異世界召喚ゴムパッチン理論 〜自由意志ゼロの二世界往復、異世界で最強でも現世界ではいつも死にそうです
第十六話(三)「恐るるに足りない」
「あ……」
思わず感嘆がこぼれた。
ゴブリンの裂けた脇腹からは、ドロドロと流動的なものが漏れ出している。
もちろん血などではない。
濃密で、もやもやとした黒煙のような、魔素だ。
ダーン・ダイマで魔物と戦っていた時には、気にも留めていなかったことだったが──魔物を傷つけ、破壊するということは、魔物を構成する魔素の凝結がほぐれ、濃厚な流動体と化して大気中に散っていくということなのだ。
なぜそのことを向こうの世界では気にしていなかったかといえば、そこでは魔素はありふれた存在だったから、だが──
この世界において濃い魔素の塊は、ぼくにとって貴重で、絶大な、力の源だ。
ぼくは体内に残る魔力の残りカスを絞って、魔術師の外衣の袖口にある刺繍の術式に付与した。
魔物の周囲に漂うオーラに向けて、バッと腕を伸ばす。
──来い! 来い、来い、来い……!
込めた魔力が微弱すぎて、最初は動く気配を見せなかったものの、やがてゆっくりと、黒々としたもやが外衣の袖に引き寄せられ、豊潤なエネルギーと化してぼくの手の中へと収まっていく。
「来た! 来た来た! キタあぁぁ──!」
身体中にみなぎるパワーに突き動かされるように、ぼくは気力を奮い起こしてすっくと立ち上がった。ゴブリンは怒り狂って、腕を振り上げながら勢いよく躍りかかってくる。
もう何も、恐るるに足りない。
ぼくは冷静に、素早く術式を描いた。
魔力を直線上に撃ち放つだけの、単純な魔術。
力強く輝く銀の矢が、狙いあやまたず、ゴブリンの頭に命中する。
光の帯が一瞬で駆け抜けたあとに、首のないゴブリンの身体が、力なくごろりと路面に転がった。
勝った──
ぼくが精魂果てて両膝をつくと同時に、ゴブリンの輪郭がぐにゃりと崩れ、魔素の塊へと姿を変える。
ぜいぜいと荒く息をつきながらも、さっきまで魔物だったそれを、魔力にして手元に集めた。
急ぎ、その魔力を利用して、治癒の魔術を全身に施す。
数瞬のうちに肩や背中から痛みが取れ、ぼくはよろよろと身体をもたげた。
ひどく疲れていたが、休憩している暇はない。
誰かに見られないうちに、早くこの場を立ち去らねばならない。
身体のあちこちのかゆみに悶えながら走り出し、ぼくは裏路地から再びビル群の暗がりへと姿を溶け込ませた。
今日は一日中、宇宙と一体になったかのように眠りたかった。
しかし、無情にも目覚まし時計のアラームはぼくに「おはよう! 気持ちのいい朝だね! 今日も元気に、学校がんばろう!」と言わんばかりにけたたましく鳴り響いてくれる。
疲労と寝不足にふらつきながらも、ぼくは学校へ向かうべく、準備を済ませて家の門をくぐった。
「あっ」
小さく驚きの声を漏らし、目を瞬かせて、道路向かいの電柱を見た。
正確に言えば、ぼくが見たのは電柱ではなく、そこからはみ出したポニーテイルだ。
ぼくは長いため息をつき、それから電柱へずんずんと歩み寄って、言った。
「朝倉先輩。出てきてください」
ポニーテイルがビクッと震えた。
「……よ、よく気づいたな。私がここに隠れていることに」
「前に隠れてた時も気づいてましたよ。何で隠れたりしてるんですか」
「……もう、君に会わないと、言ったから……」
先輩は電柱の後ろから動かない。ぼくはもう一度深く息をついた。
「じゃあ、どうしてわざわざここに来たんですか。駅からだとかなりの遠回りになるのに」
「……君が誤解を解きたいのだと、友人から聞いたので……そのことを聞きたくて……」
「ええ、ぼくも話したいと思っています。でも隠れてちゃ──」
「こ、怖くなったのだ……ここに来てはみたものの、どんな顔をして君に会えばいいのかと思ううちに──もう会わないとも言ったし、やはり顔を合わせるのは無理かもと……」
先輩の声が、どんどんか細くなる。
こんな自信のカケラもない朝倉先輩なんて、とても本人とは思えない。まるで別人だ。
新城会長も、こんな彼女を見ているのは本当に辛かっただろう……。
ぼくは三度目のため息をついた。
「では、そのままでいいので、聞いてください。ぼくは──朝倉先輩を嫌ってなんていません」
「……」
彼女は無言だが、電柱からはみ出した彼女の分身がそわそわと小刻みに動いている。
「……その、あの時、無理やり先輩を振り払ってしまったことは謝ります。ごめんなさい。でもそれは、先輩が嫌だったからじゃなくて。そこは、誤解しないでほしいんです」
ポニーテイルが電柱の陰に引っ込んでいく。かわりに反対側から朝倉先輩の顔が、片目だけのぞかせる形ではみ出してきた。
何だかこのコンクリート製の電柱が、天の岩戸みたいに思えてきた。
踊ったらこの天照様が出てきてくれるのなら、その方がまだ楽な気がするが……たぶんドン引きされるのがオチなので、ぼくはさらに説得を続けることにした。
「ですんで、どんな顔でもいいから、とにかくそこから出てきてください。確かに先輩は時に強引すぎて困ってしまうこともありますが……節度ある接し方であれば、先輩とは気がねのないイイ関係でいられるかと、思うんです」
「……それで、いいのか。私が……そっちに行っても」
ぼくはただうなずきを返した。
朝倉先輩は、長い時間をかけておもむろに、電柱の陰から出てぼくの前に立った。
ブレザーの襟元をかきむしるようにつかみ、いたたまれなさそうに目を伏せて、顔をこわばらせている。その顔は耳まで紅潮し、苦しげで、何かの拍子に泣き出してしまいそうな、そんな面持ちだった。
「……白、河君……わ、私、は……何と、言えば、いいのか……」
ところどころ声がかすれて、声を出すことすら、辛そうに見える。
「何も言わなくていいんですよ、先輩。話は、話したいことができてからでいいんです。──さ、早く学校に行きましょう。どうせ一緒に行くんでしょう?」
ぼくはくるりときびすを返して、学校へ向かう道路をゆっくりと歩き出した。
先輩は何も言わず、ぼくの左側に、そっと寄り添ってくる。
「先輩、ぼくの右側を歩いてください。ここは結構、車が通るんです」
「……いや、いい。そこは……小牧君の場所だ」
「ハム子の? でもあいつは部活で……まぁ、無理にとは言いません」
「……」
「……」
「……白河君」
「何ですか?」
「……手をつなぐというのは、節度ある接し方のうちに入るのかな」
「…………」
「あっ、悪かった。もう言わないから、置いて行かないでくれ」
ぼくたちは早歩きになって、通学路をたどる。
身体は重かったが、心は、先ほどまでよりはずっと軽く感じた。
一年一組の教室は、昨日よりも騒がしい雰囲気に包まれていた。
クラスメイトのほぼ全員が、教室の前方左側、テレビの置いてある一角に寄り集まっている。
「おはよう下関。この騒ぎは、一体何なんだ」
昨日と一言一句同じ科白を、ぼくは下関に言った。
「白河、ちょうどよかったな。今から上映会だってさ」
「上映会? 何のだ」
「昨晩発陳に行った撮影班が、すごいものが撮れたって──」
下関が言いかけたその時、ちょうどビデオカメラとの接続が終わったらしく、テレビ画面に再生された映像が流れ出した。
動揺を顔に出さないように、ぼくは口元にぎゅっと力を入れた。
そのビデオには──
ある魔物と、ある「魔術師」との死闘の一部始終が、余すところなく収録されていた。
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