異世界召喚ゴムパッチン理論 〜自由意志ゼロの二世界往復、異世界で最強でも現世界ではいつも死にそうです
第二十八話(二)「キスぐらいもう少し丁寧にできないのかと」
ハム子の背中全体に、黒い炎のように、魔素がメラメラと立ち上る。
「イナクナレ……イナクナレ……イナクナレェェ……!」
「小牧君……!」
朝倉先輩がうろたえるのも無理はない──身体から漏れ出る魔素は、今まで中毒を発症しなかったのが不思議なぐらいの量だったのだ。
その一瞬の隙に、二メートルほどあった二人の間隔が一気に詰められていた。
ハム子の突き出された左腕が、まっすぐに先輩ののど元に襲いかかる。
その腕を内側から払い、先輩は身体の向きを回転させながら、ハム子のみぞおちに左ヒジを打ちつけようとした。
同体格を相手にするなら教科書どおりの体さばきだったが──
一七九センチメートルの巨体から繰り出される、しかも魔素中毒でリミッターの外れた腕力を受け流すには、彼女の一六〇センチメートル足らずの細い身体には荷が重い。
払われたはずの腕を、ハム子は上半身をひねりながら力ずくで振り抜き、小さな朝倉先輩の全身を吹っ飛ばした。
「ごふぅっ……!」
息の詰まるような衝撃に、ぼくはうめき声を上げた。
悲鳴を上げながらすっ飛んできた朝倉先輩を全身で受け止めたぼくは、彼女と焼却炉の鋼鉄製の躯体の狭間でサンドウィッチにされてしまったのだ。
「ハイアート様! 申し訳ありません、おケガは?」
「……『速人』ですってば先輩。ぼくは、問題ない……」
先輩をぐいと脇に押し退け、ぼくは深呼吸をひとつしてから、黒いオーラに包まれたハム子をねめつけた。
「離れていろ。ぼくがやる──ぼくには、責任がある」
「了解しました。ハイ……速人君、ご武運を」
脇へ退いていく朝倉先輩を尻目に、ぼくはハム子の正面へと一歩踏み出した。
ハム子に絡みついた魔素は、今や肩から二の腕の周辺まで広がっているが、その根源は背中の中心辺りだ。そこに触れて除去する必要がある。
ぼくの知る限りでは、ハム子は戦闘技術はおろか、ケンカの経験すらろくにないが──運動能力が高く、元々女子らしからぬ腕力や握力がある。抵抗をかいくぐって背中に手を当てるのは難しい。
それ以前に、魔素中毒を解くためとはいえ、彼女と戦うのは……。
「ハヤクン……アノヒトガ……ダイジナノ……? ワタシヨリ……?」
ハム子は虚ろな目で、ぼくを哀しげに見ていた。ゾンビのように、両手を前に突き出してふらふらとよろめきながら近づいてくる。
「……どちらの方がより大事かなんて考えたこともない。どっちも──ぼくの大切な人だ」
「イヤ……イヤナノダ……ワタシ……ワタシガ……クルシイ、クルシイヨ……ハヤクン……!」
ぼくははっと息を呑んだ。
ハム子を取り巻く魔素がより濃密に渦巻いて──腕や足の周りで凝結していく。
彼女の手足は黒い皮膚とトゲのような突起をまとい、額にはツノを生やしたかのごとく魔素が漂い、背中は噴出する黒いもやが、まるで翼を広げたように見えた。
体内に蓄えた魔素が濃すぎて、半ば魔物と化しており──その姿は、悪魔のようだった。
「くそっ……! すまんハム子、おとなしくしててくれ!」
一刻の猶予もならない。ぼくは大股に詰め寄り、彼女の腕を取った。
手前に引き倒そうとする。
「ハヤクン……ハヤクンモ、ワタシガジャマナノカ──!」
ハム子が強引に腕を振り回し、逆に仰向けに転がされた。すぐさま後転して、体勢を立て直す。
「違う! おまえを助けたいんだ!」
「……ウソ、ナノダ……ハヤクンハ、フクカイチョウサンハ……ワタシヲ『ワルイコ』ニスル……キライ……キライナノダ……!」
魔素が硬化した黒い手が、頭上から振り下ろされる。半身になって寸前でそれをかわし、脇腹付近に肩からの体当たりをぶつけた。
上体が多少ぐらついたが、バランスを崩すまでには至らない。
背中を狙う決定的な隙がほしい。
ぼくは諸手を繰り出して、さらに体勢の突き崩しを試みる──が。
その手首を、がっちりとつかみかかられてしまった。
万力のような握力に、肘から先がビリビリと痺れる。
「ぐあぁっ……! は、ハム子……ウソじゃない、本当に、ぼくはおまえを……」
「キライ……フクカイチョウサン……ハヤクンニモ……イヤナ、キモチニナル……ワタシガキライ……!」
はっと顔を上げる。
ハム子は、顔中を悲哀の色に染めて、涙を滝のように眼窩からあふれさせていた。
信じられない。
彼女は、こんなにも魔素に侵されながら──人への怒りや恨みより、なお人への情が勝るというのか……?
愕然としていたのは、ほんの一時。
気がつくと手首の束縛は解けていて──ハム子はぼくの首根っこにかじりつくように、両腕を回してぼくを抱きしめていた。
とても息苦しくて──とてもせつない抱擁だった。
「ハヤクン……タスケテ……スキナヒトニ、ドウシテコンナ……カナシイキモチニナルノダ……? クルシイキモチニナルノダ……?」
今なら、ハム子の背中まで指先が届く。
魔力を吸収しないと──
でも、そうしたら、ハム子はどうなるのか。
今や彼女の身体の表面の大半が、しみ出た魔素に根づかれている。
おそらくは、今までの魔素中毒者の比にならぬほど、彼女の身体を傷つけてしまう──
抱き返すように回した腕の先が、そこに触れることを、ためらった。
瞬間、その隙をつくように。
ぼくは地面に大の字になり、ハム子に馬乗りにされていた。
ハム子の剛腕で、無理やりに押し倒されてしまったのだ。
「しまった……!」
「……イヤ……イヤ……! ハヤクン……ソバニイテ……ワタシニ……『スキ』トイッテ……! キットワカル……ワタシノイヤナ……ココロ……!」
うかつなことは言えない。どんな言葉が彼女の「ココロ」をどう刺激するか分かったものではない。
ぼくが何ごとか口にすることを躊躇していると、ハム子は、ぼくのあごの両脇を平手で挟みこんだ。
「ハム子……な、何を……?」
「イワナクテモ……コウシタラ、ワカル……キットワカル……!」
あご先をぐいと持ち上げ、ハム子は──
頭突きをした?
いや額ではなく、唇に向けて、唇をぶつけてきたのだが……。
ガサツなのはいやというほど知っているが、キスぐらいもう少し丁寧にできないのかと──
というか、つい普通にツッコんでしまったが、今ぼくは──キスをされているのか?
ハム子に?
確かめるように、口を、わずかに開閉させる。
ぷるんとした感触が伝わってきて、そこから全身にゾクゾクするような感覚が広がっていった。
「……アアッ……!」
唇同士が触れ合っていたのは、ほんの一瞬だった。ハム子は恍惚に緩んだ顔をもたげ、心臓の辺りを両手で包むように押さえながら上体を起こした。
「……キモチ……イイッ……! シアワセ……! ワカッタ……ワカッタノダ……! ワタシ……ワタシハ──アグッ!」
突然、ハム子がピクリと身体を硬直させた。
彼女の総身を取り巻く魔素が急速に縮み、消失していく。その時はじめて、ぼくはハム子の背後にある人影に気づいた。
「──ハイアート様、お気持ちは分かります。ですが──発症した魔素中毒は、こうする他にないこともご承知でしょう」
朝倉先輩の触れた背中から、魔素が魔力へと変換され……すべてが抜き取られた、その時。
ハム子の全身から赤い飛沫が散った。
「ああ、は、ハム子……!」
血煙を浴びながら、ぼくは横倒しに伏したハム子の下から這い出た。傷の深さは今までの魔素中毒と変わらないが──あまりに広範囲で、一度に失った血液の量が多すぎる。命に関わる危険な状態だ。
「……へ、ヘザ! 早く、吸収した魔力で治癒魔術を──」
「できません」
真剣な面持ちを崩さず、朝倉先輩はかぶりを振った。
「……私の制御できた魔力では、大した魔術は使えませんでした。なので基本的な精霊力操作以外は学ばず、精霊術の修練に絞ったのです。治癒魔術は……私には複雑で、高度な魔術でした」
そうか。
つい自分基準で考えがちだが──治癒魔術は魔力の同時操作の要素が多岐にわたっていて、並の魔術師には制御の難しい魔術だった。ヘザが習得していなかったのも当然のことだ。
「……分かった。こうしよう」
ぼくは朝倉先輩の後ろに回り込むと、肩口から顔をのぞかせて、彼女の手の甲を取った。
「あっ」
先輩は小さな感嘆をもらし、身体をビクッと震わせた。ほんのりと頬を赤らめている。
この非常時に恥ずかしがっている場合か。ぼくまで照れてしまうから、そういう反応はやめてほしい。
「……い、いいか。術式はぼくが描く。君は、傷が癒えて失血が戻るよう念じながら、指から魔力を放出するんだ。大丈夫、今の君なら十分な制御力がある」
「りょ、了解です」
先輩の指先に、銀の光がたゆたった。
円状の紋様を空中に刻むよう、慎重に、彼女の手を動かしてやる。
「ヘザ、もう少し魔力を上げて……そうだ、上手いぞ。出しすぎて魔力を枯らすことだけは絶対に避けるんだ……あと少し、がんばれ……!」
張り詰めた空気の中、術式の最後のひと筆が入り、起動のための魔力付与を残すのみとなった。ぼくはふうとひと呼吸置いてから、先輩の耳元でささやくように言った。
「よくやった。あとはここに、魔力を込めるんだ。あるだけ全部突っ込んでいい」
「了解しました」
魔術式が力強く輝き、その光がハム子の全身を包む。数秒で傷がふさがり、顔色も回復したが、直前のダメージが深かったためか意識は戻らなかった。
「……成功だ。ヘザ──じゃなかった、朝倉先輩。ありがとう」
「お礼をされることはありません。速人君のやるべきことは、私の為すべきことです……どうしてもとおっしゃるのでしたら、体で──」
「さ、さてハム子をどうにかしないとな! とりあえず、保健室に運びましょうか。先輩、お手伝い願えますか」
「……了解しました」
朝倉先輩がチッと小さく舌打ちをした。
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