気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

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 精神医学の教科書で学んだ通り、日光や外での適度な運動などが精神状態を浮上させるということを体現した気分だった。
 出来れば、そんなことは一生体験しないで過ごしたかったが、今それを言うのは愚痴だろうし、一瞬一秒でも早く自分の精神から来る震えを治してしまわないと、必死に悟られないようにしてくれている祐樹のフォローにも回れない。
 しかも、今回のことは完全な事故で――しかも絶対に避けられない上にこちらの過失が全くない類いのモノだと割り切って考えたい――今後起こり得る可能性が高いのは手技のミスによる術中死だろう。今のところ成功率は100%だし、今後もそうなるように全力で努力したいとは思ってはいるものの「患者さんを三人殺して一人前」というのが日本の外科医の標準でもある。
 そういうミスをしてしまった時には――過去に一人、術中死かと魂が凍り付くようなケースに遭遇したことはある。ただ、その時も祐樹の機転で異なると判明した時は本当に嬉しかった――多分、今以上に落ち込むだろう。その時が――来ないように頑張る積もりではいたものの、今後のことなど誰にも分からないのだから――来てしまった時への予行練習を兼ねていると考えれば、少しは心が晴れるような気がする。
 精神医学の教科書には「絶対に自分を受け入れてくれる人との対話」の重要性を説いていたが、それも分かるような気がした。
 目を知的好奇心でキラキラさせている子供達はそもそも自分のことを「教えることが上手い人」程度にしか思っていない。その評価は個人的にはとても嬉しいけれども、外科医であることすら知らないのだから、医師として――母校の知名度や偏差値が高い程度のことはうっすらと認識しているだろうが――そもそも求められてはいない。
 逆にその方が素の自分で居られるので有り難い。
 それに呉先生は、森技官や病院長などの意を汲んで来てくれているので、絶対に否定はしないだろう。祐樹も、己自身の精神的ダメージを必死に押し隠してくれて、外科医として致命的な手の震えを治そうとしてくれている。
 普段なら、確固たる自信を持って即断即決をする祐樹が、昨夜から今朝にかけて呉先生の表情や反応を窺った上で発言することが多くなったのも、専門家には従うという医師表示だと思う。
 祐樹自身は――はっきりと聞いたわけではないが――精神医学の心得は余りなさそうな感じだったので。まあ、高度に細分化した大学病院に就職を希望した医師は普通そうなるだろうが。
 逆に、実家を継ぐとか――ウチの大学からは珍しいケースではあるものの、へき地医療を志す人も毎年一人程度出ると黒木准教授が言っていた――そういう場合は全ての科を広く浅くでも良いので対応可能にしておく必要があるが。
「貴方は教えることも上手いだろうなと思っていましたが、予想以上ですね」
 祐樹の笑みが、燦々と降り注ぐ太陽よりも眩しく輝いていてそれだけでとても嬉しい。
 蝉の声とか子供の声にも精神を和らげてくれる。
 それ以上に。

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