偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ

月島しいる

最終話 偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ

 バルト・リークの剣先が、アルヴィクトラの喉元に突きつけられる。
 アルヴィクトラはリヴェラの身体を抱えたまま、唇を噛み締めた。
「ゼータ。剣を」
 バルト・リークは視線を逸らさず、背後の仲間に声をかけた。
 後ろに控える七人の男のうち、一人がアルヴィクトラに向かって剣を投げる。高い金属音とともに、長剣がアルヴィクトラの目の前に転がった。
「アルヴィクトラ・ヴェーネ。剣をとれ。あなたの皇帝としての在り方に敬意を表し、相応しい結末を用意しよう。アルヴィクトラ・ヴェーネは決闘により、このバルト・リークと剣を交え、敗れた。あなたは最後まで虐殺に殉じ、数多の帝国騎傑団員を葬った。過去に例を見ないほど強大な帝王だった」
 アルヴィクトラ・ヴェーネはリヴェラの身体をそっと地面に横たわらせると、目の前に転がる剣をとり、ゆらりと立ち上がった。
「そうだ。それでいい。アルヴィクトラ・ヴェーネ。その支配者の、虐殺の血を、私が断ち切ってみせよう」
 バルト・リークがそっと後ろに下がる。
 アルヴィクトラ・ヴェーネも剣を構えたまま後ろに下がった。
 相応しい距離が開いたところで、どちらからともなく足を止め、剣を構えなおす。
「バルト・リーク。最後に、聞いてください。私は皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ。虐殺の系譜は、私を最後に終わりを迎えます」
 バルト・リークがアルヴィクトラ・ヴェーネの真意を探るように、すうっと目を細める。
 アルヴィクトラ・ヴェーネはそれに構わず言葉を続けた。
「私は善き支配者ではありませんでした。だからこそ、私はあなたが起った時、死を覚悟していたのです。終わりの見えない虐殺が終わりを迎えることに、安堵すらしていました」
 でも、とアルヴィクトラはバルト・リークの肩越しに見える暗闇を見つめた。
 森の奥に広がる暗闇。
 嫌な風が吹いた。
「私は、卑劣となじられても守るべきものを見つけました。私は最後の皇帝として、この帝国を去ります」
「何を言っている?」
 バルト・リークが怪訝そうにアルヴィクトラを睨みつける。
 アルヴィクトラは弱々しく微笑むと、突如踵を返した。
「あなたの剣を受けられなかったことを、残念に思います。それでも。私は生きなければならない」
 アルヴィクトラはそう言って、バルト・リークに背を向けて駆け出す。
「あなたは――」
 バルト・リークの叫び声が背後から届いた。
 しかし、それはすぐに獣の咆哮に掻き消される。
 バルト・リークが振り返ると、彼の背後から体高三メートルを超える大型の獣が姿を現したところだった。
 グル。
 リヴェラが左腕を失う原因となった猿のような巨人。
 二足歩行で立つそれは、折れ曲がった背中をゆっくりと伸ばすと、大木のように太く長い腕を大きく振り回した。
 バルト・リークの後ろに控えていた帝国騎傑団員の一人が、その膂力によって嫌な音ともに薙ぎ倒される。
「散らばれえええ!」
 バルト・リークの叫び声。
 それを合図に、グルが咆哮をあげて駆け出す。
 一瞬で場を混乱が支配した。
 人間と獣を掛け合わせたような顔。そして、残虐な知性を宿す瞳が獲物を探すようにギョロギョロと動く。誰かの頭がその巨大な手で掴まれ、捻じ切られる。
 アルヴィクトラは背後の混乱から目を離すと、リヴェラを引きずるように抱えて森の中を走り出した。
 背後から、死の香りがした。
 もう動かない足を無理やり動かして、リヴェラを逃がす為に走る。
 後ろで悲鳴と怒号があがっても、アルヴィクトラは振り返らなかった。
 ただ、森の中を走る。
 先が見えない木々の間を、駆け抜ける。
「リヴェラ……」
 腕の中のリヴェラを力強く抱きしめ、アルヴィクトラは無我夢中で駆けた。
 皇帝の義務も、騎士の誇りも、万軍の主の力も。全ていらない。
 富も名誉も、必要ない。
 血の伝統も、誇り高き心もくだらない。
 それらは、腕の中のリヴェラ・ハイリングを生かすことに何の役にも立たない。
 決闘というバルト・リークが示した最上の結末を捨ててでも、アルヴィクトラは無様に逃げることを選んだ。それが唯一、リヴェラ・ハイリングを生かすことに繋がる。
 死は、恐れるべきものではない。
 真に恐れるべきものは、最愛の者の死だ。
 アルヴィクトラ・ヴェーネはそれを回避する為に、全てを投げ出した。
 後の歴史家は、無様に逃げ回った虐殺幼帝の末路を非難するだろう。
 それがどうした。
 皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネの誇りや名誉など、くれてやる。
 少なくとも、この寡黙な従者はアルヴィクトラの為にそう生きた。
 アルヴィクトラ・ヴェーネはそれに応えなければならない。
 それに応えたい、と心の底から強く思った。
 起伏の激しい地形が、アルヴィクトラの体力を奪っていく。
 リヴェラを抱えた状態では、満足に走れない。
 追いつかれるのは時間の問題だった。
 それでも、どこかに突破口があることを信じて、闇雲に森を駆ける。
「アルヴィクトラ・ヴェーネ!」
 背後から、怒声が届いた。
 振り返ると、木々の向こうから複数の影が迫っていた。
 追跡者の数が、減っている。
 グルの強襲により死傷者が出たのか。
 あと、六人。
 アルヴィクトラ・ヴェーネは息を荒げながら、既に許容範囲を超えた魔術を強制発動すべく、中空に術式を描いた。
 倒す必要はない。必要なのは、足止めだった。
 術式が完成し、背後から迫る男たちの足元を狙って凍結の魔術が放たれる。
「この私に、魔術は効かぬ」
 先頭を走るバルト・リークが飛来する魔術に対し、剣を振るう。それは呆気なく凍結の魔術を掻き消し、虚無へと葬り去った。
 魔力特性"貫通"。
 リヴェラ・ハイリングと同様のそれは、リヴェラと違って剣に練りこまれて発現する。
 全てを貫き、打ち負かす剣。そして最上の剣技。それこそがバルト・リークが序列二位まで上り詰めた所以。
 使用した魔力の一部が不純物となって、体内を駆け巡るのがわかった。許容量を超えたそれは毒となり、アルヴィクトラの身体を内から食い破ろうとする。
 何の前触れもなく、手先の皮膚が弾けた。鮮血が迸り、腕に抱いたリヴェラの黒衣を赤く汚していく。
 不思議と、痛みはなかった。
 それよりも、魔術を打ち消されたことに対する動揺の方が強かった。
 追跡者との距離が、縮まっていく。
 心臓が、肺が、足が、腕が、悲鳴をあげる。
 揺れる視界。
 続く森。
 死の香りが強くなっていく。
 突然、視界が開けた。
 無限に続くかと思われた木々がなくなり、空が見えた。
 そして、アルヴィクトラは終わりを悟った。
 大地の切れ目が、迫っていたのだ。
 巨大な渓谷が広がっていた。
 谷底には、激しい水流。
 辺境の地には、橋などかかっていない。
 行き止まりだった。
 アルヴィクトラは崖を前にして足を止めると、リヴェラの身体をそっと置いて振り返った。
「アルヴィクトラ・ヴェーネ。精霊があなたの死を囁いている。生は削がれ、残された魂は遂行される。それを受け入れろ」
 バルト・リークが剣を構え、ゆっくりと迫る。
 アルヴィクトラは大きく肩で息をしながら、何も持たぬ両手を、まるで剣を持つように構えた。
 術式展開。
 何もない空間に、氷の剣が創造される。それとともに、アルヴィクトラの腕の皮膚が次々と弾け、裂けた。
「循環魔力が、限界を超えているぞ。抵抗臓器そのものが、機能不全を起こしている」
 バルト・リークがアルヴィクトラの身体の異常を見て、無感動に言う。
 アルヴィクトラは剣を構えたまま、じっとバルト・リークの目を見つめた。
「バルト・リーク。もしこの場で私が自決すれば、リヴェラ・ハイリングはどうなりますか?」
「結果は変わらない。虐殺幼帝の右腕として在った彼女を見逃すわけにはいかない。その末路はよく理解しているはずだ」
 アルヴィクトラは腰を落とすと、バルト・リーク向かって大地を蹴った。
「私が相手する。手出しは無用だ」
 バルト・リークは背後の騎傑団員に向かって叫び、アルヴィクトラの剣を正面から受け止めるように動いた。
 一閃。
 アルヴィクトラの剣が、横凪に振るわれる。バルト・リークはそれを払うように防御姿勢をとる。
 二つの剣が引き寄せられるように、衝突する。しかし、衝撃は生まれなかった。
 時間が間延びするような感覚が、アルヴィクトラを襲った。
 アルヴィクトラの振るった剣はバルト・リークの剣と衝突した事実を無視するように、何の抵抗もなく切り裂かれた。
 氷の剣が、折れる。
 その切っ先が光の中で煌き、大気中に霧散した。
 無惨に折れた剣を振りぬいた時、バルト・リークは既に次の動作に移っていた。
 アルヴィクトラの胸を狙うように、その鋭い剣が突き出される。
 受けきれない。
 アルヴィクトラは剣を振るった勢いに任せるように、そのまま重心を戻さず剣に振り回されるように身を投げた。
 わき腹をバルト・リークの剣先が掠め、鮮血が舞った。
 受身をとる余裕もなく、アルヴィクトラは土の上を転がった。そこにバルト・リークが追撃をしかけようと距離を詰める。
 魔力特性"貫通"。
 リヴェラ・ハイリングの熱線は強度を無視してあらゆる障害を貫く。同様に、バルト・リークの剣はいかなる障害も容易く切り裂く。
 バルト・リークの剣はあらゆる防御行為を許さない。
 バルト・リークの剣を防ぐ術はなく、それから逃れる為には回避行動をとるしかない。
 その一方的な能力。そして最上の剣技が混ざり合わさって、バルト・リークは帝国騎傑団において頭角を現したのだ。
 それでも、とアルヴィクトラは思う。
 それは絶対ではない。
 昔、リヴェラが言っていたことが頭をよぎった。


 ――魔力特性というものは、類型化された一つの考え方に過ぎません。綿密な観測によって個々の魔術師が持つ魔力の特性を推測し、それを過去の統計的事実と照らし合わせて、魔力特性としてまとめ上げます。だから、本当に字面通りの意味を持っているかどうかは不明なままです。


 魔力特性は、一面的なものでしかない。
 土の上に転がるアルヴィクトラの上から、バルト・リークの剣が振り下ろされる。
 アルヴィクトラは持てる全ての能力をつぎ込んで、術式を展開させた。
 バルト・リークの剣よりも早く。
 限界を超えて、高速で術式を完成させる。
 何かが、悲鳴をあげる。
 それを無視して、アルヴィクトラは魔力を放った。
 アルヴィクトラの手の中に、氷の剣が生まれる。
 アルヴィクトラの構えた氷の剣と、バルト・リークの剣が交わるように接近する。
 魔力特性"貫通"が発動。
 バルト・リークの剣が、何の抵抗もなく氷の剣に食い込む。
 そして、そのまま氷の剣を打ち抜いて、アルヴィクトラの首を斬り落とすはずだった。
 そのはずだった。
 バルト・リークの目が、驚愕に見開かれる。
 アルヴィクトラの剣がバルト・リークの剣を正面から受け、力強く弾いたのだ。
 魔力特性"貫通"を打ち破るようにして、アルヴィクトラの氷の剣は依然としてその姿を保ち、煌びやかな光を放つ。
 驚き。戸惑い。驚嘆。
 不測の事態に、バルト・リークの動きが止まる。
 その隙を縫うように、アルヴィクトラは勢いよく立ち上がると、氷の剣を振り抜いた。
 困惑から立ち直れていないバルト・リークがかろうじてそれを受け止めようと動く。
 剣と剣がぶつかり合う衝撃。
 またしても、バルト・リークの剣はアルヴィクトラの剣を打ち破ることはなかった。
 魔力特性"貫通"を無視するように、アルヴィクトラの剣はバルト・リークの剣と衝突する。
「――何故」
 バルト・リークの呟きに答えるように、アルヴィクトラの腕の皮膚が何の前触れもなく大きく弾けた。
「もしや、あなたは――」
 アルヴィクトラの異変に気づいたバルト・リークが目を疑うように動きを止める。
 アルヴィクトラはその隙を狙うように再び剣を叩きつけた。バルト・リークの剣がかろうじてそれを受け止める。
 魔力特性"貫通"は発動しない。
 バルト・リークがその事実を認めたように、目の色を変える。
 次の瞬間。突如バルト・リークの腹部に氷の短剣が突き刺さった。
 バルト・リークは何が起こったかわからない様子で、腹部に突き刺さった氷の短剣を信じられないといった目で見つめていた。
 その短剣を辿った先には、アルヴィクトラの左手があった。
 右手には、一瞬前にバルト・リークの剣と衝突していた氷の長剣。
 いつの間にか出現していた左手の短剣を、バルト・リークは幻でも見るようにじっと見つめていた。
「バルト様!」
 後ろに控えていた騎傑団員の一人が飛び出し、アルヴィクトラに肉薄する。
 アルヴィクトラは氷の短剣を引き抜くと、それを投擲した。迫る男がそれを弾き、一瞬の時間ができる。その間にアルヴィクトラは体勢を立て直すように後ろへ飛びのいた。
「そうか――」
 腹部を押さえたバルト・リークがアルヴィクトラを睨みつける。
「――魔力特性"貫通"が発動していない訳ではない。破壊された氷の剣を、再構成し続けているのか」
 アルヴィクトラは、何も答えない。
 右手に剣をを、左手に短剣を構え、苦しそうに息を繰り返すだけだった。
 次々と、アルヴィクトラの皮膚が弾けていく。
 役目を終えて循環する魔力に体内から食い破られ、血だらけのアルヴィクトラは既に戦闘継続能力を失っていた。
「愚かな。魔力がない状態で、そんな膨大な魔力を要する戦術を維持できるはずがない」
 バルト・リークの言葉を証明するように、アルヴィクトラの身体が次々と裂けていく。
 皮膚だけでなく、左腕の肉が突如弾け、アルヴィクトラは苦痛のうめき声を漏らした。
 全身から流れ出る血が、足元を赤く濡らしていく。
 それでも、アルヴィクトラの瞳から戦意が失われることはない。
「愚かだ。愚かだが、その捨て身の戦い方には驚いた。帝国騎傑団序列零位。その肩書きは、どうやら形だけではなかったらしい」
 バルト・リークは血が溢れる腹部を押さえながら、苦しそうに嗤う。
「この手で決着をつけるつもりだったが、それも叶わないか。ゼータ。皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネに名誉ある死を」
 息も絶え絶えに膝を折るバルト・リークの代わりに、ゼータと呼ばれた一人の剣士が進み出る。
 アルヴィクトラは荒い息を繰り返し、おびただしい血を流しながらも、構えた剣を下ろすことなくそれを見つめた。
「帝国騎傑団序列四位。ゼータ・オーウェン。司る魔力特性は"暫定防御"。帝国騎傑団序列零位の英傑と最後に手を合わせる名誉をありがたく思います」
 ゼータ・オーウェンがゆっくりと迫る。
 対するアルヴィクトラは剣を構えることで精一杯で、既に動けない状態だった。
 死が、迫る。
 アルヴィクトラは時折肉体のどこかが弾ける音を聞きながら、その時を待つことしかできなかった。
 アルヴィクトラ・ヴェーネという存在が、壊れていく。
 起こした奇跡の数だけ、体内を走る循環魔力が身体を食い破り、破壊する。
 皮膚も、肉も。そして、骨すらも弾けた。突如激しい衝撃とともに、右手の小指が嫌な音を立てて折れ曲がる。
 何もかもが、崩壊していく。
「アル様」
 崩れる世界の中、優しい声が耳に届いた。
「休んでいてください。後は、私が」
 霞む視界。
 前の前に立つゼータ・オーウェンの輪郭がぼんやりと見えた。
 その頭部に向かって、後方から光の筋が向かった。
 その光は、ゼータ・オーウェンの頭部に吸い込まれていく。次の瞬間、ゼータ・オーウェンの持つ剣が砕け散った。
 魔力特性"暫定防御"。物質に衝撃を肩代わりさせる魔力特性。
 その発動を以って死を免れたゼータ・オーウェンが、遅れて回避行動をとるように後ろへ飛びのく。
「リヴェラ・ハイリング!」
 ゼータ・オーウェンの叫び声。
 振り返ると、霞む視界の向こうで、目を覚ましたリヴェラ・ハイリングが立ち上がるところだった。
「リヴェラ……」
 擦れた声が、喉から零れた。
「アル様……」
 リヴェラが優しく微笑んだのがわかった。
 その柔らかさとは反対に、何か邪悪な気配が周囲に満ちる。
 そして、アルヴィクトラは見た。
 切り立った崖から、何かが這い上がってくる。
 黒く、のっぺりした何か。
 人の形をしているが、一目で人ならざる者とわかった。
 それも、一つではない。
 影のような何かが複数、崖から這い上がってくる。まるで、地獄から這い上がってきたかのように。
「リヴェラ……?」
 アルヴィクトラの口から、呆然と呟きが零れた。
 それを無視するように、リヴェラが黒衣を翻して駆ける。
「ナナシア・ブラインドは貧困に抗う民を救う為、富を捨てた。富は虚しい」
 リヴェラが小声で謳うように呟くのが、風に紛れてアルヴィクトラの耳に届いた。
「ディゴリー・ベイルは帝国を救うため、国民を捨てた。命は虚しい」
 リヴェラが両腕を前に突き出す。強大な術式が構成されるのが見えた。
「アルヴィクトラ・ヴェーネは――を救うため、名誉を捨てた。名誉は虚しい」
 風が強くなる。リヴェラの声が、風に掻き消される。
「リヴェラ・ハイリングは――――」
 術式が展開する。
 あまりにも、禍々しい術式だった。
「――現世も常世も、全て儚く虚しい」
 風が止む。
 そして、魔術と呼ぶべきなのかも定かではないそれは発動した。
 信じられないほどの光の奔流が、ゼータ・オーウェンを呑みこんでいく。
「死霊魔術――いつの間に契約を――」
 轟音の中、バルト・リークの悲鳴が響いた。
 凄まじい光量。
 それは一瞬で過ぎ去り、後には巨大な蛇が這ったような、抉り取られた地面が残されていた。
「散開! リヴェラ・ハイリングを抑えろ!」
 バルト・リークの指令により、バルト・リークを含めた五人の男が一斉に動き出した。
「常世の命は、うたかたの顕現を――」
 リヴェラ・ハイリングが次の術式を展開する。
 その間にも、崖から這い上がってきた黒い影たちがゆっくりとリヴェラ目指して歩いてくる。
「リヴェラ! 黒い影が――」
 アルヴィクトラの叫び声を掻き消すように、完成した術式から得体の知れない死霊の力が発動する。
 巨大すぎる光の流れが、全てを呑みこむように駆け抜ける。
 その先にいた男が光に呑みこまれ、存在そのものが食われるように光の中に消えていく。
「リヴェラ!」
 影が、迫る。
 這い寄るそれは、リヴェラを真っ直ぐに目指してゆっくりと迫る。
 おぞましい予感がした。
 得体の知れない影がリヴェラと接触した瞬間、全てが奪われる気がした。
 リヴェラを囲むように、バルト・リークたちが動く。それを迎え撃つリヴェラ・ハイリングは次の術式の構成に入っている。
 迫る黒い影に、その場の誰もが気づいていないようだった。
 正体不明の焦燥感が募る。
 死霊との契約。
 禁術として伝えられるそれに手を染める魔術師は少ない。
 相応の代償があるはずだった。
 過去に見た光景が、脳裏に甦った。
 死霊と契約した者の最期。
 何かに吊るされるように宙へ浮き、身体を捩じ切られた男の姿。
 かつて、アルヴィクトラはそれを見た。
 まるで見えない何かに魂を奪われるような光景だった。
 きっとそれが今、リヴェラの足元へ這い寄っている。
 血だらけのアルヴィクトラは、リヴェラ・ハイリングを止める為に駆け出した。
「リヴェラ!」
 リヴェラ・ハイリングの術式が完成し、三度目の死霊魔術が発動する。
 轟音と閃光が五感を奪う。
 地面を抉って、巨大な蛇のように光の道が空間を貫通していく。
 誰かが、死霊魔術に呑み込まれていく。
 黒い影が、リヴェラに迫る。
「リヴェラ!」
 アルヴィクトラは、飛び込むようにリヴェラに抱きついた。
 リヴェラが驚いたように振り返る。
「アル、様?」
「リヴェラ、私は、リヴェラを失いたくないです」
 黒い影が、すぐそこまで迫っていた。
 アルヴィクトラの中で、暴走した魔力が駆け巡り、左目が弾けた。
 水晶体が、ガラス片のように宙を舞った。
「リヴェラ、私の身体はもう持たないです。抵抗臓器は機能を停止し、中和する術を失った循環魔力が私を食い殺すでしょう」
 だから、と叫んだ。
「もう、もうやめましょう。ここを抜けても、私たちは既に森から出るほどの体力を残していない。死霊に魂を渡すことなど、やめてください」
 黒い影が、死霊がリヴェラの向かって手を伸ばす。
 アルヴィクトラはリヴェラを守るようにその身を引き寄せた。
「リヴェラ、その魂を私の為に汚さないでください。それが私の最後のお願いです」
 死霊の手が、空を切る。
 バルト・リークが剣を構え、最後の一撃を放とうと大地を蹴る。
「リヴェラ。私は、リヴェラの魂を失いたくない。死しても、その魂だけは失いたくないのです。可能性を、消したくないのです」
 一度は空を切った死霊の手が、再びリヴェラに向かって差し出される。アルヴィクトラは術式を展開すると、叫び声をあげた。
「リヴェラに触るな!」
 氷の剣が、死霊に向かって振るわれる。死霊はそれを恐れるようにゆらりと後退した。
「――死霊!?」
 振るわれた剣先を見て、リヴェラが始めてその存在に気づいたように目を見開く。
 アルヴィクトラは氷の剣を死霊に向けたまま、リヴェラの瞳を正面から見つめた。
「リヴェラ! リヴェラは、全てを分かち合いと言ってくれました。今でも、その気持ちは変わりませんか?」
「もちろんです。私は――」
「それならば、終わりの時を分かり合いましょう。それが残された唯一の救いと信じて」
 アルヴィクトラが叫ぶと、リヴェラはその手をとった。
 そして、アルヴィクトラ・ヴェーネとリヴェラ・ハイリングはどちらからともなく駆け出した。
 もう、言葉は必要なかった。
 足が、内から弾ける。肉が砕け、骨が千切れる。
 アルヴィクトラ・ヴェーネの身体が食われていく。
 転びそうになるアルヴィクトラを、リヴェラが抱きしめて支える。
「身体は、乗り物に過ぎません」
 リヴェラの呟きにアルヴィクトラは頷いて、そして大地を大きく蹴った。
 跳躍の先は、果てしない奈落。
 最後に、アルヴィクトラは今まで自身が踏みしめていた大地の向こうを振り返った。
 死霊が、バルト・リークが、こちらを見ていた。
 そして、アルヴィクトラ・ヴェーネは微笑んだ。
 跳躍が終わり、落下が始まる。
 温かいものが、アルヴィクトラを守るように包み込んだ。
「狂おしいほどお慕い申し上げております」
 風切り音に紛れて、リヴェラの優しい囁きが耳に届いた。それがとても心地よかった。
 そして、アルヴィクトラは落ちる。リヴェラとともに、どこまでも。
 堕ちていく。


◇◆◇


「不可解な」
 バルト・リークは残った二人の部下とともに谷底を見つめていた。
「死霊魔術で優勢をとったと思えば、突然二人揃って死を選ぶとは。全く理解できないな」
 部下の言葉に、バルト・リークは何も言わなかった。
 ただ谷底の激流の中に人影が見えないことを確認すると、無言で踵を返した。部下もそれに続く。
「死霊魔術は、遺体を残さないのだな」
 バルト・リークは大きく抉れた大地を見て、ポツりと零した。
「遺品を持ち帰ることもできないのは残念ですが、諦めましょう。あなたはこれから忙しくなります。死者に構っている暇などありません」
 それまで沈黙を貫いていた部下が、淡々と口を開く。
 そうだな、とバルト・リークは相槌を打って歩を進めた。
「しかし、虐殺幼帝アルヴィクトラ・ヴェーネもこれで終わりとは。どれだけ強大な存在にも、終わりは呆気ない」
 部下の言葉に、バルト・リークは目を瞑って、それから呟くように答えた。
「虐殺幼帝など、どこにもいなかった。あったのは……そう、偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ。善良な一人の少年に過ぎなかった」
 バルト・リークの言葉に二人の部下が怪訝そうな顔を浮かべる。バルト・リークはそれを無視して言葉を続けた。
「皇帝という役割を与えられた途端、彼は虐殺に走った。裏にいたのは帝国軍元帥だ。しかし、確かに十一歳の少年は血に濡れた道を歩んだ。虐殺を為したのは、一体誰だ。一体何がそれを為した。これはきっと帝国という化物が為したものだ。そこに個人の意志が介在する余地はなかった」
「バルト様?」
 部下が戸惑ったように言う。
「何でもない。私も食われぬように気をつけねばなるまい。そう、思ったのだ」
 バルト・リークはそう言って、それから大蛇が這ったような大地を後にした。
 死霊の姿は、もうどこにもなかった。


◇◆◇


 背中が、濡れていた。
 ぬるぬると、背中が濡れている。
 どこかぐしゃぐしゃとした感触で、背中が大きく抉れて多量の血が流れていることがわかった。
 息がうまくできない。喉の奥から生温かい液体が溢れ、口の端から零れる。鉄の味がした。
「リヴェ、ラ……」
 アルヴィクトラは朦朧とする意識の中、誰かの名前を呼んだ。
 誰の名前か、はっきりと思い出せない。
「リヴェ……ラ……」
 上手く声が出ない。自身の声に混ざって、水の音が届いた。
「アル様……」
 美しい声が、アルヴィクトラの耳を打った。
「リヴェラ……」
 意識が、はっきりとする。
 アルヴィクトラは重い瞼を開けると、ゆっくりと首を横に回した。すぐ隣に彼女の姿があり、その血だらけの腕がアルヴィクトラの身体に絡みついていた。
「リヴェ、ラ……」
 呼びかける。しかし、反応はない。
 彼女の姿をよく見ようと、重い瞼を必死に開く。うまく見えない。
 循環魔力の暴走で、左目が弾けたことを思い出す。右目もよく見えない。
 ぼんやりと、周囲を見渡す。首を動かす度に、激しい痛みが走った。
 谷底。どこかに打ち上げられたようだった。
「リヴェ、ラ……聞こえ……ます、か?」
 アルヴィクトラはそう言って、そっと彼女の身体を優しく抱いた。痛いかもしれないと思ったが、彼女は何も言わなかった。もう、痛みを感じることすらできないのかもしれない。
「アル様……?」
 アルヴィクトラの手に、リヴェラが手を重ねる。アルヴィクトラの声に反応したというよりは、アルヴィクトラの手に反応したようだった。
「聞こえ、ますか?」
 血を零しながら、アルヴィクトラは再び問いかけた。リヴェラは答えず、アルヴィクトラの手を大事そうに握っている。
 霞む視界。リヴェラの左頭部が形を失っているのがぼんやりと見えた。耳が潰れているのかもしれない、と思った。
 最後の力を振り絞って、アルヴィクトラはリヴェラに近づこうと動いた。リヴェラも同様に、アルヴィクトラと重なるように動く。
 嫌な水音が、響いた。地面に広がった血液がアルヴィクトラとリヴェラが動く度に音を立てる。
「アル、様」
 リヴェラがアルヴィクトラに重なるように上から身体を絡めてくる。傷口が酷く痛んだが、アルヴィクトラもリヴェラの身体を求めるように彼女の身体に腕を回した。
「アル、様……何も、見えない……」
 アルヴィクトラは何も言わず、そっと口づけた。血の味がした。
「アル様……」
 身体に絡みついていたリヴェラの腕が手探りでアルヴィクトラの頬まで辿りつき、そっと優しく撫でた。
「リヴェ、ラ……聞こえて、いない、と……思いますが、言い、ます」
 アルヴィクトラは血だらけの彼女を抱きしめて、もう形を成していない一部をそっと撫でて、それから言った。
「リヴェ、ラの言葉に、ちゃん、と、答えたいと、思い……ます」
 喉の奥から、ごぼりと血が溢れる。うまく喋れない。
「わた、しも……リヴェラのことが、好き、だった、のだと……思います」
 アルヴィクトラは重い瞼を必死開けて、リヴェラの目だったそれを見つめようと務めた。
「わたしは、リヴェラ、となら……全て、を……分かり合いたい。そう、考えて、想って」
 そして、アルヴィクトラは笑った。うまく笑えた自信はなかったが、笑おうとした。
「ごめん、なさい。うまく、言え、なくて」
 そっと、リヴェラの手がアルヴィクトラの頬を撫でる。
「ちょっと、疲れ、ました。もう、喋れ、ない……かも」
 アルヴィクトラはリヴェラの頬を撫で、こびりついた血を落とそうとした。それでも、血はとれない。彼女の額から流れる血が、アルヴィクトラの指を汚していく。
 色が、失われていく。
 鮮やかなリヴェラの赤い髪は、もう見えない。
 川の音が、耳から遠のいていく。
 アルヴィクトラ・ヴェーネという存在が崩壊していくのがわかった。
「アル、様……」
 微かに、リヴェラの言葉が届いた。
「喉が渇き、ました。水は、あり、ま、せんか……」
 アルヴィクトラはぼんやりと血だらけの自分の腕を見つめた。皮膚が弾け、肉が出ているそれを、そっとリヴェラの口元に持っていく。
 滴る血が、彼女の口に入る。彼女は、何も言わなかった。味覚が、もうないのかもしれない。
 アルヴィクトラはそのまま、血だらけの腕を彼女の口につけた。リヴェラが躊躇するようにそれを舐め、それからそれを飲み干す。
 水音が、響いた。
「せめて、一つに」
 最後の、彼女のそんな呟きが聞こえた。
 薄れていく意識の中、血だらけの腕を彼女が控えめに齧るのが見えた。
 痛みはもう、感じられない。
 ただ全てが鈍っていく。
 全てが、失われていく。
 アルヴィクトラは、リヴェラを受け入れるように腕を差し出したまま動かなかった。
 瞼が、自然と閉じた。目が見えなくなっただけかもしれない。
 意識が薄れていく。怖いとは、思わなかった。すぐ近くにリヴェラがいて、終わりを分かり合っていたから。
 終わりだけではない。
 願うのならば、全てを。
 そして、境界は消滅し、二人は一つになる。






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