忘失×残留×彼女

ノベルバユーザー278927

第二章

 「ここから少し歩けば彼女はいるよ。君より幾分早く起きてたよ。しかし······本当に会いたいかい?」
 医者が言わんとしていることがよく分からないが、怪我した頭部以外は健康そのものだ。歩くくらい何ともない。余裕だ。
 「はい!今すぐ会わしてください。お願いします!」
 僕は軽く頭を下げた。



 医者は「早ノ瀬さんに伝えてくるよ」と言って退室した。
 また待つ。
 目の前には僕に当て付けるようにポンちゃんが先程のベッドを正したり、カバーやシーツを外している。
 いや、僕が悪いんだけどさ······。僕が出て行ってからでもいいじゃん······。
 そんなことを思いつつ、彼女を観察する。今までポンコツな所しか見てなかったが改めてみればテキパキ仕事をこなすし、とても丁寧だ。しなやかな指でシーツを畳む。雪のような白い肌、スリムな体型、茶髪のショートヘア、整った顔立ち――高い鼻、ぱっちり二重、長い睫毛······。
 僕の視線を感じたのか、ポンちゃんが振り返り、にんまりと笑みを浮かべる。
 「なぁにぃ?私に惚れちゃった?そうなってもしょーがないわよ。なんてったって私、この病院の天使だからぁ~。」
 ······。
 「······。こいつバカだみたいな視線を向けないで。悲しくなるから······悲しくなっちゃうからぁ!」
 じゃあやるなよ。



 ポンちゃんが退室したと同時に医者が入って来た。親指を立て「レッツゴー」と僕を促して出て行く。
 おいこら。先に行くな。僕患者なんだけど!?
 急いで彼を追おうとするが足取りが覚束無い。ばたばたと部屋から出て行く。
 


 「こらこら廊下では静かに。他の患者がいるんだから。」
 「あなたが先に行くからですよ。」
 「責任転嫁は感心しませんぞ。」
 「はいはい、すみませんでした。」
 「うむ、今の謝罪······十点。」
 やかましい。というか採点基準あるのか······それ。
 そんなやり取りをしていると不意に医者が立ち止まった。
 「ここだよ。」
 辿り着いた病室のネームプレートを見る。
 手島由佳里てじまゆかり様。早ノ瀬明日香様。
 ここに早ノ瀬がいる。無機質な薄い壁を隔てて――。僕は頭を打ったけどあいつもどこか打ったのだろうか。それとも僕より早く目覚たし、軽傷で済んだのだろうか。
 少し考えていると左肩にポンと重みが与えられた。医者の手だった。
 「会う覚悟が出来たら入りな。気が済んだら来た道戻ってね。手島さんにはカーテン閉めて貰ってるから。······それじゃあ頑張るんだよ。」
 そう言うと彼は階段を降りて行った。
 覚悟······か。
 早ノ瀬明日香――僕の幼馴染。いつも一緒だった。いつも。だからこれからも······例え彼女の美しい顔が、小麦色の肌を持つ健康的な四肢がボロボロになっていたとしても。
 傍にいたい。
 僕は扉に手を掛けた。



 扉を開けると一人の女の子がこちらに気付き、振り向いた。肩に届きそうな綺麗な髪、摘んでしまいたくなる小柄な鼻、柔らかそうなピンク色の唇、健康的な小麦色の肌を持つ――早ノ瀬明日香。
 頭にネットを被っているが見たところ大きな怪我はないようだ。
 彼女の元へと歩み寄り、医者が用意してくれたであろうパイプ椅子に腰掛ける。
 「よお。酷い目にあったな。······お互い頭にネット被ってさ、お揃いだな。」
 静寂な雰囲気を壊そうと笑い掛けるが、彼女はこちらを見つめたまま口を開こうとしない。
 大方怪我して混乱しているか、或いは僕の怪我を心配してるんだろう。喋れない彼女に代わって僕が話を紡いだ。
 「退院したらさ、学校帰りにどこかに寄ってお祝いしよう。退院祝いだ。どこ行きたい?」
 こちらを見つめたままの彼女に質問を投げ掛ける。ファミレスで何か奢らされるだろうか。デパートで服やらプレゼントさせられるだろうか。どちらでもいい。彼女が明るくなるなら。
 それに僕自身彼女の声が聞きたかった。彼女と喋りたかった。
 ······。
 ······。
 彼女は俯き、思案する。
 何を想像しているのだろう。僕は彼女を待った。
 ······。
 ······。
 暫くして彼女が口を開いた。
 「ごめん······なさい。······あなたのお名前は?」
 その一言が僕を凍らせた。
 困ったような、哀しいような、初めて見る彼女の表情が僕の目を奪った。
 僕の知らない彼女、僕を知らない彼女、記憶を無くした早ノ瀬明日香が僕の記憶の中で生きる早ノ瀬明日香の声で答えた。



 あの日『早ノ瀬明日香はやのせあすか』は忘失した。

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