黒い花

島倉大大主

第四章:黒い花 6

 あたしは漫画みたいに、ぶっ倒れそうな前傾姿勢で思い切り走った。しばらくすると前方の街灯の向こうに、あの電柱らしき物が見えてきた。
 途端に、未海ちゃんを助けなくちゃ、という思いが溢れだしてきた。それは息も絶え絶えの胸を広げようとし、萎えそうな足を緊張させ、思考を奪っていく。
 電柱に到着した。確かにあの飛んだ時に見た電柱だ。
 そのまま、アパートの方へと駆け続けようとした。
 一瞬、強烈な臭いがした。
 勿論、後から臭いはずっとしていた。だが、それよりも強烈で、酷く大きな臭いが、波のようにあたしに打ち付けられたのだ。
 本能だろうか、ともかく、あたしは急停止した。
 と、目の前に何か、とてつもなく馬鹿馬鹿しいものが降ってきた。
 汗がどっと吹き出し、心臓が跳ね上がり、目が膨らむ。震える足で踏ん張りながらも、口の端からは、胃から上がってきた熱くて苦いものが漏れた。
 それは巨大な手だった。
 街灯に照らされた、真っ黒く流動する、小型車ぐらいの手。
 そして、その手には腕があり、視線を上げていけば肩があり、そして巨大な胴体と、馬鹿みたいなサイズの顔が勿論あるのだ。
「……マジか」
 あたしの呟きに、それは笑った。女の声だった。
 あたしは乱れに乱れる呼吸を整えようと、胸を叩いた。足の震えは益々酷くなる。さっきまでの全力疾走の所為だけではないようだ。
『あたしが叩いてやろうか?』
 ざぶざぶと口から液体を垂れ流しながら、巨大御霊桃子は、意外にもにも滑舌の言い喋り方で、あたしに微笑んだ。
『あたしが優しく叩いてやるよ。あんたの頭以外を、死なない程度にぐちゃぐちゃに叩いてやるよ。気持ち良いよお。粉々の骨の中で泳ぐのは本当に気持ちいいんだよおおお』
 ほほほう! と甲高い雄たけびをあげ、巨大御霊桃子が突進してきた。水っぽい足音と共に、塀に真っ黒いしぶきが飛び散る。
 あたしは杭を構えようとした。だが、御霊桃子が巨大な足を近くの塀の遥か上の高さまで上げるのを見て、あたしは横っ飛びにアスファルトにダイブした。
 体が一瞬浮くような衝撃と共に、あたしがさっきまでいた場所に、巨大な足が突き刺さり、道路が捲れあがる。
 巨大御霊桃子はぐぐっと頭をこちらに向け、ゆっくりと足を引き抜いた。
 遅い。
 あたしは杭を持つ手に力を入れる。
 こいつ、大きすぎて動きが遅いんだ。
 これだけ遅いんなら――刺せるんじゃないか?
 あたしは起き上がろうとして、ズボン越しに何か固い感触を感じた。ポケットを探る。

 未海ちゃんに貰った蛙だった。

 それを手の平で見つめる、ほんの刹那の間、あたしの頭に冷静さが戻ってきた。

 こいつ――わざとだ。

 こんなに大きい、杭が刺しやすい状態、罠以外の一体何なのだ。きっと、このデカブツは刺したら弾け、濁流になってあたしを飲み込むに違いない。そして杭をどこかに流してしまうに違いない。
 じゃあ、どうする? アパートに行く? いや、それは何の解決にもならない。あたしが今できる事――いや、やらなくちゃいけない事は、逃げる事なんだ。こいつを相手にしないで逃げる事なんだ。
 未海ちゃん、もうちょっとだけ待ってて……。
 あたしは来た道を振り返る。誰もいない、ように思えた。
 またも振り下ろされた手をかわすと、あたしは来た道を駈けだし、さっきは無視した横道を曲がる。肩越しに振り返ると、怪獣映画さながらに、御霊桃子は屋根の上からこっちに視線を送りつつ、水っぽい音を立てて追ってきていた。
 あたしはまた、角を曲がり、姿勢を低くすると、更に進んで、手近な家の門をくぐった。しかし、玄関に近づけば照明がついて見つかってしまう。
 だから、そのまま塀に背中をつけた。このまま壁沿いに進めば、庭の木が茂っているから、上から覗き込まれても見えない……はずだ。
 粘ついた足音がどんどん大きくなってきた。クスクスと馬鹿にしたようなたくさんの笑い声も近くなってきた。まるであいつの口の中に、他にいっぱい口があって一斉に笑っているみたいな、さざ波のようなそれ。
 すんすんという音が聞こえてきた。
 まさか……匂いを嗅いでいるのか?
 あたしは吹き出しそうになった。
 あいつ、あんなに臭いのに鼻を使ってるのかよ!
『近くにいるな』
 まるで耳元で囁かれたような声。急激に悪臭が強くなってきた。と、塀の一部分からさっと光が射した。よく見ると、塀には元々、所々に穴が開いているらしい。そこから、向かいの家の玄関の照明が射しこんでいるのだ。
 ということは、あいつは向かいの家に入ったという事か?
 移動するべきか?
 いや、あいつはあたしが動くのを待っているに違いない。だから今は――
 ごぼりと大きな音がした。泥の中で大きなあぶくが弾けたような、汚い粘っこい音だ。と、塀がみしみしと揺れ始めた。
 この塀を壊そうとしている? でも、あたしがここにいるのが判っているなら、上から抓んだ方が早いはず……。
 あたしの疑問はすぐに氷解した。
 塀の穴から真っ黒いどろどろがこちらに流れ込んできた。それはずるずると壁や地面を這いながら、どんどん広がってくる。
 あの糞女、体を拡げて、そこら中を――
 どろどろの表面が細かく盛り上がると、一斉に割れた。
 目だった。
『見ぃつけたあぁ』
 あたしは駆けだした。と、どろどろが一部が鞭のように細く変形すると、足を払った。あたしは転がりながら、そのまま起き上がらずに家の壁めがけてヘッドスライディングした。またも大きな揺れ。半身を起して後ろを見ると、あいつの大きな腕が地面にめり込んでいた。
『逃がさないわよおおおおおおおおっ』
「うるせえんだよおおおおおおおおっ!」
 あたしは叫びながら地面を蹴り、家の角を曲がると、咄嗟に目についたドアに飛びついた。何の抵抗もなく手の中でノブは回転する。体を滑り込ませ鍵をかけると、途端に、家が大きく揺れた。水っぽいどちゅどちゅという音ともにドアが内側に膨らむ。
 さて、どうするか?
 選択肢は四つだ。あれが家を囲む前に、四方のどこからか飛び出して、通りに出る。もうそろそろ、真木の車が迎えに来ているはずだ。というか、来ていてほしい。
 今いるのは台所にある勝手口みたいなものらしく、足元にはダンボールが積まれ、右側には冷蔵庫、左側には食器棚がある。
 あたしは家にあがろうとして、靴を脱ごうとしている自分に吃驚した。
 こんな時まで……日本人で良かったような悪かったような……。
「お邪魔しますよ、どうもすいませんね」
 結局小声で、そう言うことで自分の中で落ち着いた。ガシガシと小さく靴音が響き、みしみしと廊下が軋む。
 さて、どうしたものか。今来た勝手口か、それとも玄関か、それとも、左右の部屋の奥に見える窓か。
 ばりばりっという音が背後から響き始める。玄関の照明が点いて、すりガラス越しにあいつらが蠢いているのが見える。左右の窓も同様に何かが蠢いているのが見える。
 と、クラクションの音が聞こえた。玄関のすりガラスの向こうから強い光がさっとあたしの顔を照らす。
 来たっ。
 だけど囲まれてる。
 ならば――つべこべ考えずに最短を行くしかない!
 あたしは玄関まで一息に走ると、ドアを思い切り内側に開け、勢いよく外に飛び出した。
 たちまち酷い臭いと共に、あたしと同じくらいの大きさの、あいつらが絡みついてきた。何がどうなったか判らないうちに押し倒され、顔の側面に冷たい石の感触。
 目を上げれば、家の正面には車は無い。だが、エンジンの音と柔らかい物が引きつぶされる音は確かに聞こえた。
 あたしは杭を近くにあった頭と思しき塊に突き入れた。ぼばっと膨れ上がったビニール袋を指で突いた時みたいな音と感触。そして飛び散る酷い臭いのどろどろと女の悲鳴。続けてもう一つの塊を突き刺すと、拘束が解けるのを感じた。
 敷石を蹴って走り出すと、背後からお決まりの破壊音に水っぽい足音、そして笑い声と悪臭がどっと押し寄せてくる。足がもつれ、前につんのめりながら道路に転がり出ると、真木の車が、バックしながらこちらに猛スピードで向かってきた。
 あたしは両手を上げ、車に停まるように呼びかけようとした。
 その時、かちりと音がした。
「助け……て」
 振り返ると、隣の家の門、そこに玄関の照明に照らされた少女がいた。
「……未海ちゃん」
 ぐったりと鉄の門に体を預けた少女は、あたしの声に目を開けた。
「……たすけ、て」
 罠だ。
 きっと罠だ。
 間違いなく、罠だ。
 そうは思っても、全身の発疹から膿をどろどろと流す、ぐったりした女の子を目の前にして、理性のある行動がとれるほど、あたしは悟っていない。足は勝手に動いているし、それを非難する自分もいない。あたしは未海ちゃんに駆け寄ると肩を貸した。
「大丈夫? 熱は?」
 我ながら無意味な質問だ。
「うん……熱ある……ママも……病気で……」
「わかってる。ママも助けてあげるからね」
「え? あ、あの時の……確か京子、さん?」
 あたしと未海ちゃんの髪がふわりと巻き上がった。車が音も無くいつの間にかすぐ横に停車していた。ドアを開けて、と口を開こうとして、ある意味予想通りの光景が目に飛び込んでくる。
 中は無人だった。
 あたしは未海ちゃんの手を引っ張ると、ドアを開け、運転席に滑り込んだ……はずだった。
 あたしは背中を激しく小突かれ、助手席に顔を擦りつけた。
「はははははははは!!!」
 楳図かずおの恐怖漫画に出てきそうな高笑いが車内に響く。
 やれやれ、と起き上がってシートにもたれ、運転席に目をやった。
 儚い小さな花という感じの未海ちゃんはどろどろに崩れ、傲慢で高飛車で、その癖やたらと香の強いよく判らん南国の毒々しい花のような女、御霊桃子がそこにいた。
 その左手には杭が握られていた。

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