いチーズの香りとか見た目の美味しそうな感じに視覚と嗅覚が刺激される。
 祐樹も珍しそうに見ていたので思わず笑みを浮かべて眼差しで小さな喜びを伝えた。
 ただ、祐樹の目は――多分自責の念からだろうが――昏い光を隠し切れていないのが身を切るように辛い。
 ただ。

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