異世界召喚ゴムパッチン理論 〜自由意志ゼロの二世界往復、異世界で最強でも現世界ではいつも死にそうです
第二話(一)「ひどく尻がムズムズした」
学校初日を終え、ぼくは自室に着くや否やカバンを放り出して椅子に腰をかけ、長くゆっくりと息をついた。
緊張から解放され、どっと気だるさが押し寄せてくる。
何もやる気が起きなかった。すぐさまベッドに転がって、朝まで目を覚まさずに過ごしたい。
しかし──
「……宿題、しなきゃ、な……」
ぼそりと、独り言をつぶやく。二十数年前のぼくも、学校から帰ったらどんなにくたびれていてもまず宿題を終わらせていた。
どんなに年月を経ていても、人間の本質はそう変わるものではないと実感する。当時の感覚を取り戻すのにそう長い時間はかからないかもしれない。
少しだけやる気が戻ったところで、カバンから引っぱりだした教科書を机の上に広げる。宿題は一時間もかからずに終わり、ほっと一息ついたところで、ふと傍らの充電器につないだスマートフォンに目が向いた。
こちらの世界の「昨日」までは、暇を見つけては特段の用もないのにちょくちょくこれの画面を見ていた。今日は、朝からスリープモードの解除すらしていない。
変わらない自分もあれば、すっかり変わってしまった自分もあるのだな──召喚されたあの日のあの時も、宿題を終えた後には夕食までの退屈な時間を、普段通りスマートフォンをいじりながら過ごしていた。
何の前触れもなかった。瞬きをする間に、世界が変わっていた──
その時は、急に薄暗い所にいたので、何も考えることができずに、ただ憮然としていた。
床は石で出来ていて冷たく、目が痛くなるような細かい幾何学模様に似たものが刻まれた、円状の図形が彫り込まれていた。その円を囲むように黒い石で出来た石碑が三つ建っており、床のそれに似ているが微妙に違う円模様がそれぞれに描かれていた。
きょろきょろと辺りを見回しているぼくの目の端に、人の影が映った。老人だった。黒ずんだ緑色でゆったりとしたシルエットの装いを身につけ、長い白髪に長い白髭をたくわえた、背の低いお爺さんだ。
「あの……何ですか、これ」
思えば間抜けな第一声だった。それに応えたのか何なのか分からないが、老人は何言かを口にした。英語でも中国語でもフランス語でもないような、かつてまったく耳にしなかった言語だった。
何をしゃべっているのか分からず呆然としていると、お爺さんは両手でぼくの耳を包むように手をかざした。
「……し、もしもし、拙の話す言葉が分かりますかな。もしもし……」
だんだんと、お爺さんの言っている事が日本語に変わっていき、間もなくはっきりと聞き取ることができるようになっていった。
今となってはあれが風の精霊術を使って耳にした音を知っている言葉の音に変換したことが分かるし、むしろ術など使わず直接ダーン・ガロデ語を理解することができるが、あの時はただ、わけが分からなさすぎて頭が真っ白だった。
「……はい、分かります……」
「おお、よろしゅうございます。それで、あなた様をこのダーン・ダイマに召喚いたしましたるは……おっと、失礼いたしました。拙はオド・ゴンズロロ。元はゲイバムで禄を食む魔術師でしたが、今はしがない隠居でございます。あなた様のお名前を頂戴してよろしいですかな」
「……白河速人、です」
「シラカー……ハイアート様、ですな。では、ハイアート様」
オド──後にオド老師と呼ぶことになるその老人は、交差させた両手を自分の胸に当てて、片膝をついて身をかがめた。まるで神様か王様でも前にしてかしこまるかのように、低く低く、頭を垂れたのだ。
「ハイアート様をこの世に召喚いたしましたるは、やがて来る破滅的な動乱より世界を救っていただきたいがため……どうかダーン・ダイマの救世主となってくださいますよう、何とぞ、お願い申し上げます」
痛いほどの沈黙が、その場の空気を支配した。先に口を開いたのは、ぼくの方だった。
「なぜ……ぼくにそんなことができると、思ったんですか」
ぼくは訊ねた。できるはずがない、とは思ったが、ぼくよりずっと年上のお爺さんがこんなまじめな顔をしてぼくに頭を下げるというのはどういうことなんだろう、とも思ったのだ。
その問いに、オド老師は何の戸惑いも見せず、きっぱりと答えた。
「それは、予知を視たからでございます」
「……予知?」
「左様にございます。最初に視たのは十数年前──拙がゲイバムの近衛魔術師隊長の任を退いた頃からですが、視たと申しましても視覚ではなく、聴覚でもなく──心のうちに浮かび上がるように、叩きつけるように、それは拙に訴え続けていたのです」
「どんな……ことを?」
「この地の行く末、しかし決して遠くない未来に、世を破滅せしめる大きな動乱が襲うであろう。しかし、今とは違う時間、こことは違う世界の彼方より来たる『無垢なるもの』により救われ、この地に恒久の平和をもたらす──と」
「『無垢なるもの』……とは何ですか?」
「それが何を意味しているかは、分かりませぬ。しかし、これを未来の予知だと認識した時、拙はこのことを拙にしかなし得ぬ使命であると強く感じたのです。拙は自分の持ち得る魔術の知識と技術とを尽くして、予知にあるとおりの違う時間、違う世界を目指しました。そして今まさに、この世の理とまったく異なる世界よりご尊来いただく『召喚魔術』を成すに至ったのです」
老師の言葉があまりに真に迫りすぎて、寒気を感じたのをよく憶えている。それと同時に、その真剣さを正面から受け止める責任がぼくにはある、と感じていた。
だから、ぼくは言った。
「ぼくに……何ができるんでしょうか」
オド老師は、面を上げて、柔らかく笑んだ。
「よう、じじい。生きておったか」
そう言う声の主も、髪も短く揃えた顎髭も、すべてがすっかり白くなった壮年の男性だった。
山間深くに建つオド老師のあばら家を訪れる客はとても少ない。二週間に一度来ればいい方の行商人以外では、これが初めてだったと記憶している。男はがっちりした体躯で、オド老師の小柄な背丈に合った扉を、窮屈そうに通り抜けてきた。
「来おったな、小僧。ハイアート様、武術の先生が参りましたぞ」
奥の魔術研究室から顔をのぞかせたぼくを見て、男性はきょとんとした表情を見せた。
「こちらは……はて、どちら様かな」
「どちら様かとは、とんだご挨拶だのう。ダーン・ダイマの救世主に向かって」
オド老師がおどけるように言うと、男性はぎょっと目を剥いた。
「何だと。じゃあ、これが……あんたの予知でいう『無垢なるもの』だと言うのか」
「間違いない。こちらにおわすお方こそ、正に『無垢なるもの』、シラカー・ハイアート様である」
初めて自分を人に紹介されたが、この時は、ひどく尻がムズムズした。
「あ、ああ。失礼をお詫びします、ハイアート様。私は元ゲイバム近衛兵士長、アーエン・ドーブでございます」
後にアーエン師匠と呼ぶことになる大男は、戸惑いながら肩をすくめて、深く頭を垂れた。
「あ、いえ、そんな大それたものでは……よろしくお願いします」
「それで……オド老師、結局『無垢なるもの』ってのは、どういうことか分かったのか」
「うむ、実際に見てもらった方がよいだろう。ハイアート様、あれをやって見せてください」
ぼくはひとつうなずき、両手の人差し指を立てると、同時に術式を描いた。精霊力を手のひらに浮かばせて固定させる魔術だ。それから両方の手のひらの上の精霊力を高めて、それらを具現してみせた。
「うおっ……そんなバカな、信じられん!」
アーエン師匠の口から感嘆が漏れた。ぼくの右手に炎の塊、左手に水の玉が浮かんでいるさまを、にらむように見つめていた。
「うむ、拙もこれには本当に驚かされた……ハイアート様はな、産まれたての赤ん坊のように『精霊染性』がまったく無いのだ」
「……そ、そんなのはあり得ない。精霊にも魔素にも染まらずに育つなど、できるはずがない」
「左様、だからこそ、この世にはいるはずのない『無垢なるもの』なのだ。思うにハイアート様は、異なる世界において、精霊や魔素がまったく存在しないか、ごくごく微量な環境で生まれ育ったために、染性がもはや何にも染まることのない完全なる中性になったと考えられる。そうしたら、どうなったと思う」
アーエン師匠はもう一度、ぼくの両手を凝視した。これが答えなのか、と言いたげに。
「分かったようだな。ハイアート様は、通常は染性のあるもの以外は制御できぬはずの精霊力を制御できる。しかも相対するために両方を染性として持てないはずの火と水、風と土の精霊力を両方とも、だ。とどのつまり、五行の精霊力と魔力を際限なく操れる……」
オド老師は少し興奮したように、呼吸を整えてから、言葉を継いだ。
「その上、染性の濃度で制御できる精霊力の大きさが決まってくるはずが、拙が見ている限りは、限界がまったく見えぬ。その場の精霊の量さえ足りるなら、全世界を炎で包むことすら可能であるかもしれぬのだ」
アーエン師匠の喉仏が、ゆっくりと上下した。
「そうか……予知は本当だったんだな、オド老師。ではやはり来るのか、この世界を破滅に向かわせる動乱というやつが」
「来る。しかし、拙はその時まで生きてはおるまい……だから拙は、今のうちにハイアート様に拙の持てるすべてを伝え、やがて来る世界の危機に対抗でき得る知恵と力を授けたいのだ」
「それで『武術の先生』か。あい分かった、ハイアート様にできる限り私の持つ戦闘術をお伝えしよう。ハイアート様、訓練は多少手荒くなるかと存じますので、ご覚悟を……」
その日以来、オド老師から精霊術、魔術を学ぶことに加え、アーエン師匠から教わる槍での闘いの技術がカリキュラムに加わることになった。毎日へとへとになるほどの修業だった。でも、こっちの世界で暇つぶしのように過ごしていた生活より、ずっと充実感があったと思う。
これが、召喚されてから二年ほど経ったある日のこと。まだぼくが、ぼくの元の世界で生きてきた年数をはるかに超える時間をダーン・ダイマで生きることになるとは、考えもしなかった頃の話だ。
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