異世界召喚ゴムパッチン理論 〜自由意志ゼロの二世界往復、異世界で最強でも現世界ではいつも死にそうです
最終話(二)「ぼくは無力だ」
起き上がると同時に、ヘザは弓を引き絞った。やじりにはほのかな魔力の輝きが宿っている。
その矢の向く先──夜空を滑るように、漆黒の竜の姿が接近してくるのが見えた。
ヒュンと、魔弾が風を切った。
やはり正確に、ドラゴンの目へと向かう。
しかし矢はガッと弾かれ、瞳の表面を小さく削るだけだった。オオンと吼えてドラゴンは急上昇し、くるりと旋回して戻ってきた時には、そのえぐれた目も元どおりに再生していた。
何てことだ。あの大洞穴の大グモの半分程度の大きさではあるが──身体を形作る魔素の密度は同等以上だというのか。
ドラゴンはぼくたちのいるビルの上空で停止した。明らかにこちらに敵意を向けている。
頭部に突き出たツノの間に、膨大な魔力の塊が、パチパチとスパークを立てながら生まれた。
あの魔力量は、ヤバい。
ぼくでも撃ったことのない威力の魔力弾──
「ヘザ、退避だ──」
弾かれたように、背を向けて走り出す。
その次の瞬間にズンと振動を覚えた。よろめいて倒れ伏す寸前、何かが後ろからぼくの身体に覆いかぶさるのを感じた。
コンクリートの破片が飛散し、周辺を打つ音が──
「うっ……!」
うめき声に振り返る。
ぼくの上に乗りかかっていたのは、ヘザだった。
頭からにじんだ血の雫が、白い仮面を赤く染めている。
「ヘザ……何て無茶を!」
「かすり傷です。ハイアート様、おケガはありませんか」
「何を言ってるんだ、ぼくなんかのことを──」
はっと息を呑んだ。
ぼくとヘザの身体が、ズルズルと床を滑っている。
床が斜めになっている。
そしてずり落ちていく先には、何もない。ただ夜の闇が広がっていた。
すぐには状況を理解できなかった。目の前の事態がにわかには信じられなかった──ドラゴンの放った魔力弾の一撃が、このビルの縦半分を破壊したなんて、誰が想像できるだろうか?
そして残り半分も、破壊された方向へ、徐々に傾いているのだ。
ぼくは槍を手にして、石突きを少し離れたエアコンの室外機の足元の隙間に差し込んだ。二つのコンクリートブロックの間に引っかかり、槍にぶら下がる形で滑落が止まる。ヘザはぼくの腰に腕を回してしがみついたが──
「あっ……!」
屋上の崩壊が進み、ぼくらの足元が砕け散って、完全に宙ぶらりんになってしまった。
彼女の腕力も長くは持たないし、維持できたとしてもこのままビルが倒れたら二人ともおしまい──いや、その前にドラゴンの追撃を受けて一巻の終わりっていう線が一番濃厚か。
これを打開するには──魔術しかない。
「……ヘザ、腰にあるぼくの剣に触れるか? ──そこから魔力を採るんだ」
ぼくを見上げるヘザの表情が、驚きと悲愴感に満ちる。
「いけません! これは、ハイアート様の騎士の証……!」
「騎士なんて、ダーン・ダイマに戻ることのない今となっては、もう意味がない──早くしろ、もうそれしか方法はない!」
ヘザは悲しげに顔をしかめ、それから指の先を鞘の上からぼくの小剣に伸ばす。
瞬く間に、剣は細やかな金属片と化して、外衣の裾からこぼれ落ちていった。
「……よし、行くぞ。術式の準備をするんだ。タイミングを誤るな……イチ、ニ……サン!」
ぼくはぶら下がっている槍から魔力を抜き取った。槍はたちまち崩壊し、二人の身体は虚空へと投げ出される。
崩れたビルのがれきの山へと落ちていく中、術式を描き──着地の寸前に、「慣性をゼロにする」魔術を発動させた。
一秒にも満たない刹那の間、二人の身体は空中にピタっと停止して、すぐに一メートルほどの高さから落下する。
デコボコのがれきの上にうつ伏せに落ちて、結構な痛みに悶えながらごろりと仰向けに転がった。
頭上を見上げる格好になったぼくの目に、半壊のビルがぐらりと倒れかかってくるのが映り──
「そ、そ、総員退避──!」
跳ねるように身を起こし、全速力で走り出す。
目の端にヘザがついてくるのが見え、彼女の無事に安堵した瞬間、背後からかつて聞いたこともないような破壊音と辺りを震わす衝撃が襲い、もんどりうってアスファルト上に転がった。
「くそっ、息をつく暇もない──」
体力が限界に近いが、気力をしぼり上体をもたげ、立膝をついた姿勢になる。と──
そこで目に入ってきた光景は、今まさに、翼をはためかせる竜魔物の影がぼくの前にスーッと降りてくるところだった。
ツノの間に、魔力の光がほとばしる──
ダメだ。
空から追いかけてくる相手に、武器も魔力も精霊力もない、おまけに逃げ続けられる体力もない。
今度こそ終わりだ。九分九厘死んだ。
しかし……今までもこんな絶体絶命の危機を、ぼくは悪あがきで乗り越えてきた。
命があるうちは、最後まであきらめない──
きびすを返し、二歩地面を強く蹴って身体を遠くに投げ出す。
魔力の爆発による風圧が空中のぼくを襲い、吹き飛ばされてアスファルトの上を二度弾み、ゴロゴロと転がった。
全身が打ち身だらけで、死ぬほど痛い。
だが……痛いと思えるうちは、まだ生きている。
倒れたまま首だけをねじ曲げて、ドラゴンの方を見やる。
ぼくとかの魔物の間には大穴ができていて、そこから幾筋もの亀裂が走っていた。その穴を悠然と飛び越えて、ドラゴンはおもむろに近づいてくる──
だが、その時。
突然に、亀裂から激しい勢いの水柱が噴き上がった。
おそらく、埋設されていた水道管が破れたのだろう。その水圧が見事なまでにドラゴンの躯体を直撃し──はるか上空へと押し流してしまった。
「ハイアート様、こちらです。早く!」
一瞬呆気に取られたぼくに、ヘザの声が届く。
ぼくは何も考えず、よろよろとした足取りで声のした方へと歩み寄っていった。
破壊音が徐々に遠ざかっていく。
「そろそろ、出てもよさそうですね」
ヘザの言葉にうなずき、ぼくは入った時と逆に、足の方からゆっくりと身体を外に出していった。
ドラゴンが水柱でひるんだ隙に、ぼくたちは奴の撃った魔力弾の衝撃でめくれ上がったグレーチングの隙間から、道路の側溝に隠れたのだ。ドラゴンは相当おかんむりの様子で、ぼくたちを探してくるくる飛んで回り、あちこちの建物に八つ当たりしながら、この場を離れていった。
街並みは、まるで爆撃機から空襲を受けたかのように変ぼうしていた。ぼくはヘザを側溝の奥から引っぱり出し、二人でまだ形の残るビルの陰に居場所を移した。
「ハイアート様、おケガはありませんか」
「ぼくは、あちこちに打撲を負った程度で身体に支障は出ていない。君のケガの具合はどうだ」
「……私は、特に──」
「どれだけ戦えるか把握するためだ。やせ我慢をせず、包み隠さず報告してほしい」
「……頭部出血のせいか、気分がすぐれません。それと──」
 彼女は袖を引き上げて、青黒く変色した右手首を見せる。
「おそらく骨までは痛めてませんが、まともに弓弦を引けるだけの力が出せません……以上です」
「そうか。そもそも弓矢程度の威力では、あの魔物にダメージを与えられないが──もう完全に、奴と戦える手立てがない。どうすればいいんだ……!」
ぼくはビルの壁面にもたれて、がっくりとうなだれた。精根尽き果てて、何ひとつ気力が湧いてこない。
絶望が、心を支配していた。
「ハイアート様、一度撤退しましょう。態勢を立て直して、対抗手段を──」
「その間、奴を暴れ放題にさせるのか。この辺りからは少し離れてはいるが……君の住まいや家族を危険にさらすようなことを放置できない。発陳だけじゃない、呉武にも被害が及べば……」
かぶりを振るが、他に何ができるかという答えはない。
ぼくは無力だ。
「……私が何かひとつ選ばねばならないとすれば、それはただひとつ、ハイアート様のご無事です。撤退しましょう……二人で遠くまで逃げて、何かしらの策を──」
ぼくはヘザの説得を、途中からあまり聞いていなかった。
大通りの方の異状に気を取られていたのだ。
月明かりしか照らしていなかったその暗い道が、急にほの明るくなったことに──
「……ハイアート様?」
ぼくは人差し指を唇に当て、ヘザに静かにするように示すと、大通りへと忍び足で進み寄り、建物の陰からそっと覗き込んだ。
「……あれは……!」
ぼくは息を呑んだ。
そして、胸の内にふつふつと、希望が湧き上がるのを感じていた。
深呼吸をひとつして、ぼくはヘザを伴い堂々とした足取りで、大通りの道路へと踏み出した。
その矢の向く先──夜空を滑るように、漆黒の竜の姿が接近してくるのが見えた。
ヒュンと、魔弾が風を切った。
やはり正確に、ドラゴンの目へと向かう。
しかし矢はガッと弾かれ、瞳の表面を小さく削るだけだった。オオンと吼えてドラゴンは急上昇し、くるりと旋回して戻ってきた時には、そのえぐれた目も元どおりに再生していた。
何てことだ。あの大洞穴の大グモの半分程度の大きさではあるが──身体を形作る魔素の密度は同等以上だというのか。
ドラゴンはぼくたちのいるビルの上空で停止した。明らかにこちらに敵意を向けている。
頭部に突き出たツノの間に、膨大な魔力の塊が、パチパチとスパークを立てながら生まれた。
あの魔力量は、ヤバい。
ぼくでも撃ったことのない威力の魔力弾──
「ヘザ、退避だ──」
弾かれたように、背を向けて走り出す。
その次の瞬間にズンと振動を覚えた。よろめいて倒れ伏す寸前、何かが後ろからぼくの身体に覆いかぶさるのを感じた。
コンクリートの破片が飛散し、周辺を打つ音が──
「うっ……!」
うめき声に振り返る。
ぼくの上に乗りかかっていたのは、ヘザだった。
頭からにじんだ血の雫が、白い仮面を赤く染めている。
「ヘザ……何て無茶を!」
「かすり傷です。ハイアート様、おケガはありませんか」
「何を言ってるんだ、ぼくなんかのことを──」
はっと息を呑んだ。
ぼくとヘザの身体が、ズルズルと床を滑っている。
床が斜めになっている。
そしてずり落ちていく先には、何もない。ただ夜の闇が広がっていた。
すぐには状況を理解できなかった。目の前の事態がにわかには信じられなかった──ドラゴンの放った魔力弾の一撃が、このビルの縦半分を破壊したなんて、誰が想像できるだろうか?
そして残り半分も、破壊された方向へ、徐々に傾いているのだ。
ぼくは槍を手にして、石突きを少し離れたエアコンの室外機の足元の隙間に差し込んだ。二つのコンクリートブロックの間に引っかかり、槍にぶら下がる形で滑落が止まる。ヘザはぼくの腰に腕を回してしがみついたが──
「あっ……!」
屋上の崩壊が進み、ぼくらの足元が砕け散って、完全に宙ぶらりんになってしまった。
彼女の腕力も長くは持たないし、維持できたとしてもこのままビルが倒れたら二人ともおしまい──いや、その前にドラゴンの追撃を受けて一巻の終わりっていう線が一番濃厚か。
これを打開するには──魔術しかない。
「……ヘザ、腰にあるぼくの剣に触れるか? ──そこから魔力を採るんだ」
ぼくを見上げるヘザの表情が、驚きと悲愴感に満ちる。
「いけません! これは、ハイアート様の騎士の証……!」
「騎士なんて、ダーン・ダイマに戻ることのない今となっては、もう意味がない──早くしろ、もうそれしか方法はない!」
ヘザは悲しげに顔をしかめ、それから指の先を鞘の上からぼくの小剣に伸ばす。
瞬く間に、剣は細やかな金属片と化して、外衣の裾からこぼれ落ちていった。
「……よし、行くぞ。術式の準備をするんだ。タイミングを誤るな……イチ、ニ……サン!」
ぼくはぶら下がっている槍から魔力を抜き取った。槍はたちまち崩壊し、二人の身体は虚空へと投げ出される。
崩れたビルのがれきの山へと落ちていく中、術式を描き──着地の寸前に、「慣性をゼロにする」魔術を発動させた。
一秒にも満たない刹那の間、二人の身体は空中にピタっと停止して、すぐに一メートルほどの高さから落下する。
デコボコのがれきの上にうつ伏せに落ちて、結構な痛みに悶えながらごろりと仰向けに転がった。
頭上を見上げる格好になったぼくの目に、半壊のビルがぐらりと倒れかかってくるのが映り──
「そ、そ、総員退避──!」
跳ねるように身を起こし、全速力で走り出す。
目の端にヘザがついてくるのが見え、彼女の無事に安堵した瞬間、背後からかつて聞いたこともないような破壊音と辺りを震わす衝撃が襲い、もんどりうってアスファルト上に転がった。
「くそっ、息をつく暇もない──」
体力が限界に近いが、気力をしぼり上体をもたげ、立膝をついた姿勢になる。と──
そこで目に入ってきた光景は、今まさに、翼をはためかせる竜魔物の影がぼくの前にスーッと降りてくるところだった。
ツノの間に、魔力の光がほとばしる──
ダメだ。
空から追いかけてくる相手に、武器も魔力も精霊力もない、おまけに逃げ続けられる体力もない。
今度こそ終わりだ。九分九厘死んだ。
しかし……今までもこんな絶体絶命の危機を、ぼくは悪あがきで乗り越えてきた。
命があるうちは、最後まであきらめない──
きびすを返し、二歩地面を強く蹴って身体を遠くに投げ出す。
魔力の爆発による風圧が空中のぼくを襲い、吹き飛ばされてアスファルトの上を二度弾み、ゴロゴロと転がった。
全身が打ち身だらけで、死ぬほど痛い。
だが……痛いと思えるうちは、まだ生きている。
倒れたまま首だけをねじ曲げて、ドラゴンの方を見やる。
ぼくとかの魔物の間には大穴ができていて、そこから幾筋もの亀裂が走っていた。その穴を悠然と飛び越えて、ドラゴンはおもむろに近づいてくる──
だが、その時。
突然に、亀裂から激しい勢いの水柱が噴き上がった。
おそらく、埋設されていた水道管が破れたのだろう。その水圧が見事なまでにドラゴンの躯体を直撃し──はるか上空へと押し流してしまった。
「ハイアート様、こちらです。早く!」
一瞬呆気に取られたぼくに、ヘザの声が届く。
ぼくは何も考えず、よろよろとした足取りで声のした方へと歩み寄っていった。
破壊音が徐々に遠ざかっていく。
「そろそろ、出てもよさそうですね」
ヘザの言葉にうなずき、ぼくは入った時と逆に、足の方からゆっくりと身体を外に出していった。
ドラゴンが水柱でひるんだ隙に、ぼくたちは奴の撃った魔力弾の衝撃でめくれ上がったグレーチングの隙間から、道路の側溝に隠れたのだ。ドラゴンは相当おかんむりの様子で、ぼくたちを探してくるくる飛んで回り、あちこちの建物に八つ当たりしながら、この場を離れていった。
街並みは、まるで爆撃機から空襲を受けたかのように変ぼうしていた。ぼくはヘザを側溝の奥から引っぱり出し、二人でまだ形の残るビルの陰に居場所を移した。
「ハイアート様、おケガはありませんか」
「ぼくは、あちこちに打撲を負った程度で身体に支障は出ていない。君のケガの具合はどうだ」
「……私は、特に──」
「どれだけ戦えるか把握するためだ。やせ我慢をせず、包み隠さず報告してほしい」
「……頭部出血のせいか、気分がすぐれません。それと──」
 彼女は袖を引き上げて、青黒く変色した右手首を見せる。
「おそらく骨までは痛めてませんが、まともに弓弦を引けるだけの力が出せません……以上です」
「そうか。そもそも弓矢程度の威力では、あの魔物にダメージを与えられないが──もう完全に、奴と戦える手立てがない。どうすればいいんだ……!」
ぼくはビルの壁面にもたれて、がっくりとうなだれた。精根尽き果てて、何ひとつ気力が湧いてこない。
絶望が、心を支配していた。
「ハイアート様、一度撤退しましょう。態勢を立て直して、対抗手段を──」
「その間、奴を暴れ放題にさせるのか。この辺りからは少し離れてはいるが……君の住まいや家族を危険にさらすようなことを放置できない。発陳だけじゃない、呉武にも被害が及べば……」
かぶりを振るが、他に何ができるかという答えはない。
ぼくは無力だ。
「……私が何かひとつ選ばねばならないとすれば、それはただひとつ、ハイアート様のご無事です。撤退しましょう……二人で遠くまで逃げて、何かしらの策を──」
ぼくはヘザの説得を、途中からあまり聞いていなかった。
大通りの方の異状に気を取られていたのだ。
月明かりしか照らしていなかったその暗い道が、急にほの明るくなったことに──
「……ハイアート様?」
ぼくは人差し指を唇に当て、ヘザに静かにするように示すと、大通りへと忍び足で進み寄り、建物の陰からそっと覗き込んだ。
「……あれは……!」
ぼくは息を呑んだ。
そして、胸の内にふつふつと、希望が湧き上がるのを感じていた。
深呼吸をひとつして、ぼくはヘザを伴い堂々とした足取りで、大通りの道路へと踏み出した。
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