シエンの国の最後の王

千夜ニイ

シエンの里に住まう者

「何か困ったことがあったら何でも言ってくれ」
忙しそうにエプロンをして家の中を働いて回るのは、ついこの間までこの土地の王だったはずの娘。


「待て、お前は何をしている」
この地に初めてやって来て、今日から自分の家だという場所に案内され、男が初めて口にした言葉がそれだった。
少女の肩に手を置き、引き止めるのは茶色い瞳、茶色い髪のドルエド人。この男はシエンの新しい領主となった男だ。
腕も立ち、頭の回転も速いので大抵のことには対処できる力を持っていた。
王の信も厚く出世の約束された、本来このような土地に飛ばされるはずのない立場に居た。
この娘は王としての位を奪われ、一平民として暮らすはずではあったが、なぜ下働きのようなことをしているのか。


「気にするな。これがこの国の流儀だ。そなたがここの王、ではなかった、りょうしゅうとやらになるのであれば、私はその民となって王に尽くすまでだ」
にっこりと笑う少女はとても楽しそうで、溌剌としている。
言葉がたどたどしいのは、ここの言葉がドルエドの言葉ではなかったからか。
「領主、だ。何を考えている。お前はシエンの戦士とやらなのだろう? その誇りはないのか」
男は、ここに暮らすものは皆、誇り高いシエンの戦士というものだとドルエド国王より聞かされていた。くれぐれも失礼のないように、などとどちらが偉い立場にいるのかわからないようなことまで言い渡されたのだ。


 なのに、この娘は自分からそれをなげうっている。
「私以外にドルエドの言葉を知る者は少ないが、困らないなら他の者をつけよう。しかし、うちの者は女でも強いぞ。下手に手を出したら返り討ちに合うから覚えて置けよ。黙って背後に立てば切られかねないからな、ちゃんと避けろよ」
普通なら考えられないおかしなことを少女は身振りをつけて、真面目な顔で男に言う。
言葉が違うからという以前の問題がありそうだ。男はいらだった様に頭をかく。


 ただでさえ、暮らしたこともない田舎へ送られ、住むのは狭い平屋建て。男がドルエドの都で住んでいたのは3階建ての豪邸だ。それも剣の訓練ができるような広い庭が付いている。
団居まどい竹笹たけささならお前の言葉がわかるのだが、団居は今、子供達にドルエドの言葉を教えていて忙しいし、竹笹も別の用事で忙しいしなぁ。獅子倉あたりだと、誤ってお前を殺しかねないが、わざとではないと書を残しておいて貰えるか?」
少女は首をかしげて、可愛いことを言っているようなポーズだが、おかしい。内容が、明らかにおかしい。
何故殺されると判っていて、相手の弁明の書を残しておかねばならないのだ。


 男は話にならない、と手を振ると用意されたいすに腰を下ろした。
元王だろうが何だろうが、少女がそれでいいのなら、言葉のわかる娘に慣れない暮らしを補佐してもらうことにする。
「お前に任せた」
男が言えば、少女は楽しそうに頷き、かいがいしく世話を焼く。
水を運び、書類を整理し、男の服の洗濯まで。
「お待ちください姫、そのようなことは我々が」「私はもう姫ではない、ははは」
この屋敷には楽しそうな声が一日中響き渡る。
木の皮で編まれた大きな椅子は男が思ったよりずっと座り心地が良かった。




 男がシエンに来て一週間が経っていた。
しかし、と男は思う。やはりわがドルエド国王は甘すぎる、と。
(こんな連中、全員殺してしまえばよかったのだ)
心の中だけで言い、男は剣を振るいながら全身に汗をかく。
「領主さま、まだまだ弱いな」
ドルエドの言葉を覚え始めた小さな子に、領主は後れを取っていた。
重そうに剣を構える10歳の子供に、天才と謳われた領主の剣技が通じない。
白壁しろかべ、もう一度勝負だっ」
領主は剣を構えなおして白壁という名の少年に向き合う。
打ち合いながらまた領主は思う。
(さすれば、こんなに恐怖することもなかった。この魔物に囲まれた地で、日々己の腕を磨くシエンの戦士と言う存在に)
今日これで三度目、白壁の剣が領主の剣を跳ね飛ばした。




「山は険しくて通るのも困難、森は魔獣がうろつき通るのは危険。それでどうやって本国と連絡を取るのだ! お前達、今までよくこんな環境に暮らしてこれたな。まともな明かりもなければ、高い建物もない、学ぶ場もなければ、娯楽もない! おまけに子供まで強い!」
男は長い愚痴を一息で言った。苛立たしさに、暗くなり始めた室内をうろうろと回る。


「ならば、何故こんな国を襲った。ドルエドの方にこそ聞きたい。そっとしておいてくれればよかったものを」
そう言いながらも、少女はどこか楽しそうだった。長い木の椅子に座り細い足をゆらゆらと揺らしている。
もう、少女が王と呼ばれることはないけれど、この里の者が彼女を大切な一人として認めていることに変わりはなかった。


 しかし、男は余裕を見せるような少女の言葉で、祖国ドルエドを揶揄された気になり、頭に血が上った。
「ここがドルエドの領地になったことを忘れるなよ。いつでも国の軍隊がこの地を掃討でき……」
苛立ちの募った領主は、ここがドルエドとなったことを否定するように言う娘の腕を荒々しく掴んだ。
領主を任ぜられた男は武将であり、王の信頼厚き者だ。敬慕する王のしたことを、このように若い娘に異を唱えられ、黙ってはいられなかった。国への侮辱とすら受け取れる。


 だが、しかし、男の拳は少女には届かなかった。くるりと体が回ったかと思うと領主は思いもせず片腕を後ろに壁に抑え付けられている。
「忘れるなよ。私もシエンの戦士だ。王であろうとなかろうと、それは変わらない」
領主の腕を軽くひねり、元王はその顔を付きそうなほどに近づける。微笑む少女は薄暗い部屋の中に浮き立つように淡く光る。
 その瞳から領主は目が離せない。
ドルエドの領地シエン、ここは……我が領土。ドルエドに加わった戦士達の里。
人が暮らし、豊かな緑が命を育む。見た覚えもないシエンの風景が領主の心に浮いてくる。
領主は突如理解した。領主と言うその立場を。
今、この地を守る者は少ない。ドルエド国王の命により、戦える男はほとんど戦地へと招集されていた。領主の剣の相手を子供が務めるほどに。
ここは領主の、己の守るべき土地。


 領主の思考を読み取ったかのように少女は領主の腕を放した。
「迎え入れよう、シエンの里へ。せいぜい強くなるのだぞ」
黒い瞳を煌かせ、緩やかに上がる唇で、美しい娘は新たな戦士りょうしゅにそう告げた。




少女はまだ若く、世界は戦乱に荒れている。
――――里を統べる者が生まれるには、まだ少しの時間がかかりそうだった。

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