異世界召喚ゴムパッチン理論 〜自由意志ゼロの二世界往復、異世界で最強でも現世界ではいつも死にそうです
第九話(一)「意識が明日の朝までかっ飛んでいくだろう」
ぼくは、トイレの手洗い場の鏡の前に立って、ぼく自身の顔と向き合っていた。
その表情は固く、一面に緊張が満ちている。
心臓は早く脈打ち、まるで某太鼓ゲームの難易度「おに」で叩かれているかのようだ。
まずは冷静になろう。
火災から避難するために魔術を使ったんです。
魔術を使うために身体から魔力を絞り出したら、血が全身から噴き出て血だまりができたんです。
心の中でまじめに説明してみて、この世界では実にバカげた物言いにしかならないなと、改めて確認する。
逆を言えば、ぼくが何も言わなければ、この世界の人間はそんなバカげた真実にたどり着けるはずもない。
ぼくは何も知らない。何も見ていない。
自分に言い聞かせて、何度も深呼吸して、気持ちを落ち着かせる──鏡の中のぼくの顔がいくらかゆるむのを待って、ぼくはトイレから出た。ゆっくりとした足取りで、談話室に向かう。
そこに足を踏み入れた時、ぼくは目を瞬かせて、周囲を見渡した。
朝倉先輩の姿が見えない。
彼女が一人で勝手に帰った、というのはちょっと考えにくい。というか、ぼくたちの座っていた席にはまだ、彼女のカバンがぼくのものと一緒に置かれている。
ぼくと入れ違いにトイレに行った……違うな。トイレに行くなら、ぼくが戻ってきてからにするだろう。ぼくでもそうする。
先輩がここにいない。それだけのことに、ひどく不穏な空気を感じる。
何かしらヒントになるものはないだろうかと、ぼくは目を細めて、席の周囲を注意深く観察した。
ハッと、ぼくはかすれた声を漏らした。
とても希薄で、非常に見えにくいが、黒いもやがわずかに澱んでいる。
それはナメクジの這った跡のように細い一本の帯状になって、談話室の外へと伸びていた。
悪い予感が当たったかもしれない。ぼくは澱のようにたれ込める魔素を、魔力に変えて「始末」しながら追跡した。
通路に出て、階段を上っている。
さらに追うと、屋上へ続くハシゴに突き当たった。魔素はそこで終わっている。
ぼくはいぶかりながら、ハシゴに手足を掛ける。ハッチは半開きになっていた──ここを通ったとしたら、朝倉先輩はなぜこんな所に来たのだろう。
ハッチを押し上げようとした、その時。
獣のような怒号と、女の悲鳴が、鉄扉の隙間からぼくの耳をつんざいた。
何事かと考える間も惜しんで、ぼくはハッチを跳ね上げて屋上へと躍り出た。周囲を見回して、声の主を探す。
息を呑んだ。
朝倉先輩は、何者かに首を絞め上げられ、苦悶の表情で宙吊りにされていた。
彼女を襲うその者は、後ろ姿しか見えないが、呉武高の制服を着ている。大男とは言いがたい中肉中背の背格好をしており、とても先輩を軽々と持ち上げられる膂力があるようには見えない。
その男は、先輩を吊り上げたまま、屋上の縁に向かってずんずんと歩き──そして、朝倉先輩の身体は縁を越えて、屋上の外に宙ぶらりんにされてしまった。
「先輩……っ!」
ぼくが駆け寄ろうとすると、男はかっと振り返った。
その男は、たぶん──新城会長だ。
たぶん、と思ったのは……その人相が、先ほど会った大人しそうな彼とはひどくかけ離れていたからだ。
顔は鬼神のように憤怒にゆがみ、その眼は妖しくギラギラとしていた。テカテカでピタピタだった七三分けも、怒髪と言うにふさわしく、ピンと逆立っている。
そして今こそ、はっきりと見える。
会長のうなじに、黒くモヤモヤと漂う、濃密な魔素の存在が。
「シ、ラ、カワ……シィィラァァカワァァ────!」
会長は激しい雄叫びを上げて、ぼくに向き直った。
その際、彼は手を離した──朝倉先輩の首元から。
「……あっ!」
先輩の身体が、屋上の外側に落下していく……寸前、先輩は縁の段差に両腕を引っ掛けてぶら下がった。
肘から先をフックさせて身体を支えるも、首元まで縁の下側に完全に落ちており、自力で這い上がるのは無理な体勢に見える。
彼女の腕力は、そう長くはもたないだろう。早く駆けつけたい、が──
「キサマガ! キサマサエ! イナケレバァァ────!」
口の端に泡を立てながら、狂ったようにわめいて、新城が殺到してくる。
間合いを詰めてくると、すっと、ひと呼吸で彼の拳がまっすぐに繰り出された。
あの不良たちの「今から殴りますよ」と予告しているかのような、思いきり振りかぶってぶん回す拳とはまるで違う。
鋭く突き出された槍のごとき一撃が、喉元に正確に伸びてくる。
左側を前にして半身になりつつ、縦拳の先を払おうとするが、間に合わない。
狙いはほんの少しだけずれて、右の肩をしたたかに打った。
「ぐ……ぅっ」
電気が走ったような衝撃と苦痛に、ぼくはくぐもったうめき声を上げた。
空手か、拳法か。
とにかく素人のケンカの動きじゃない上に、思いもよらない威力だ。
精神を魔素に冒されているせいで、筋力のリミッターが外れているのかもしれない。
新城が、さらに大股で一歩、ぼくのふところに踏み込んできた。
拳を放った右腕を折りたたんで──肘だ!
腰を落とし、上体をスウェーバックする。
鎖骨の近くを打とうとするそれをギリギリでかわしたが、ぼくは尻もちをつく形になった。
新城は流れるように、重心を後ろに置いた左足に移すと、電光石火の右ローキックを放つ。
左足を身体に引きつけて、靴底で蹴り足を受け止めた。高所から着地したように、足がじんと痺れる。
もう一発蹴ろうとして新城が右足を引いた隙に、ぼくは後転して、キックを透かすと共に体勢を立て直した。
新城会長をどうにか大人しくさせないと、朝倉先輩の元に行くのは無理だ。
ただ、殴り倒す必要はない。
彼のうなじに指先を一本だけでも届かせることができれば、魔素を引きはがして、錯乱を鎮めることができるはずだ。
ぼくは低い体勢のまま突っかけた。
右脚へタックルし、すくい上げて押し倒そうとする。
倒れない。
まさか、左足一本でこらえるなんて──
タックル失敗に対応する暇もなく、ぼくは背筋に痛打をお見舞いされた。
肘を落としてきたのだ。声にならない悲鳴を上げて、ぼくはつかみ上げた脚を手放してしまった。
間を置かず、新城のひざ蹴りが、ぼくの胸部に深々と食い込む。
「お、おお……っ」
かすれた声を上げて、ぼくは片ひざをついた。
直後、ぞくりとする殺気に満ちた影が、左側頭部に迫る。
中段回し蹴りの、足刀の影だった。
これをまともに食らえば、意識が明日の朝までかっ飛んでいくだろう。
ぼくは床に這いつくばるように身をかがめる。頭上スレスレを新城の右脚が通り抜け、それと同時に、ぼくの繰り出した足払いが軸足を刈った。
浅い。
新城を転ばすには不十分で、彼は片足でトントンと跳ねながら距離を開けると、警戒するように左前半身の構えを取る。
攻めづらくなってしまったが、時間的余裕がない。
相手に再び組みつくチャンスが欲しい。
ここは、一発勝負の奥の手を使って、飛び込む隙を作ろう──
ぼくは息を整えると、身体のあちこちの痛みを歯を食いしばって耐えながら、再び新城に向かって間隔を詰めた。
「シラカワァァ──! シネェェ──!」
心胆を寒からしめるような絶叫と共に、必殺の正拳突きがすっ飛んでくる。
最短距離で、ぼくの顔面を撃ち抜こうと迫ってきた。
今だ。
ぼくは突進しながら、さっき病院内から帯状の魔素をたどる際に集めていたごくわずかな魔力を使って、さっと小さな術式を描いた。
エネルギーをそのまま直線上に撃ち放つだけの、単純な魔術。
しかも魔力の微弱さから言えば、その威力は「指で輪ゴムを飛ばす」程度のモノでしかないだろう。
そのか細く輝く銀の光の矢が、狙いあやまたず、パチンと小さく音を立てて、新城の右目に命中した。
一瞬だけ、突き出そうとした拳の動きが鈍る。
その隙をついて、左こめかみの上辺りを拳の側面にぶつけた。
突きが左側に流れていく。ぼくは額をその腕に滑らせながら間合いをさらに詰め、両腕を新城の腰に回しつつ、猛進する勢いの全てを彼の上半身に叩きつけた。
さすがにこらえきれず、新城は仰向けに転がった。
もう次に組みつける機会はないだろう。今度は、死んでも絶対に離さない。
ぼくは右手で彼のシャツを固く握りしめて、左手を首筋へと伸ばそうとした。
「かはっ……!」
肺の中の空気が一気に押し出されるかのような衝撃。ぼくの背中、肩井の下周辺に、新城の肘打ちが突き刺さったのだ。
二度、三度と、繰り返し打ちすえられる。
激痛で意識が飛びそうだ。
「……オマエ……ナゼ……オマエガァァ……!」
ぼくはふと、目線を頭上の、新城の顔に向けた。
険しく、怒りに満ちて、紅潮したその形相は変わっていない。
しかし、新城会長は……その赤黒い顔を、両の瞳からあふれ出る涙で濡れそぼたせていた。
ああ、会長も。
彼も、魔素の毒で激しくかき立てられた感情や衝動に心をもみくちゃにされて、狂おしい苦痛のただ中にあるのだ────
「……会長、もう少しだけ、辛抱してください……!」
ぼくは激しく抵抗する新城会長の顎に向けて、頭のてっぺんをガンと打ちつける。
唸り声を上げ、彼の抵抗がわずかに弱まった。
その隙に、全力で腕をぴんと伸ばし、左手をそのうなじに触れさせる。
指先が、魔素の流動を感じた。
魔力吸収!
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