召喚獣のお医者さん
1.獣医師・国沢智花
若草の匂いがする。
肌に感じる柔らかな陽射し。その光が瞼の向こうでゆらゆらと揺らめくのは、どうやら陽の光が木々の隙間を抜けているようだ。
穏やかに響く葉ずれの音と小鳥のさえずり。
頬の下にはわずかに露で湿った落ち葉の感触。
気持ちいい。もっと寝ていたい。
そんな気持ちを知ってか、時折そよぐ風が優しく寝かしつけるようにトモカの尻尾の先や耳の毛を撫でていく。
(最近あんまり寝てなかったから────)
しかしなぜだろう、どこか脳裏に引っかかる微かな違和感が。
(気持ちいい……って尻尾!?)
トモカは驚愕に目を見開き、ガバリと飛び起きた。
ぐるりと見渡せば、そこは金色の木漏れ日が祝福を与える見慣れない森の中。
一方で、服は見慣れたお気に入りの紺色のワンピースを着ている。
おかしいな。さっきまで手術着を着ていたはずなんだけど。
それにここはどこ?
手足は特に異常はないようだ。
ただ、気のせいか、なんだか手の甲の肌ツヤが記憶より良いような気がする。
足元もこれまた手術室用の白いサンダルではなく、1番お気に入りのダークブラウンのプラットフォームパンプスを履いている。
そして慌てて自分の後方を確認すると、ワンピースの裾の下からはみ出している美しい毛並みの……長く、白い、
……尻尾。
(なんでスカートの中からしっぽ!?)
トモカが尻尾の存在に驚くと同時に、白い尻尾がビクッと跳ねて白い毛が膨らむ。
(動いた!?猫がスカートの中に隠れてるとか?……まさかね)
なんとなく分かってはいたものの、現実を認めたくなくて恐る恐る尻尾を掴んでそぅっと引っ張ってみる。
お尻の上あたりが引っ張られる感覚。
あ、ダメだこれ。間違いない。
感覚が夢にしてはリアルすぎる。
トモカは尻尾を握りしめたまま、ぴょこぴょこ動く白い先っちょを見つめて脱力した。
「尻尾……生えちゃった……」
ピッピッピッピッ。カチャッカチャッ。
機器の電子音と金属製器具のぶつかる音が、無機質な手術室内に響く。 
「心拍と酸素は?」
「……ええと、心拍110です。呼吸数が減っているので時々呼吸補助してますけど、酸素飽和度は98%で安定してます」
麻酔を管理しているベテラン動物看護士の声に国沢智花は少し安堵する。
高齢の猫なので長時間の麻酔が心配であったが、生体反応はまずまず安定している様子だ。
時間との勝負なので術部から目は離せない。
水色の撥水性使い捨て敷布で囲まれた術創を真剣に覗き込む。
腫瘍からの出血は全てガーゼでカバーリングしてある。
人間の拳大程もある腫瘍は、周りの組織からすでに丁寧に剥離され、手術は最後の段階に入っている。
腫瘍に繋がる太めの血管を全て二重に結紮し、その先を確実に切断する。
よし、全部取り切れた。
助手をしてくれている同僚の東堂が、鉗子で挟んだままの腫瘍を用意されていた膿盆に慎重に移す。
智花はその間に患部の出血が無いかくまなく確認しながら、外回りの動物看護士に指示を出す。
「保温生食ください。今から術部の洗浄に入ります。体温が下がるから保温をしっかりお願い」
「分かりました。ヒーター温度を1段上げます」
「追加で輸液ヒーターもお願いします」
「はい」
智花は獣医師である。
先週33歳になったばかりだが、大学卒業後、地方都市のやや大きめの動物病院に勤めて8年目。
3~5年程度の勤務医を経て開業する仲間が多い中、なかなか開業する踏ん切りがつかずに勤め続けている。その結果、勤務医としては長く勤めているほうになってしまった。
経験が多く勉強熱心な上に、手先が器用だったことも幸いして、病院に務める5人の勤務医の中では最も手術が正確かつ丁寧で速いと評判であり、院長からの信頼も厚い。
診察も比較的卒なくこなすため、自然と副院長的な立場になっている。
長時間の手術は年齢的にキツいとこぼす院長に代わって難しい手術を任される(押しつけられる)こともしばしばだ。
しかし、信頼が厚いという事は、任される仕事も多いということ。
診察、手術、入院中の重症患畜の治療、気難しい飼い主への対応、新人獣医師や動物看護士への指導、カルテの管理、学会参加のための症例のデータのまとめなど、あらゆる仕事が智花に舞い込んでくる。
朝は8時に出勤だが、なんだかんだで帰宅は深夜になることがほとんど。
仕事中はひっきりなしに診察室や手術室に呼ばれるので息つく暇もない。
昼休憩も一応設定されてはいるものの、たいてい手術や治療で潰れるので、昼食はおにぎりとビタミン剤と水を1分で口に押し込んで終わりである。
日中は仕事が忙しく勉強の時間が取れないので、朝早く起きて勉強するようにしたら、夜2時に寝て朝5時に起きるという生活が常態化してしまった。
休日は週に1日あるが、緊急で呼び出されることも多く、心からゆっくり休める時間はない。
そんな生活を続けているうち、恋人を作る暇もなく、淡々と仕事をこなすだけの毎日になったのだ。
恋人の存在どころか自分の生存すら危ぶまれる日々である。
今日は火曜日。
勤務獣医師の休日は曜日交代制となっており、智花の休日は水曜日なので、今日の仕事が終われば明日は多少ゆっくりできる予定だ。
激務のせいかここの所頭痛もひどいし、全体的に体調があまり良くない。今日はできるだけ早く帰って休もう。
そう考えていた矢先のこと。
明後日手術予定で入院していた老齢猫の腫瘍が、体内で自壊して出血したことが判明したために、飼い主と相談の上で緊急手術となったのだ。
院長は東京での学会のため不在。仕方なく3歳歳下の同じ勤務獣医師である東堂誠とともに手術に臨むこととなった。
今回の腫瘍はサイズこそ大きいが、簡易的な検査では細胞の悪性度は高くはなく、他の臓器とも比較的遊離しているので、手術自体はそう難しいものでは無い予定だった。
開腹し、腫瘍に繋がる太い血管を結紮して切除するだけ。
ただし、問題は既に腫瘍が自壊し、腹腔内で大量に出血してしまっていることだ。
ただでさえ老齢なのに、出血による貧血で体力が大きく低下しており、また、良性とは言え腫瘍細胞が腹腔内に散らばってしまうと、再発する可能性が非常に高いのである。
体力保持のために慎重に輸液と輸血を行い、切除後もかなり丁寧に洗浄する必要がある。
(お願い助かって)
智花は温めた生理食塩水で丁寧に患部を洗浄しながら、この手の下にある命が再び飼い主との幸せな時間を取り戻せるよう静かに祈った。
この猫の飼い主は、山の方に住む穏やかな老夫婦である。
サクラと名付けられたその猫は、16歳という高齢の割に美しい黒い毛並みを維持しており、どこか堂々とした風情を感じる不思議な猫だった。
エサを食べなくなったと連れてこられたのが昨日。
上腹部に触診ですぐ分かるほどの大きな腫瘍があり、それが胃の外側から圧迫しているのが分かった。
血液検査で貧血と脱水はあるものの他に大きな異常はなく、食餌困難は物理的なものと考えられた。
最早抗がん剤を使う段階ではない。
手術で切除するしかないが、高齢でしばらく食餌も摂っていないことから、長時間の全身麻酔に耐えられるかがキーになってくる。
数日入院して流動食と輸液で体力を上げてから手術をする予定だったのだが、前倒しになってしまった。
体力が保てばいいのだが……。
洗浄液を簡易細胞検査に回し、腫瘍細胞が見つからなかったことを確認して、腹部を縫合する。
この時点で既に24時をまわってしまっていた。
「国沢センセ大丈夫?」
手術帽の下の額に脂汗が滲んだ智花の様子を見て、助手に入っている東堂が心配そうに声をかける。
激務なのは彼も変わらない。心配かけてる場合じゃない!
「ごめんありがと、大丈夫。」
目だけで笑って応えるが、実はかなり限界であった。
疲労のためか、頭痛がどんどん酷くなっている。
目眩がする。手も痺れてきた。
しかし腹膜と皮下組織の縫合が終わり、1番最後の皮膚の縫合も残り5糸ほどで終わりそうだ。
(もう少しで終わる────)
と、その時麻酔を管理している動物看護士が焦った声を出した。
「心拍急激に下がりました!今35です」
まずい!やはり体力が保たなかったか。
「麻酔1/3に下げて。準備してたアトロピン入れてください。念の為エピネフリンの用意も」
「輸液速度50上げて!手術もうすぐ終わるから集中治療室保温しといて」
智花と東堂がそれぞれ速やかに指示を出す。
こういう事態に備えて予め用意してあったため、動物看護士たちは迷いなくスムースに指示に従う。
「アトロピン入れました。心拍42」
「輸液速度上げました。ICUも受入準備できてます」
「麻酔全部切って。酸素だけにして、エピネフリンも入れてください」
「はい」
その間に皮膚の縫合を進めていく。
(お願い、戻ってきて)
祈りながら最後の一糸(いっし)を終わらせた。
パチン。
余った糸を切る。
「心拍96まで上がりました。」
動物看護士の声に安堵する。そこまで上がれば大丈夫だろう。
「手術も終わりました。安定したらICUに移動してください」
「「はい」」
「あの……申し訳ないけど東堂先生、この後の経過観察お願いしていいですか」
智花も限界であった。
患畜サクラの患部を拭いて保護ガーゼを当てようとしていた東堂に声をかける。
頭が割れるように痛い。気持ち悪い。手足に力が入らない。
「もちろんです。おつかれっした!……って国沢センセ!? ちょっと誰か、担架!!!」
智花の顔を見た東堂が焦った声を出す。いつも冷静なこの男がこんなに焦った声を出すとは。
面白いこともあるのね────
少し滑稽に感じながらも、智花はその場に崩れ落ちた。
術後のサクラの処置と倒れた智花の介抱でバタバタしていた手術室では、智花の身体から2つの大きさの違う薄い光の塊がぼんやり浮かび上がったことに気づいた者は誰もいなかった。
小さい方の光がサクラに吸い込まれていったことにも。
ふよふよと上へと向かって浮上しようとしていた大きい方の光が、急に軌道を変え、壁の外へ物凄い勢いで飛び出していったことにも。
そうして、智花の短い人生は終了した。
肌に感じる柔らかな陽射し。その光が瞼の向こうでゆらゆらと揺らめくのは、どうやら陽の光が木々の隙間を抜けているようだ。
穏やかに響く葉ずれの音と小鳥のさえずり。
頬の下にはわずかに露で湿った落ち葉の感触。
気持ちいい。もっと寝ていたい。
そんな気持ちを知ってか、時折そよぐ風が優しく寝かしつけるようにトモカの尻尾の先や耳の毛を撫でていく。
(最近あんまり寝てなかったから────)
しかしなぜだろう、どこか脳裏に引っかかる微かな違和感が。
(気持ちいい……って尻尾!?)
トモカは驚愕に目を見開き、ガバリと飛び起きた。
ぐるりと見渡せば、そこは金色の木漏れ日が祝福を与える見慣れない森の中。
一方で、服は見慣れたお気に入りの紺色のワンピースを着ている。
おかしいな。さっきまで手術着を着ていたはずなんだけど。
それにここはどこ?
手足は特に異常はないようだ。
ただ、気のせいか、なんだか手の甲の肌ツヤが記憶より良いような気がする。
足元もこれまた手術室用の白いサンダルではなく、1番お気に入りのダークブラウンのプラットフォームパンプスを履いている。
そして慌てて自分の後方を確認すると、ワンピースの裾の下からはみ出している美しい毛並みの……長く、白い、
……尻尾。
(なんでスカートの中からしっぽ!?)
トモカが尻尾の存在に驚くと同時に、白い尻尾がビクッと跳ねて白い毛が膨らむ。
(動いた!?猫がスカートの中に隠れてるとか?……まさかね)
なんとなく分かってはいたものの、現実を認めたくなくて恐る恐る尻尾を掴んでそぅっと引っ張ってみる。
お尻の上あたりが引っ張られる感覚。
あ、ダメだこれ。間違いない。
感覚が夢にしてはリアルすぎる。
トモカは尻尾を握りしめたまま、ぴょこぴょこ動く白い先っちょを見つめて脱力した。
「尻尾……生えちゃった……」
ピッピッピッピッ。カチャッカチャッ。
機器の電子音と金属製器具のぶつかる音が、無機質な手術室内に響く。 
「心拍と酸素は?」
「……ええと、心拍110です。呼吸数が減っているので時々呼吸補助してますけど、酸素飽和度は98%で安定してます」
麻酔を管理しているベテラン動物看護士の声に国沢智花は少し安堵する。
高齢の猫なので長時間の麻酔が心配であったが、生体反応はまずまず安定している様子だ。
時間との勝負なので術部から目は離せない。
水色の撥水性使い捨て敷布で囲まれた術創を真剣に覗き込む。
腫瘍からの出血は全てガーゼでカバーリングしてある。
人間の拳大程もある腫瘍は、周りの組織からすでに丁寧に剥離され、手術は最後の段階に入っている。
腫瘍に繋がる太めの血管を全て二重に結紮し、その先を確実に切断する。
よし、全部取り切れた。
助手をしてくれている同僚の東堂が、鉗子で挟んだままの腫瘍を用意されていた膿盆に慎重に移す。
智花はその間に患部の出血が無いかくまなく確認しながら、外回りの動物看護士に指示を出す。
「保温生食ください。今から術部の洗浄に入ります。体温が下がるから保温をしっかりお願い」
「分かりました。ヒーター温度を1段上げます」
「追加で輸液ヒーターもお願いします」
「はい」
智花は獣医師である。
先週33歳になったばかりだが、大学卒業後、地方都市のやや大きめの動物病院に勤めて8年目。
3~5年程度の勤務医を経て開業する仲間が多い中、なかなか開業する踏ん切りがつかずに勤め続けている。その結果、勤務医としては長く勤めているほうになってしまった。
経験が多く勉強熱心な上に、手先が器用だったことも幸いして、病院に務める5人の勤務医の中では最も手術が正確かつ丁寧で速いと評判であり、院長からの信頼も厚い。
診察も比較的卒なくこなすため、自然と副院長的な立場になっている。
長時間の手術は年齢的にキツいとこぼす院長に代わって難しい手術を任される(押しつけられる)こともしばしばだ。
しかし、信頼が厚いという事は、任される仕事も多いということ。
診察、手術、入院中の重症患畜の治療、気難しい飼い主への対応、新人獣医師や動物看護士への指導、カルテの管理、学会参加のための症例のデータのまとめなど、あらゆる仕事が智花に舞い込んでくる。
朝は8時に出勤だが、なんだかんだで帰宅は深夜になることがほとんど。
仕事中はひっきりなしに診察室や手術室に呼ばれるので息つく暇もない。
昼休憩も一応設定されてはいるものの、たいてい手術や治療で潰れるので、昼食はおにぎりとビタミン剤と水を1分で口に押し込んで終わりである。
日中は仕事が忙しく勉強の時間が取れないので、朝早く起きて勉強するようにしたら、夜2時に寝て朝5時に起きるという生活が常態化してしまった。
休日は週に1日あるが、緊急で呼び出されることも多く、心からゆっくり休める時間はない。
そんな生活を続けているうち、恋人を作る暇もなく、淡々と仕事をこなすだけの毎日になったのだ。
恋人の存在どころか自分の生存すら危ぶまれる日々である。
今日は火曜日。
勤務獣医師の休日は曜日交代制となっており、智花の休日は水曜日なので、今日の仕事が終われば明日は多少ゆっくりできる予定だ。
激務のせいかここの所頭痛もひどいし、全体的に体調があまり良くない。今日はできるだけ早く帰って休もう。
そう考えていた矢先のこと。
明後日手術予定で入院していた老齢猫の腫瘍が、体内で自壊して出血したことが判明したために、飼い主と相談の上で緊急手術となったのだ。
院長は東京での学会のため不在。仕方なく3歳歳下の同じ勤務獣医師である東堂誠とともに手術に臨むこととなった。
今回の腫瘍はサイズこそ大きいが、簡易的な検査では細胞の悪性度は高くはなく、他の臓器とも比較的遊離しているので、手術自体はそう難しいものでは無い予定だった。
開腹し、腫瘍に繋がる太い血管を結紮して切除するだけ。
ただし、問題は既に腫瘍が自壊し、腹腔内で大量に出血してしまっていることだ。
ただでさえ老齢なのに、出血による貧血で体力が大きく低下しており、また、良性とは言え腫瘍細胞が腹腔内に散らばってしまうと、再発する可能性が非常に高いのである。
体力保持のために慎重に輸液と輸血を行い、切除後もかなり丁寧に洗浄する必要がある。
(お願い助かって)
智花は温めた生理食塩水で丁寧に患部を洗浄しながら、この手の下にある命が再び飼い主との幸せな時間を取り戻せるよう静かに祈った。
この猫の飼い主は、山の方に住む穏やかな老夫婦である。
サクラと名付けられたその猫は、16歳という高齢の割に美しい黒い毛並みを維持しており、どこか堂々とした風情を感じる不思議な猫だった。
エサを食べなくなったと連れてこられたのが昨日。
上腹部に触診ですぐ分かるほどの大きな腫瘍があり、それが胃の外側から圧迫しているのが分かった。
血液検査で貧血と脱水はあるものの他に大きな異常はなく、食餌困難は物理的なものと考えられた。
最早抗がん剤を使う段階ではない。
手術で切除するしかないが、高齢でしばらく食餌も摂っていないことから、長時間の全身麻酔に耐えられるかがキーになってくる。
数日入院して流動食と輸液で体力を上げてから手術をする予定だったのだが、前倒しになってしまった。
体力が保てばいいのだが……。
洗浄液を簡易細胞検査に回し、腫瘍細胞が見つからなかったことを確認して、腹部を縫合する。
この時点で既に24時をまわってしまっていた。
「国沢センセ大丈夫?」
手術帽の下の額に脂汗が滲んだ智花の様子を見て、助手に入っている東堂が心配そうに声をかける。
激務なのは彼も変わらない。心配かけてる場合じゃない!
「ごめんありがと、大丈夫。」
目だけで笑って応えるが、実はかなり限界であった。
疲労のためか、頭痛がどんどん酷くなっている。
目眩がする。手も痺れてきた。
しかし腹膜と皮下組織の縫合が終わり、1番最後の皮膚の縫合も残り5糸ほどで終わりそうだ。
(もう少しで終わる────)
と、その時麻酔を管理している動物看護士が焦った声を出した。
「心拍急激に下がりました!今35です」
まずい!やはり体力が保たなかったか。
「麻酔1/3に下げて。準備してたアトロピン入れてください。念の為エピネフリンの用意も」
「輸液速度50上げて!手術もうすぐ終わるから集中治療室保温しといて」
智花と東堂がそれぞれ速やかに指示を出す。
こういう事態に備えて予め用意してあったため、動物看護士たちは迷いなくスムースに指示に従う。
「アトロピン入れました。心拍42」
「輸液速度上げました。ICUも受入準備できてます」
「麻酔全部切って。酸素だけにして、エピネフリンも入れてください」
「はい」
その間に皮膚の縫合を進めていく。
(お願い、戻ってきて)
祈りながら最後の一糸(いっし)を終わらせた。
パチン。
余った糸を切る。
「心拍96まで上がりました。」
動物看護士の声に安堵する。そこまで上がれば大丈夫だろう。
「手術も終わりました。安定したらICUに移動してください」
「「はい」」
「あの……申し訳ないけど東堂先生、この後の経過観察お願いしていいですか」
智花も限界であった。
患畜サクラの患部を拭いて保護ガーゼを当てようとしていた東堂に声をかける。
頭が割れるように痛い。気持ち悪い。手足に力が入らない。
「もちろんです。おつかれっした!……って国沢センセ!? ちょっと誰か、担架!!!」
智花の顔を見た東堂が焦った声を出す。いつも冷静なこの男がこんなに焦った声を出すとは。
面白いこともあるのね────
少し滑稽に感じながらも、智花はその場に崩れ落ちた。
術後のサクラの処置と倒れた智花の介抱でバタバタしていた手術室では、智花の身体から2つの大きさの違う薄い光の塊がぼんやり浮かび上がったことに気づいた者は誰もいなかった。
小さい方の光がサクラに吸い込まれていったことにも。
ふよふよと上へと向かって浮上しようとしていた大きい方の光が、急に軌道を変え、壁の外へ物凄い勢いで飛び出していったことにも。
そうして、智花の短い人生は終了した。
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