気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

26

「田中先生の運転する車に乗ったのはもちろん初めてです。
 というか、病院内のウワサでは――ええ、色々聞いていますよ。本当に近いだろうと推測されるのは極めて稀ですけれど――自動車をお持ちだという情報は出回っていません」
 呉先生の朗らかな声は僅かに不定愁訴外来で患者さんと話している感じが混じっていた。
 自分は祐樹に対する深い愛情から、そして呉先生は仕事の経験則と友人としての付き合いから多分、同じ危惧を抱いているのだろうなと思ってしまう。
 といっても、呉先生が患者さんとの診断中の声を聴いたのは記憶している限り二回だ。
 二回目は内科に入院中にも関わらずバイパス術を受けたいという要望だったので、自分が対応した方が良いと判断して話に入ったものの、説得の途中に手術のことを具体的かつ詳細に語ってしまって、想像力も豊かな呉先生に口を押えてトイレへと向かわせてしまったという痛恨の過去がある。
「ええ、病院には内緒にしていいます。持っていると――特に医局では一介の医局員ですから――広言してしまうと『車を出せ』と言われてしまうのが嫌で……」
 祐樹の声とか理想的なフォームを描く端整な横顔から判断して呉先生の発言の真の意図には気付いていないような感じだった。 
「ああ、それはありますね……。医局での人間関係ではそういう面が有るので。
 ただ、田中先生の運転は安定感とか丁寧さが物凄く伝わります。普段もこんな感じですか?」
 世間話を装ってはいたものの、微かに声に緊張の細い糸が混じっているように聞こえた。
 初めて祐樹の運転する車に乗ったのはアメリカから帰って来た空港から病院に向かう時で、祐樹が迎えの一行に加わっていたことに動揺を押し隠すことで精一杯だったことを懐かしく思い返していた。運転手役の人が体調不良で急遽変更されたということで、祐樹に再会出来るのは病院に着いてからだと思っていて、その心積もりでいた自分は、今思えば嬉しい誤算で頭の中が真っ白になっていた。
「はい。普段もこんな感じです。安心して車に乗れるというか、全てを任しても大丈夫だと自然に思ってしまう運転ですね。森技官の運転は……道路交通法完全無視で、自分の前の車が許せないとか思うタイプのようにも見えますが……」
 祐樹が呉先生の真意に辿り着けなくするために――祐樹の性格上、心の傷を知られるというのを屈辱だと考えそうだった――必死に「世間話」という体裁を取り繕うと頭を動かした。
「ああ、森技官はそんな印象を受けますね。ただ、昨日は島田警視正が運転していたので彼のドライビングがどんなのか具体的に知りませんが……」
 呉先生の笑い声が殊更楽しげに車内に響いた。
「そういう性格だとは思いますが、そして免許は持っているのですが運転する車に乗ったことはないですね……。それに正直乗りたいとも思わないです、ここだけの話」
 京都で生活しているだけなら特に車は必要ない。呉先生と森技官がどんなデートをしているのかは知らないが、そして車に乗ったことがないという発言もフェイクという可能性も捨てきれない。呉先生の質問の意図は運転などにも精神状態は反映されるので、普段通りかどうかを確かめたいということだろうから。
「私も充分負けず嫌いだと自覚していますが、彼の場合はそれに輪をかけていますので、確かに怖そうです」
 祐樹が大型スーパーの駐車場に車を入れながら口角を上げて皮肉そうな笑みを浮かべていた。

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