黒い花

島倉大大主

第一章:朝霧未海 3

 朝、未海が起きると琴音が台所に立って、昨日の夕食の食器を洗っていた。
 さっきまでみていた恐ろしい夢が、急速にぼんやりとしていく中、ホッとしたような、もどかしいような、不思議な気分で寝室から出てきたところだったので、思わず未海は立ちすくんだ。
 あれ? と時計を検める。夏休みに入ってから遅くまで読書をして起きる時間が遅くなり、起きると琴音は既に出勤していることが普通だったからだ。
 だが、時計は十時をやはり過ぎている。
 もしかして、まだ夢を見てるのだろうか?
「……ママ、お仕事は?」
「うん、ママちょっと熱っぽいの……」
 弱々しい笑顔に、未海はさっと近づくと、琴音の背中に手をやった。
「ママは寝てて。洗い物はあたしの仕事だよ」
 琴音はうるんだ目で未海をちらりと見ると、エプロンで手を拭きながら台所を離れた。
「……じゃあ、お願いしちゃおっかな」
 未海は急いで着替えると、台所に戻った。
「ママ朝ごはんは? 私が作る?」
「あ、大丈夫。お薬飲むために、もう食べちゃったから。あなたの分は冷蔵庫に入ってるからトースターで焼いてください、未海隊員!」
 琴音の敬礼に、未海はくすっと笑うと、小さく敬礼を返した。
「了解しました」


 琴音が目を瞬いた。
 子供っぽさが日に日に消えていく気がする。これは、正常な事なのだろうか? それとも、あたしの為に背伸びをしているのだろうか?
 あの時、あの子に釘を刺してしまったのは、正しい事だったのだろうか?
 琴音は頭を振ると、いかんいかんと呟きながら寝室に引き上げた。
 病気にかかると、弱気になってしょうがない……。


 未海は顔を手早く洗うと、洗面所の窓を開けた。クーラーをつけているが、一日に一度数分だけでも外気を入れた方が、体調が良いような気がするからだ。
 遠くを走る車の音と、むっとする暑さが滑り込んできた。いつもは横の林でうるさく騒ぐ鳥も時間が遅い所為か静かだった。
 髪をとかすと台所に戻り、食器を洗う。琴音が半分洗っていたので、あっという間に終わった。洗面所に戻ると窓を閉め、冷蔵庫を開ける。
 ラップされた皿には薄切りのピーマン、玉ねぎ、ウィンナーが乗っている。
 ピザトースト、と微笑みながら、未海はパンにケチャップを薄く塗る。そこに先程の具材をピーマン、玉ねぎ、ウィンナーの順に乗せていく。そして仕上げにチーズの薄いセロファンを剥いて、トッピングすれば完成だ。
 ふむ……。
 チーズをパンに対して斜めにして、端を内側に折ってみる。更に少し考えて、チーズの上に粒マスタードを少し塗り、トースターに入れダイヤルを捻った。すぐにトースター内が赤くなっていき、ジリジリというタイマーの音と共にチーズが溶けていく。しばらく、それを眺めると居間に戻った。
 隣の寝室の襖は閉まっていた。忍び足で細く開けて中を伺うと、琴音はアイマスクをして布団に横なっていた。
「ママ、お水いる?」
「いる! ロックでよろしく!」
 未海は台所に戻ると水差しに氷をたっぷり入れ、グラスと一緒にお盆に載せて寝室に運んだ。琴音はアイマスクをずらすと微笑んだ。
「おー、きたきた。お酒を一たらしといきたいとこだけど、お薬飲んじゃったからなあ」
「ママ、他に欲しいものは? お酒はダメだよ」
「未海隊員は厳しいなあ。うん、他はいいよ。そうね――三十分くらい寝たら会社に行くから、未海は遊びに行っちゃってもOK!」
 未海は少しだけ残念だった。最近、琴音と一緒にいる時間が少なかったから、看病という名目で少し甘えたかったのだ。
 チリン、と隣から未海のスマホの呼び出し音が鳴った。
「ほら、お友達だよ! きっと麗香ちゃんだ。面白い写真また撮ってきて、ママに見せて!」
 琴音に促され、未海は立ち上がると居間に戻り、襖を静かに閉めた。テーブルの上のスマホを見るとメールが届いている。
 成程、柊麗香からだった。
 開いてみると、緊急という文字が目に飛び込んできた。思わず変な声が出そうになりながらメールをスクロールさせると、なんてことはない。いつも通りの遊びの誘いだった。
『あちーから、うちにカモン! かき氷が溶ける! はよせや!』とこちらに来る気が微塵もない大変潔いメールに、苦笑いする未海。
 その耳に、トースターのチン! という音が届いた。 


「あら、未海ちゃんお出かけ?」
 琴音に遊びに行く旨を伝え、靴を履こうとした時に玄関をノックしたのは二〇二の松浦みずほだった。みずほは五十代で背が低く、やたらと笑い、声が大きい。夫に先立たれてからは実子の誘いを断り、気ままに一人暮らしをしている。趣味は笑う事で、テレビのバラエティにコメディ映画、琴音から教わった動画サイトやネットの面白動画で日々豪快に快笑している。未海のいるアパートの壁は割と薄く、近隣でみずほの笑い声を知らないものはいないらしい。
 みずほは口をすぼめ、あら? お母さんもいるの? と靴を眺めて驚いている。
「あ、ママは熱があって……」
「あらら……今寝てるの?」
「あ、まだ寝てはいないと思いますけど――」
「あら、みずほさん、どうしたの?」
 赤い顔で琴音が奥から出てきた。みずほがあらっと高い声を上げた。
「どうしたのよ、あなた。顔真っ赤よ。平気? 熱何度? お医者は?」
 琴音は頭を掻いて笑った。
「熱はちょっとです。夏風邪ひき始めってやつです。薬は飲んだんでそろそろ良くなりますよ」
「あらあ……あれよ、水分とって、あと生姜湯とか飲まなきゃ。あ、そうだ、お土産になにか元気が出そうなもの買ってきましょうか? にんにくとか――」
 未海と琴音がそろって、あれ? と声を上げる。
「みずほさん、どこかに行くんですか?」
「うん。なんか突然孫の顔みたくなっちゃってね。電話かけたら海行こうってことになってねえ。未海ちゃんも一緒にどう? って誘いに来たんだけど――」
「えっと……ごめんなさい。お友達の家に今から行くので――」
 未海は残念そうに微笑んだ。その表情にみずほも微笑むと肩をばんばんと叩いた。
「もう、この子ったら、大人びてるかと思えば、どうしてそういう可愛い顔ができちゃうんだろうねえ! じゃあ、未海ちゃんには海のお土産を何か持ってくるからね!」
 みずほは手を振ると立ち去った。
「うーん、海かあ……未海、海行きたい?」
 未海は琴音を見上げ、首を振った。
「……暑いのはちょっと苦手かなあ」
 琴音はしばらく未海の顔を見つめ、小さく溜息をつくと、微笑んだ。そして、暗くならないうちに帰るのよ、と言いながら寝室に引き上げていった。


 というわけで、朝霧未海は玄関の鍵をかけ、外に出た。
 風が無く蒸し暑い。相変わらず遠くからの車の音以外は何も聞こえない。アスファルトはちりちりに焼けていそうに見える。
 ああ、二丁目の空き地、あそこに置いてある冷蔵庫の上によくいる野良猫達、今日はもういないだろうなあ……とぼんやりと考えながら階段の方を向いた途端それが襲ってきた。
 嫌な感じ。
 何かが見えるわけではない。何かが匂うわけでも、聞こえるわけでもない。
 ただただ、嫌な感じを全身が脳に訴える。
 一体何だろう? 何かの、予感みたいなものだろうか?
 未海は寝室で寝ている琴音の事を考えた。
 家にいるべきだろうか?
 そこで、ハッと気がついた。
 二〇三だ。あそこからこれは来ている……ような気がする。ほら、郵便受けにチラシが折り畳んで入っていて、少し隙間があるけど、そこを見てると、頭が痛くなってくる!
 突然、ざあっという音が未海の後ろで弾けた。驚き、振り返ると、たくさんの鳥がアパートの横の林から飛び立つところだった。鳥達は横に縦にと隊列を変えながら、猛スピードで遠ざかっていく。
 あの鳥達……さっきまでずっと鳴かないで、あそこにいたのだろうか?
 階段の方へと目を戻した未海の顔を、汗が額からつうっと顎に向けて垂れた。それはやけに冷たい指で顔を撫でられたように思え、心臓は鼓動を速めた。
 ……え?
 目の端に光がちらりとよぎる。
 もしかして――今――二〇三のドアノブが動かなかっただろうか?
 未海のアパートのドアノブはレバー型ではなく丸いタイプの物だった。その鍵穴がやや斜めになっているように思える。
 誰かが、中にいる? 
 そして、その誰かが、今、ドアを開けようとしている?
 未海の鼓動が更に速くなる。
 いや、開けるのはドアだから当たり前だ。でも、すぐに出てこないのは何故?


 もしかして……私が近づくのを待ってる?


 その時、チリン、とポケットの中でメールの着信音がした。未海はぎくりと体を震わすと震える手でスマホを取り出す。
『空き地にて 猫をなでてる 小学生 夏の暑さに 昇天寸前 どうよ、バショーも真っ青でしょうが? かき氷二杯目たべまーす』
 麗香の微妙すぎる短歌らしきものに緊張が解け、ふはっと短い笑いが漏れた。と、何処かでカタンと音がした。
 あれ?
 二〇三の郵便受け、そこに刺さっていたチラシが抜けて下に落ちている。
 未海はしばらくそこに立って、じっとそれを見ていた。
 ……風?
 いや――だってこんな蒸し暑いのは風がないせいで……。
 ふと気がつくと、嫌な感じが消えていた。
 気のせい、だったのだろうか?
 いや、でも……。
 家に戻ろうか、と一瞬考える。だが、朝、夢から覚めた時のように、さっきまでの不快感は、急速に薄れ、そして溶けて消えていく。自宅のノブに手をかけて、未海は躊躇った。
 最近、ママは私を心配している。
 あの黒いモノ達の所為で、私が沈んでいるのに気がついている。その所為で具合が悪くなったのかもしれない。だったら、麗香ちゃんと面白い写真を撮って、それを見せれば元気になるかもしれない……。
 未海はノブを放した。それでも、しばらくその場に立っていたが、やがてゆっくりと、そっと足を忍ばせ、二〇三の前を通過すると、階段を一気に駆け下りた。
 ドアノブは、動いてはいないように思えた。



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