黒い花

島倉大大主

第一章:朝霧未海 6

 未海は曲がり角から顔を出した。
 十メートル先に未海の自宅のアパートが見える。
 スマホで確認すると時刻は一時半を少し過ぎたあたりだ。お昼時なら、何処かの家からテレビの音が聞こえてくるのが普通だ。
 だが、そんな音は一切しない。
 もしかして、この辺りに、あたしとママしかいないんじゃ――そう思って、未海はゾッとした。
 未海はそろそろと角を曲がり、壁沿いにゆっくりと移動を開始した。
 やはり動物は見当たらない気がする。
 あ! そういえば……。
 未海はアパート脇にあるゴミ捨て場まで姿勢を低くして、音をたてないように移動した。昨日、不燃物を捨てに来た時にゴミボックスの裏のアスファルトと側溝の間、そのわずかな隙間に詰まった土に蟻が巣を作っているのを発見したのだ。小さくて黒い蟻で、落ちていた干からびた生ゴミにたかっていた。
 未海はアパートの方に目を配りながらしゃがみ込んだ。
 ……いない。
 干からびた生ゴミと、腐臭。だが、やはり蟻どころか小蠅一匹いなかった。
 未海は立ち上がると、階段まで移動する。
 一階の三部屋のうち塞がっているのは両端の二部屋だ。未海の家の下の住人は木暮という太った男性で、会社員らしい。のんびりした人、と琴音は評している。休みの日などはよく家の前に七輪を出して魚を焼き、集まってきた猫と折半して晩酌をしていたりする。未海は殆ど話したことはなく、会釈をする程度だ。
 二〇三の下の住人は安藤という老人だ。厳つい顔つきだが、未海が挨拶をするとおうっと威勢よく返事を返してくれ、時々ポケットから取り出した、ちょっと生暖かい溶けかけたミルク飴をくれる。その飴の柔らかさが未海は結構気に入っていた。
 確か、安藤さんは旅行に行ってるはずで、木暮さんは、仕事のはず――
 未海は階段横の電気メーターをちらりと見る。不在でも冷蔵庫等が稼働していればゆっくりとメーターは回る、と琴音から聞いていた。
 みずほの住む二〇二、一階の安藤と木暮の部屋はゆっくりと回っていた。
 だが、未海の部屋は勢いよくメーターが回っている。
 いる。
 ママは部屋にいる。
 未海はしばらくメーターを眺めていて、ある事に気がつき体が硬直した。
 二〇三のメーターも勢いよく回っているのだ。
 やっぱり、あの部屋に人がいる。あの、ネット番組を作る人がいるんだ。
 未海の心臓が高鳴りだした。家に戻るには二〇三の前を通らなければならない。それよりなにより、ここの階段は鉄筋なので音が非常によく響く。
 音を聞かれて、登りきる前に二〇三の玄関が開いたらどうしよう……。
 未海の頭に麗香の家に行く前の事が思い起こされる。
 あの時チラシが落ちたのは、郵便受けの隙間から外にいたあたしの事を見ていて……。
 未海は階段を見上げた。段数は十三。音を立てないように慎重に登るには多すぎる。
 未海はしばらく考えた後、靴を脱いだ。
 これで足音が消えるんじゃないかな、そう考えながら一歩踏み出すと飛びあがりそうな熱さが足裏から駆け上ってきた。悲鳴を上げそうになり、実際声が出てしまい、慌ててケンケンで階段脇に避難する。靴下をめくると火傷はしていなかったが赤くなっている。
 未海は途方に暮れた。音を立てずに上に行くことのなんと難しい事か。階段を使わないで二階の廊下の支柱を登れないだろうかと見てみるが、足がかりになる物は無さそうだ。
 仕方なく、壁にぴったりと背中をつけ、ベランダ側を覗いてみる。
 また声が漏れそうになった。
 アパートの裏側には、黒いモノ達がいた。数は――一瞬だから自信は無いが、うじゃうじゃいた。下手をすると十体以上かもしれない。
 汗がどっと噴き出す。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう……ともかく、階段から行くしかない。
 未海はしばらく考え、靴下を脱ぐと靴に巻いた。
 よし、これで、行ってみよう……。
 ポケットに左手を入れ、麗香に貰った蛙たちのごつごつした感触で、恐怖を紛らわしながら階段をゆっくりと昇り始めた。
 目は階段の上を見つめ、何かあったらすぐに駆け下りられるようにと心構えする。
 一段、二段、三段……。
 じゃりっという音が足元から響いた。
 未海はギョッとして動きを止める。よく見ると階段に乾いた土がこびりついているのだ。
 これは――お母さんや、みずほおばちゃんが付けたものじゃない。私が麗香ちゃんの家に行く時に付けたものでもない。
 未海は焼けた階段に顔を近づける。
 泥だらけの裸足で、普通の人は階段を昇り降りするはずがない。
 指の跡まではっきりとわかるそれは、一段飛ばしで付いている。振り返ると階段の降り口のコンクリートにもうっすらとそれが残っていた。視線を上げ追っていくと、それらは点々と駐車場に続いていた。よく見ると隅の方に見慣れない軽自動車が一台停まっている。いつから停まっていたのだろうかと記憶を探る。確か昨日は無かった、ように思う。麗香の家に行く前は――ちょっと判らない。
 真っ白いそれには、何かひどく黒い物がたくさん着いていた。未海は更に目を凝らすと、拳を噛んで悲鳴を押し殺した。
 黒い物は手の形をしていた。
 それが運転席のドアに一際べたべたと大量に付いている。
 未海は鉄の棒でも入れられたかのように固くなった首をゆっくりと動かし、階段の上に目を戻す。
 まだ、階段の中ほどだ。廊下は見えない。二〇三の玄関のドアの上部はぎりぎり見える。
 それは閉じているように見える。
 未海の呼吸が速くなる。
 震える足で一歩階段を上がる。体重を殺し、場所を選んだつもりだったが、ちりっと小さく土を踏む音がしてしまう。
 心臓が早鐘のように打ちはじめ、汗がたらたらと額から滴り落ちる。
 じりじりと陽射しが服越しに体を焼く。
 一段。今度は音がしなかった。
 もう一段。ちゃりっと、さっきよりも大きい音。
 はあはあ。
 もう一段。ドアの上半分が見えてくる。
 汗が滴る。
 汗が階段に落ちる。
 今の音は、小さかった。聞かれていない。多分聞かれていない。
 はあはあはあはあ。
 よし、もう一段――

 ごんっ。

 ぎくりと体が強張る。目に涙が浮き、体が震えだす。
 今のはあたしじゃない! 絶対にあたしじゃない!
 暑さの所為か、それとも体重の所為か、階段から更にごんっと鈍い音がした。未海は息を殺し、じっと二〇三の玄関ドアの上半分を凝視し続けた。汗が目に入り、慌ててごしごしと擦る。
 静かだった。相変わらず遥か遠くからの車の音しかしない。
 だいじょうぶ……きっと、だいじょうぶ、もう少し、もう少し。それに、もしかしたら、もう中には誰もいないかもしれない。きっと、クーラーをつけっぱなしにして、外にお昼を買いに行ってるかも……。
 未海はまた一段階段を上がろうとして、足があまりに重い事に気がついた。
 え?
 腿を持ち上げ、体重を殺すようにゆっくりと降ろすはずが、自分の意志とは関係なく、まるで棚から物が落ちるように足はすとんと落ちてしまった。
 があんと大きな音ともに、未海の体が階段を踏み、持ちあがり、視界が上がっていく。
 あっ!
 二〇三の玄関の郵便受けは開いていた。そして内側から指が二本出ている。
 未海は金縛りにあったように立ったまま、郵便受けから突き出して動く指を見ていた。それは細く、女性の指のように見えた。そして、その指の爪や関節には黒くねっとりとしたものが付いているのだ。
 きっと、あれが車についた黒い物なんだ。あれに触ったらどうなるんだろう? 臭いんだろうか? ベタベタするんだろうか? いや、もしかしたら、甘いかも――
 ちりんとメールの着信音が未海の脳天を突き刺した。途端に金縛りが解け、同時にバチンと玄関の鍵を開ける音が響いた。

 あ。
 ああああああああああ。
 うわああああああああああああああああああああああああああ!!!

 声なき叫びを上げながら、未海は残りの階段を駆け上がろうとした。一秒にも満たないはずの時間が、ゆっくりと流れ、悪い夢の中で、ねっとりともがくような焦燥感に包まれる。未海の足が階段の最上段を踏んだ。アパートの廊下の全景が見え始めた。奥のいつもと変わらない自分の家の前から徐々に視線が手前に降りてくる。
 二〇三の玄関の前に染みのような物が散らばっていた。
 それは少し盛り上がっていて、油のようで、真っ黒く、そして、その周りに、ゴキブリが数匹転がっていた。仰向けになっているもの、前のめりになって足を丸めているもの、そして何かに背中の中心から押し潰されたような無残なもの。
 未海は足が萎えそうになるのを感じ、咄嗟にドアから離れた手摺に体当たりした。そのまま手摺沿いに廊下を駈けだす。

 神さま! 神さま助けてっ!

 手摺の熱さを腋の下に感じながら思わずそう祈った途端に、いつの日か、麗香に言われたことを思いだした。その時、未海は麗香の家でボクシングの試合の生放送を見ていた。
 興味が無かった未海が熱中するほど白熱した試合だった。未海は挑戦者の日本人選手にどうしても勝ってほしくて「神さまお願い!」と呟いた。だが、その甲斐なく挑戦者はチャンピオンの鋭い右フックでマットに沈んだのである。残念がる未海に麗香はにやけながらこう言った。
「まあ、実力不足ってやつかなあ」
「あたしのお祈りは届かなかったなあ……」
 麗香は肩を竦めた。
「ま、神様なんて当てにしても、しゃーないって」
「えー、そうかなあ……」
「一生懸命、何年も祈れば聞いてくれるかもしれんけどね、そんなホイホイ聞いてくれたらありがたみが無いじゃん。それに」
「それに?」
 麗香は手をだらりとたらし、白目を剥きながらうひひと笑いながらこう言った。
「すぐにお祈りとかお願いを聞いてくれる奴は、大体ろくでもない奴だと思うよ~」

 でも、誰でもいいから今だけは助けてっ!
 未海は蛙たちを握る手に力を込める。
 麗香ちゃん助けて!
 未海の後ろで扉の開く音が聞こえた。あの嫌な感じが雪崩のように未海の背中を押してくる。よろけ、転がりながらも未海は自宅の玄関に辿りつく。
 ノブを握るが、当然のように鍵がかかっていた。
 あ! 鍵!
 未海はポケットを探る。確かズボンの右ポケットに――ない! どこ? 左のポケット? 胸ポケット? いやズボンの後ろ――
「た……助けてぇ」
「……へ?」
 二〇三号室の前に女性が立っていた。
 下着姿、乱れた髪。そして体中についた真っ黒い汚れ。ふらふらと手摺に寄り掛かると、女性は体を大きく震わし、げえっとえずいた。
 真っ黒い大きな固まりが、やはり黒い物がこびりついた口から溢れ、ぼちゅっと柔らかい音を立てて通路に落ちた。
「ぐ、ぐるじいのぉ……」
 顔を上げた女性の大きく見開いた目には涙が光っていた。
 未海はズボンの後ろに手を入れたままの姿勢で、なんとか声を出した。
「あ、あ、えっと、あ、救急車を――」
 未海はぎくしゃくとスマホを取り出し、電話をかけようとした。
 だが、圏外の表示が出ている。
 あれ? と未海は一瞬、状況を忘れた。圏外なんて、今まで一度も見たことがなかったからだ。ふっと鼻につく悪臭にスマホから目を上げると、女性は手摺に掴まりながら目と鼻の先まで近づいてきていた。
「たすけてぇ……・苦しいよぉ……。目が痛いの……頭が割れそうなの」
 なのに女性は笑っていた。
 その引き攣ったような口の端から、どろりと真っ黒なものが糸を引いてたれる。悪臭が一層強まった。
 女性が手を伸ばす。
 未海はさっと飛びのいた。
 鍵、鍵はどこ?
「苦しくて苦しくて……とっても気持ち良いのよ?」
 女性は笑い声を上げた。顔が歪み、しわが深く刻まれ、そこから黒い汁のような物がじわりと滲み出す。
 女性は右手をふらふらと、前に出した。それは未海のいる場所のやや右だった。
「ねえ、あなた、そこにいるんでしょ? 目がね、もう、あんまり見えなくて……だから、この手を握って欲しいの。よろけて倒れたら、体が、ま、また吐いちゃいそうなの……」
 心のどこかで最大限の警報が鳴っている。なのに未海は女性が可愛そうだ、と一瞬思ってしまった。あまつさえ、女性の方に一歩近づいてしまった。
 だから、女性の頭が小刻みに震えだし、目がいきなり膨らんだかと思うと、嫌な音を立てて弾けるのを思いっきり見てしまった。臭く黒い飛沫が廊下に模様を描く。
 女性は、あれ? と首を傾げた。対して未海は尻餅をついた。足の力が抜けてしまったからだ。だが、腰にぐっと何かが押し付けられる感覚に、我に返った。
 鍵!
 未海がポケットから鍵を引き抜き、ドアノブに飛びつくと同時に、女性の目から、細長く黒い物が飛び出した。巨大なヒルのようなそれは、ぐにゃぐにゃと左右に揺れている。と、女性が未海の方に凄い勢いで顔を向けた。
「そこか」
 未海は悲鳴を上げようとした。だが、声は出ず、鳥のようなひーっという音が漏れただけだった。体が震え始め、じんわりと暖かい物がズボンに拡がるのを感じた。女は鼻をひくつかせると、うがいをしているような声で、大きく笑った。
「もらしたのね! 臭うわ! あら? あなた、あの子と同じ臭いがする……いけ好かない臭いがするわよ!」
 ゴリゴリという音を立てながら、黒いヒルのような物が更に飛び出した。女の目がさっきの倍にも広がったように見える。
 女は口を開けた。舌ではなく、黒い平べったいものがずるりと飛び出した。
「さあ、いらっしゃい。あたしの部屋で遊びましょう。ネットの番組に出させてあげる。ねえ、いいでしょう? その可愛らしい指をしゃぶらせて? ね? おしっこも綺麗にしてあげる。ズボンを吸って綺麗にしてあげる」
 未海はガタガタと震える手で、鍵穴に鍵を差し込もうとした刹那、またも麗香と交わした会話を思い出した。

「ホラー映画とかでさあ、怪物が迫ってくるとみんな慌てちゃうんだよねえ。で、銃とか鍵とかを落としちゃう。深呼吸をしろってんだよ、ねえ?」

 未海はひゅっと口から短く息を吸い込むと、流れるような動きで、鍵を差し込んで捻り、ドアを少しだけ開け、さっと家に滑り込んだ。そのままの姿勢で後ろ手でチェーンロックをかけ、ついで振り返ると鍵をかけた。それに覆い被さるようにドアの外で唸り声と笑い声、そして怒声が聞こえてくる。ノブがガチャガチャと動かされた。
「開けてぇ。未海ちゃん・・・・・、開けてぇ」
 あたしの名前を――未海の頭が真っ白になった。と、同時にみしっと音がする。未海は一歩下がった。
 え? まさか――
 みしっみしっと軋む音が続く。錯覚だろうか、ドアが内側にゆっくりと膨らんでいるように見えた。
 うそっ、ドアが壊されちゃう……。
 未海は後ろに下がりながら、スマホを取り出す。麗香からメールが届いているのを目の端に停めながら、一一〇番を打ちこもうとした。
 え? まだ圏外?
 靴を脱ぎ捨てると、炊飯器の横にある家電の受話器をとった。何も音がしない。フックを何度か押してみるが、やはり反応は無かった。
 どうしよう。
 どうしたらいいんだろう。
 そうだ、窓、大声を上げれば誰かが――未海は居間でぎくりと足を止めた。
 窓に何かが蠢いている。
 手形だ。真っ黒い手形。あの車についていたのと同じ――いや、窓の物はまだ乾いていない。『付けたて』なのだ。そして付けたのは、ドアの外の女に違いない。
 そして、その手形から垂れた黒い液体。それが、まるでカタツムリのように、薄黒い跡を残しながら窓を動き回っている。
 急激に吐き気が襲ってきた。
 未海はトイレのドアを開けた。
 跳ね上げられた便座、飛び散った吐しゃ物、長く床にとぐろを巻くトイレットペーパー。

 ママ。
 ママ――

 未海は倒れ込むように居間を通り抜けると、寝室の襖を開けた。
 琴音は寝ていた。その寝息は早く、呻き声が細々と漏れている。
「ま、ママ……」
 未海は全身の力が流れ出していくような感覚に襲われ、その場にクタクタと座りこんだ。
 琴音の顔や腕、パジャマから見える肌の部分は、びっしりと大きなイボのような物に覆われていた。

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