気分は下剋上 chocolate&cigarette

こうやまみか

24

「車があれば便利ですね」
 後部座席に乗り込んだ呉先生が春の陽だまりのような声で車内に立ち込める重い空気を緩和してくれるのも有り難かった。
 それにいくらマンションの日当たりが良いといっても、車窓から燦々と降り注ぐ光には敵わない。抑うつ状態に突入しそうな自分の精神というか脳はセロトニンを受容しない方針へと変わって行きそうで怖かった。太陽の光りとか運動、そして今は全く関係ないがキャベツにも含まれているセロトニンを摂取するためにも太陽の光りは必要不可欠で、車で外出するというのは――何しろマンションよりも日当たりが良いのは当たり前だ――呉先生の目論見通りなのだろう。
「教授、このシートとても座り心地が良いですよね。背筋を座席に沿って伸ばしてみたら、きっと気持ちが良いですよ」
 後部座席から呉先生の――多分強いて明るい声を出そうとしているのだろう――快活そうな声が車内をスミレ色に染めていくような感じだった。
「そうですね。すこし背伸びをして、身体を反らしてみます」
 運転席の祐樹の横顔が不審そうな表情を浮かべている。
 背筋を伸ばして、上を向くというのはウツにも効果が有るとされている身体の動きだが、専門分野に特化した大学病院では知らなくても仕方のない知識だ。
 助手席で背筋を伸ばしてから反らすと、確かに気分が清々しくなったので、何度も試みた。
「本当に気持ちが良いので、祐樹もしてみたらどうだ?」
 赤信号で停まった時に思い切って言ってみた。
 祐樹が――本人は優しさのせいで必死に隠そうとしているようだったが、帰国以来ずっと息を殺す思いでただ一人を見てきた自分には分かってしまう――下手をすると自分よりも深い心の傷を負っている可能性は極めて高いと判断していたし、恐らくは呉先生も同じだと思っている。
「そうですか?背筋を伸ばす感じで良いのですよね」
 祐樹の快活そうな声にも――自分しか分からない程度の些細な変化だが――満月にかかった雲のような陰りが感じられた。
「そうだな。背筋をシートから離す感じでU型にして顔を上に向けると、とても気持ちが良い」
 お手本を見せる感じで身体を動かした。本当は呉先生からアドバイスを貰った方がより精度と効果の高い方法を教えてくれるだろうが、祐樹があくまで「精神的にダメージを受けていない」という姿勢を貫くのであれば、却って藪蛇になる恐れが有る。
「あ、本当ですね。何か、気分……いや、肩凝りが解消しそうな感じです」
 祐樹の声も少しだけ明るさを増したような気がしてとても嬉しかった。
「その動きは、祐樹の場合天井に頭をぶつける可能性が有るので車内ではなくて屋外でした方が良いかも知れないな……。――肩凝りは職業病みたいなものだから、出来るだけ血液の循環を良くしておいた方が良いだろうし」
 特に手技の場合は同じ姿勢を保ち続けなければならない上にミリ以下の緻密な作業なので――それ自体は別に苦にならない、祐樹も自分も――肩が凝るのは事実だが、それ以上の意味が有ることを祐樹に伝える方が、却って祐樹を傷付けるような気がしたので黙っておくことにした。

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