異世界召喚ゴムパッチン理論 〜自由意志ゼロの二世界往復、異世界で最強でも現世界ではいつも死にそうです
第九話(二)「女に恥をかかせる天才だな」
新城会長の首筋と精神に食い込んでいた魔素がエネルギー体に変換されて、強引に引っこ抜かれる。
会長はかすかに全身をびくびくと震わせたあと、脱力して、ぐったりと横たわった。
ひとつ深呼吸して、ぼくは身を起こす。左手の指先が、新城会長の細かく傷のついたうなじからにじんだ血でぬめりを覚えた。
勝利の余韻にひたっている暇はない。
ぼくは屋上の縁にぶら下がる朝倉先輩の元へと急き込んだ。
「先輩!」
「……白、河……君……うっ」
腕力の限界が来たのだろう。朝倉先輩の肘が縁から外れ、ずるりと身体が滑り落ちる。
間一髪。
ぼくは彼女の両手首をつかむと、縁の段差に両足を置いて踏ん張り、その落下を食い止めた。
止めたはいいが、先輩が落ちないよう支えるだけで精一杯で、ぼくの体力ではその体勢から真上に彼女の身体を引き上げることはできそうにない。絶体絶命だ。
ここからの逆転の一手は──ある。
だがその手段は、このピンチを切り抜けたとしても、その後にぼくをより困難な立場へと追い込むことになるだろう。
しかし────
ぼくは覚悟を決めて、さっき新城会長から吸収した魔力を、胸の辺りに集中させた。
両手は朝倉先輩の両腕をつかんでいるので、術式を描くことはできない。
だが──魔術を行使する方法は、術式だけではない。
「……マニト・レゼ・オゴ・ズ・アサクラ・ハイウーミ・ラウラル・ビ・ゴコ・モキ・ポロロ……」
ぼくは低く静かに言葉を紡ぎ、その音韻に、魔力を与えていく。
詠唱法、というやり方だ。
元来、魔術はこちらの方が基本なのだ。詠唱の文句を、一定の法則で簡略な図式に代えて表したのが術式というものになるからだ。
そして、術式法の方が詠唱法よりずっと早く、見た目にも分かりやすく魔力を制御できるため、今は特別なことがなければ、詠唱法が使われることはない。
術師が意味を持たせて発する言語に魔力が加われば効果が出せるものなので、たぶん日本語で詠唱しても問題はないはずだが、確実性をかんがみて、ダーン・ガロデ語で唱えている。
「……白河、君……? 何を……」
「……イゾス・ダイマ・オモ・ビ・ソーミムダ・ボホタヌ・ヘド・ゴオレ!」
音もなく、朝倉先輩の身体が、腰の位置からクレーンで吊り上げられたかのように浮かび上がる。
魔力の大きさ的に、効果はほんの一時しか持たないはずだ。
ぼくはすぐさま彼女の手首を強く引っ張って、全身を屋上の内側まで寄せ入れた。
その直後に、先輩の身体の周辺から魔力が消え失せ、重力に引かれてどさりと落ちる。
……間に合った。
ぼくは安堵のため息を大きくついて、大の字になって天を仰いだ。
空が藍色に染まりつつある。
あまり遅くなると親に叱られてしまうが、身体のあちこちが痛いし、体力的にも精神的にもひどく疲労していて、動こうという気がまるで起きない。
「白河君……」
その声で、ぼくは、今の状況を認識した。
寝転がるぼくの身体の上に、ぴったり密着する形で、朝倉先輩が覆いかぶさっているのだ。
「あ、あの、朝倉先輩……その、一旦、離れませんか……?」
ぼくはつかえながら言葉を絞り出すが、先輩は唖然とぼくの顔を見つめるだけで、離れようとしない。
そして、彼女は言った。
「白河君、君は……今、何をしたんだ」
うっと、ぼくは言葉を詰まらせた。
そうですよね。当然疑問に思いますよね。
朝倉先輩からすれば、ぼくが意味の分からない言葉をブツブツつぶやいたら、自分の身体が目に見えない力で持ち上がった、という常識的に説明のつかない体験をしたのだから。
分かってはいたことだが、予想どおりそのことを訊ねられても、どう答えてよいのか判断できない。
バカ正直に「魔術です」などと言っていいものか。
それとも……。
ぼくが困惑の表情を浮かべて、しばらくの間それに答えあぐねていると、朝倉先輩は突然、ふっと微笑みをたたえた。
「そう、困った顔をしないでくれ……言いにくいことだったのなら、もう訊かない」
朝倉先輩は、スカートのポケットの中で手をもぞもぞとさせると、白くて何の飾り気もない、タオル地のハンカチーフを引っ張り出した。
それで数回、ぼくの顔の側面を、壊れやすいものを扱うかのように、そうっと優しくなで上げる。
そのたびに真っ白な布地が赤く染みつくのを見て、ぼくは初めて、自分の額からかなり多くの血が流れていることを知った。
「……先輩……?」
「私にとって大切なのは、君が何をしたのか、ではない。君が何かをしたことで……私を助けてくれた、ということなんだ……」
最後に、彼女は出血の元となった傷口があるであろう、ぼくの額の左側にハンカチーフをぎゅっと押し当てた。
「……私は君の疑問よりも、君の恩を大切にしたい。ありがとう……言っておくが、これはコンビニの深夜バイトがレジを打ってくれた時のとは違うぞ」
「……同じですよ。ぼくにできる限りで、やって当然のことを、当然にしただけなんですから」
「同じではないよ。違うのは、私の気持ちの方だ。この違いを、君にどう表したら分かってくれるだろうか……」
不満げな顔で、先輩はぐいと詰め寄ってきた。
現時点のぼくと彼女との鼻先の距離、約十センチ。
「ちょっ、顔が近いですよ先輩。まさか、お礼にチューでもしてくれるんですか?」
ぼくは小さく笑みを浮かべて、おどけるように言った。恥ずかしがって離れてくれるかと思ったが、朝倉先輩は目をぱちくりとさせただけだった。
「……そんなものがお礼になるのか? というか……私なんかがそんなことをして嬉しいか?」
「えっ。まぁぼくは、嬉しくなくはないですが、でも──」
「そうか。したことないから、下手でも笑うなよ」
唇をとがらせて、首を伸ばしてくる。
「わーっ! 冗談! 冗談に決まってるでしょ!」
両肩をぐいと押し返す。一瞬唖然とした朝倉先輩は、ふっと苦笑いを浮かべた。どこか寂しげにも見える笑顔だった。
「……まったく。本当に君は、女に恥をかかせる天才だな」
「天才って、何度も恥をかかせてるみたいに言わないでくださいよ。とにかく、そういうのはぼくなんかに安売りせず、カレシが出来るまで取って置いてください」
「はいはい。白河君、この借りは必ず返すからな。憶えていろよ」
先輩がブツブツ言いながら、脇へ退いた。いや言い方おかしくね? 何でぼくが先輩から恨みを買ったみたいになってるの?
ぼくたちは立ち上がるとほぼ同時に、横たわったままの新城会長に目が向いた。
会長は魔素で常軌を逸した精神状態になっていたが、その原因となった衝動は確かに存在したはずだ。朝倉先輩やぼくに対する怒りや憎しみはどこから来たのだろう。
「先輩……新城会長と、こんな所にどうして来たんですか」
「君がトイレに行っている間に談話室にやって来て、大事な話がしたいと言われてな。二人だけで話したいことだからと、ここに連れてこられたんだが……」
珍しく、朝倉先輩は少し顔をうつむかせて、小声で言った。
「何が起こったんですか」
「……ちょっとした、意見の相違ってやつだよ。彼と折り合わないことがあって……」
一瞬だけぼくの方をちらりと見て、それからまた目を伏すと、先輩は言葉を続けた。
「……そうしたら、会長は突然激しく怒り出して……あとは、君が見たとおりだ。会長があのように荒れ狂ったり、暴力を振るうなど、未だに信じられない」
二人の間だけのいさかいなら、ぼくにまであんな風に怒りの矛先が向くはずはない。
その辺の詳しい事情については、彼女も口に出すのをためらっているようだし、新城会長の衝動の根っこの部分は、あえて掘らない方が、ぼくのためにも良さそうな気がした。
なぜなら──
「分かりました。とりあえず、ぼくたちはここを離れましょう。会長が目を覚まさないうちにね」
「白河君、会長をこのまま放っておくのか?」
至極もっともなご意見だ。
なので、ぼくはわざと、困ったような表情を顔に出してみせた。
「放っておいてあげるんですよ、先輩。会長はじきに意識を戻しますが、このことは一切憶えていないでしょう。だから、最初からぼくたちに会わなかったことにした方がいいんです」
そう。魔素で錯乱した者は、その間にあったことを記憶できない。
精神を冒された会長が何を言ったのか。何に激昂したのか。それぞれ当事者たちの胸にしまい込んで、何も知りませんという顔をした方が、多少のわだかまりは残るにせよ、一番丸く収まるはずだ。
朝倉先輩は腕組みをして、じっとぼくの目をのぞき込んでいる。そう言われても、彼女にとっては容易に安心できるものではないだろう。ぼくは言葉を継いだ。
「──大丈夫です。会長が正気を失って暴れたりすることは、もうありません。それに、会長が正気でなかったのも、決して会長のせいではないんです。あとで彼を責めないでくださいね」
「……白河君。君は、会長がおかしくなってしまった原因も、実は知っているのだな?」
しまった、少ししゃべり過ぎたか。
ぼくが面持ちを固くしたのを見て、彼女は、いつものようにニヤリと笑った。
「ああ、心配ない。そのことについても、私は何も訊かない。だが、憶えていてほしい──私が何も訊かないことと、私が君を知りたいと思うことは、また別の話だからな」
ぼくは背中にじっとりと嫌な汗をかくのを感じた。これは、明確なロックオン宣言だ。
「ホラ、何をボーッとしている。まずは、君の手当てをしなければな。病院に行こう」
「……いや、ここが病院ですけど? 先輩、そんなに引っ張らなくても、一人で歩けますって」
ぼくは朝倉先輩に二の腕をつかまれ、よたよたと歩きながら、新城会長が風邪をひく前に起きてくれるかなぁ、などと些末な考えに逃げていた。
先々のことを考えるのが、不安でたまらなかったからだ──
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