隻眼の現人神《隻眼のリビングゴッド》
夫婦
木片と倒れた木々が散乱し、あちらこちらに窪みのできた地面と、所々に残る血痕。
戦いの激しさを物語る戦場の跡に倒れ、ハトホルの治療を受け、緑色に発光する三人の現人神達を見渡し、ネルガルは口を開く。
「……本当にありがとよ。 この罪は一生をかけて償なわせてもらう。 そして、この恩は一生かけて返せてもらうとするぁ」
「……その、言葉。 ……まだ早い、よ?」
ティナはネルガルの背中を押し、目の前で光り輝く大きな翡翠の前へと行くように催促する。
「……そうだったねぇ。 あんちゃん達が残してくれた一番の大仕事がまだ残ってらぁ」
ネルガルは、手に持った戦鎚を力一杯に翡翠へと振り下ろすが、ビクともしない。
焦った表情で何度も何度も戦鎚を振るうが、小さくヒビが入るだけで、決して割れることはなかった。
「チッ…… 割れろや!!  割れてくれぇ!! 」
エレシュキガルは自らの思念を核として、ティアマトの魂を呼び戻した。
だが、器となるには不十分であったため、エレシュキガルは自らの思念をコアとして、外側に配下であるガルラ霊の魂で何層にも覆い、擬似的な【神核】を作り出していた。
故に、エレシュキガルの思念は神核の中心に眠っているため、この翡翠を砕かなければ、エレシュキガルが解放されることはない。
更に、ティナを生かすために、【神核】から思念のみを分離させているため、彼女の存在自体が非常に不安定な物と化しており、この世界に居続けられる時間は限られているため、ネルガルは必死だった。
……俺はまた、間に合わないのかねぇ。
ネルガルは己の無力さに嘆き、悔しげに顔をしかめた時だった。
彼の身体は黒い霧と化し、大きな翡翠に唯一付けることのできたひび割れへと少しずつ吸い込まれていった。
ネルガルは薄く笑うと未だ眠っているはずの自らの片割れに向かい、呟いた。
「兄さん、権能を使うにゃもう限界だろうに…… というか、いつから起きてたんだい?」
『貴方がティナ様を助けてくださった時から、ですかね? 貴方の奥方様を助けたいという気持ちがヒシヒシと伝わって来ていたので、水を差すのは無粋かと思いまして……』
「全く…… 食えない兄さんだ。あんたの夢を叶えるなんて偉そうな事を言っちまったが、こっぱずかしいな。 逆になっちまった 」
目を閉じて、脳内に響き渡る声と会話をするネルガルの身体は完全に翡翠に吸い込まれて、姿を消した。
『私の夢は叶いましたよ。 ティナ様の笑顔など、もう何年も見ていなかったのですから……』
_____________________________
辺りは漆黒の闇。
その空間にあるのは、ティアマトの残した怒り、憎しみ、悲しみ。
そして、一人の女神。
闇の中には生まれた時から慣れているわ。
怒りや憎しみ、負の感情も受け入れる事に抵抗はないわ。
ずっとそうやって生きてきたのだから。
消えてしまう事も仕方がないと思うわ。
あの人を薄汚いあの世界に幽閉した罰を受けなければならないから。
だだ、孤独には…… 慣れていたつもりだったのだけれどね……
エレシュキガルの瞼の裏に焼き付いた記憶の数々。
自らの手にそっと触れる温かい手と、恥ずかしそうに顔を赤らめるネルガル。
それを見て笑う従僕神のナムタル。
そして逃げ回るナムタルを追いかけ回すネルガルを見て笑うエレシュキガル自身。
ネルガルと離れた後、孤独に打ち震えていた自分を母のようだと慕ってくれ、本当の家族のように思っていてくれたティナ。
ネルガルに渡すためのジッポライターに刻印を施している時には、『私なんかよりもずっと女の子だよ』とからかいながらコロコロと鈴のように笑う彼女にふてくされた事はよく覚えている。
ヴィンセントは、ティナと私のワガママに嫌な顔一つせず答えてくれた。
どんな時も私達を励まし、守ってくれた彼。
時折、ティナを眺めて幸せそうな顔をし、急に顔を赤らめる彼を心の中で応援していた。
私の愛する家族達……せめて、この身が朽ち果てる前にもう一度……みんなと会いたかった……。
エレシュキガルは静かに涙を流すと、身体はだんだん透けてゆく。
彼女の頰を伝い、小さなガラス玉のような透明な球体に形を変えて空間に漂う。
「ったく、手間のかかる女だねぇ。 昔から何にも変わっちゃねぇよ」
闇に染まった空間に陽光が差し、飄々とした男の声が木霊する。
「あぁ…… 良かった……  貴方を救い出す事が出来て…… 貴方の声を聞くことが出来て……」
エレシュキガルは安堵した様子でゆっくりと目を閉じる。
彼を救い出し事が出来、剰え散り際に彼の声を聞くこともできた彼女は、もう消えてしまってもいいと、そう思った時だった。
彼女の頬に暖かい手が触れ、慈愛に満ちた男の声が耳に届く。
「救い出すとか寝ぼけたこと言ってんじゃぁねぇ。 お前が俺を迎えに来たあの時とは真逆だが、今度は俺がお前を奪いに来た。ほら、こんな陰気くせえとこにいつまでもいねぇで、さっさと姉さん達んとこに帰んぞ 」
エレシュキガルの身体はふわっと浮き上がり、抱きかかえられる。
全身を覆う心地よい体温に彼女は再び目を開けると、少し驚いたような表情で口を開く。
「ヴィンセント……? それとも、ナムタルかしら?」
「どっちも半分正解だねぇ。 兄さんの体を借りてっし、使ってんのはナムの権能だからなぁ。 ……ほら、他に思い当たる奴がいるなら言ってみな?」
柔らかく、そして無邪気に笑う男の顔は、遥か昔に自らに向けて微笑みかけてくれた夫の姿と重なる。
エレシュキガルは先程の孤独と悲しみの中で流した物とは正反対の、喜びに震え、顔をぐしゃぐしゃにしながら大粒の涙を流し、男の胸に顔を埋めながら口を開く。
「……私の願いは……ずっと、叶っていたのね…… 本当に意地悪な人」
「すまねぇ…… お前を送り出したのは俺だったからよ…… お前が俺のことを恨んでんじゃねぇかって思っててねぇ、怖くて言えないで居たんだ」
バツが悪そうな顔で、力一杯に自身の腰に手を回すエレシュキガルを見つめると、彼女は顔を上げ、ネルガルに視線を合わせて彼女は真っ赤な顔で小さく笑う。
「私も、正直貴方に恨まれていると思っていたの。 私は貴方に冥界を任せたまま封印されてしまったから……でも、どうやって冥界から出る事が出来たの……?」
「ナムの奴がな、戦争が始まったってすっ飛んで来た時に言ったんだよ……『ネルガル様、どうかエレシュキガル様の元へ向かわれてください。 この世界は僕が引き受けますから』ってよ。 本当に立派になりやがったよ、あのシャバ造は」
ナムタルは、エレシュキガルの身を案じるネルガルの姿を見て、自らの権能と、ネルガルが持つ冥界を統べる権能を取り替え、ネルガルを送り出し、冥界を統べる事を決意したのだった。
故に、現在冥界に閉じ込められてしまっているのはナムタルである。
「……そう。 ナムタルには謝らないといけないわね……」
二人は視線を落とし俯く。
ネルガルは、どんどん軽くなって行くエレシュキガルの身体を一瞥すると真面目な顔で口を開く。
「もう時間がねえな…… 姉さん達が待ってる世界に帰るぞ、エレ」
「……それはできないわ。 私はあの子との約束を破ってここにいるの。 そんな私をあの子が受け入れてくれるはずなんてない……」
俯いたまま、小さく呟いたエレシュキガルに、ネルガルは溜息を吐く。
「ったく、うじうじする前に許してもらえるかどうか、姉さんに直接聞いてみりゃいいだろうが。 もう時間がねえんだ。 無理矢理にでも連れて行かせてもらうからな」
ネルガルは、不安な面持ちで押し黙るエレシュキガルを抱えたまま、差し込んだ陽光を頼りに外の世界へと駆け出した。
戦いの激しさを物語る戦場の跡に倒れ、ハトホルの治療を受け、緑色に発光する三人の現人神達を見渡し、ネルガルは口を開く。
「……本当にありがとよ。 この罪は一生をかけて償なわせてもらう。 そして、この恩は一生かけて返せてもらうとするぁ」
「……その、言葉。 ……まだ早い、よ?」
ティナはネルガルの背中を押し、目の前で光り輝く大きな翡翠の前へと行くように催促する。
「……そうだったねぇ。 あんちゃん達が残してくれた一番の大仕事がまだ残ってらぁ」
ネルガルは、手に持った戦鎚を力一杯に翡翠へと振り下ろすが、ビクともしない。
焦った表情で何度も何度も戦鎚を振るうが、小さくヒビが入るだけで、決して割れることはなかった。
「チッ…… 割れろや!!  割れてくれぇ!! 」
エレシュキガルは自らの思念を核として、ティアマトの魂を呼び戻した。
だが、器となるには不十分であったため、エレシュキガルは自らの思念をコアとして、外側に配下であるガルラ霊の魂で何層にも覆い、擬似的な【神核】を作り出していた。
故に、エレシュキガルの思念は神核の中心に眠っているため、この翡翠を砕かなければ、エレシュキガルが解放されることはない。
更に、ティナを生かすために、【神核】から思念のみを分離させているため、彼女の存在自体が非常に不安定な物と化しており、この世界に居続けられる時間は限られているため、ネルガルは必死だった。
……俺はまた、間に合わないのかねぇ。
ネルガルは己の無力さに嘆き、悔しげに顔をしかめた時だった。
彼の身体は黒い霧と化し、大きな翡翠に唯一付けることのできたひび割れへと少しずつ吸い込まれていった。
ネルガルは薄く笑うと未だ眠っているはずの自らの片割れに向かい、呟いた。
「兄さん、権能を使うにゃもう限界だろうに…… というか、いつから起きてたんだい?」
『貴方がティナ様を助けてくださった時から、ですかね? 貴方の奥方様を助けたいという気持ちがヒシヒシと伝わって来ていたので、水を差すのは無粋かと思いまして……』
「全く…… 食えない兄さんだ。あんたの夢を叶えるなんて偉そうな事を言っちまったが、こっぱずかしいな。 逆になっちまった 」
目を閉じて、脳内に響き渡る声と会話をするネルガルの身体は完全に翡翠に吸い込まれて、姿を消した。
『私の夢は叶いましたよ。 ティナ様の笑顔など、もう何年も見ていなかったのですから……』
_____________________________
辺りは漆黒の闇。
その空間にあるのは、ティアマトの残した怒り、憎しみ、悲しみ。
そして、一人の女神。
闇の中には生まれた時から慣れているわ。
怒りや憎しみ、負の感情も受け入れる事に抵抗はないわ。
ずっとそうやって生きてきたのだから。
消えてしまう事も仕方がないと思うわ。
あの人を薄汚いあの世界に幽閉した罰を受けなければならないから。
だだ、孤独には…… 慣れていたつもりだったのだけれどね……
エレシュキガルの瞼の裏に焼き付いた記憶の数々。
自らの手にそっと触れる温かい手と、恥ずかしそうに顔を赤らめるネルガル。
それを見て笑う従僕神のナムタル。
そして逃げ回るナムタルを追いかけ回すネルガルを見て笑うエレシュキガル自身。
ネルガルと離れた後、孤独に打ち震えていた自分を母のようだと慕ってくれ、本当の家族のように思っていてくれたティナ。
ネルガルに渡すためのジッポライターに刻印を施している時には、『私なんかよりもずっと女の子だよ』とからかいながらコロコロと鈴のように笑う彼女にふてくされた事はよく覚えている。
ヴィンセントは、ティナと私のワガママに嫌な顔一つせず答えてくれた。
どんな時も私達を励まし、守ってくれた彼。
時折、ティナを眺めて幸せそうな顔をし、急に顔を赤らめる彼を心の中で応援していた。
私の愛する家族達……せめて、この身が朽ち果てる前にもう一度……みんなと会いたかった……。
エレシュキガルは静かに涙を流すと、身体はだんだん透けてゆく。
彼女の頰を伝い、小さなガラス玉のような透明な球体に形を変えて空間に漂う。
「ったく、手間のかかる女だねぇ。 昔から何にも変わっちゃねぇよ」
闇に染まった空間に陽光が差し、飄々とした男の声が木霊する。
「あぁ…… 良かった……  貴方を救い出す事が出来て…… 貴方の声を聞くことが出来て……」
エレシュキガルは安堵した様子でゆっくりと目を閉じる。
彼を救い出し事が出来、剰え散り際に彼の声を聞くこともできた彼女は、もう消えてしまってもいいと、そう思った時だった。
彼女の頬に暖かい手が触れ、慈愛に満ちた男の声が耳に届く。
「救い出すとか寝ぼけたこと言ってんじゃぁねぇ。 お前が俺を迎えに来たあの時とは真逆だが、今度は俺がお前を奪いに来た。ほら、こんな陰気くせえとこにいつまでもいねぇで、さっさと姉さん達んとこに帰んぞ 」
エレシュキガルの身体はふわっと浮き上がり、抱きかかえられる。
全身を覆う心地よい体温に彼女は再び目を開けると、少し驚いたような表情で口を開く。
「ヴィンセント……? それとも、ナムタルかしら?」
「どっちも半分正解だねぇ。 兄さんの体を借りてっし、使ってんのはナムの権能だからなぁ。 ……ほら、他に思い当たる奴がいるなら言ってみな?」
柔らかく、そして無邪気に笑う男の顔は、遥か昔に自らに向けて微笑みかけてくれた夫の姿と重なる。
エレシュキガルは先程の孤独と悲しみの中で流した物とは正反対の、喜びに震え、顔をぐしゃぐしゃにしながら大粒の涙を流し、男の胸に顔を埋めながら口を開く。
「……私の願いは……ずっと、叶っていたのね…… 本当に意地悪な人」
「すまねぇ…… お前を送り出したのは俺だったからよ…… お前が俺のことを恨んでんじゃねぇかって思っててねぇ、怖くて言えないで居たんだ」
バツが悪そうな顔で、力一杯に自身の腰に手を回すエレシュキガルを見つめると、彼女は顔を上げ、ネルガルに視線を合わせて彼女は真っ赤な顔で小さく笑う。
「私も、正直貴方に恨まれていると思っていたの。 私は貴方に冥界を任せたまま封印されてしまったから……でも、どうやって冥界から出る事が出来たの……?」
「ナムの奴がな、戦争が始まったってすっ飛んで来た時に言ったんだよ……『ネルガル様、どうかエレシュキガル様の元へ向かわれてください。 この世界は僕が引き受けますから』ってよ。 本当に立派になりやがったよ、あのシャバ造は」
ナムタルは、エレシュキガルの身を案じるネルガルの姿を見て、自らの権能と、ネルガルが持つ冥界を統べる権能を取り替え、ネルガルを送り出し、冥界を統べる事を決意したのだった。
故に、現在冥界に閉じ込められてしまっているのはナムタルである。
「……そう。 ナムタルには謝らないといけないわね……」
二人は視線を落とし俯く。
ネルガルは、どんどん軽くなって行くエレシュキガルの身体を一瞥すると真面目な顔で口を開く。
「もう時間がねえな…… 姉さん達が待ってる世界に帰るぞ、エレ」
「……それはできないわ。 私はあの子との約束を破ってここにいるの。 そんな私をあの子が受け入れてくれるはずなんてない……」
俯いたまま、小さく呟いたエレシュキガルに、ネルガルは溜息を吐く。
「ったく、うじうじする前に許してもらえるかどうか、姉さんに直接聞いてみりゃいいだろうが。 もう時間がねえんだ。 無理矢理にでも連れて行かせてもらうからな」
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