ギレイの旅 番外編

千夜ニイ

礼と儀と 幸せな場所

 団居礼一まどいれいいちは放課後の学校で、翌日分の授業の準備をしていた。
シエン村で教師を始めて10年以上が経っていた。
子供たちのためにプリントを揃える作業にもすっかり慣れた。
その年から礼一の息子である儀礼ぎれいも1年生となり、家族全員が学校の関係者となっていた。
まぁ、就学する前から儀礼は両親と共に教室で過ごしていた為に、教卓側の小さな椅子に座っているか、友人たちと共に生徒の席についているかの違いしかなかったのだが。


 その礼一のいる職員室に、一人の生徒が訪ねてきた。3年生になった玉城拓たましろたく
シエンでは珍しい、学業でも優秀な生徒だ。
「エリ先生いますか?」
キョロキョロと視線を回して、その姿が見つからなかったことに明らかに落胆する。
この少年は、金髪に深い青の瞳の、アルバドリスク人であるエリを、天使か何かのように憧れの目で見ていた。
「エリなら忘れ物をした子に届けに行ったけど、すぐに戻るよ。どうした、拓くん。」
礼一が言えば、一瞬不満そうな顔をした後に、拓は職員室へと入る。
「団居先生、なんであいつの名前『儀礼ぎれい』なんかにしたんだよ。逆さまにしちゃったから、あいつ全然礼儀正しくない。」
不満そうに口を尖らせてシエン領主の息子、拓が言う。


 儀礼は、父親である礼一が言うのもなんだが、どこへ連れて行っても、礼儀正しい良い子ですね、と褒められるような子だ。
そして、この不満そうにしている幼い少年もまた、どこに行っても将来が楽しみな素晴らしいご子息ですね、と称賛される領主の自慢の息子だった。


 その二人が、会うたびに問題を起こす。
主に、年長者である拓に対し、儀礼が失礼な態度を取り、拓が怒ってケンカになるという。
しかし、儀礼は他人の怒りが苦手な子供で、わざわざ相手を怒らせるようなことはしない。


「うーん、礼儀を逆にしたわけではないんだけどね。」
礼一の名の一字と、エリの気に入った一字を入れただけ。
人の道を示す『義』と言う字を常に『人偏にんべん』、人が見つめている優しい字だと。
困ったように礼一は眉間に小さくしわを寄せた。


 シエンの里で付ける名は、シエンの昔の文字を使うことが多い。
逆に言うと、今では名前くらいにしかシエンの文字は使われていない。
だから、ほとんどのシエン人が、自分や家族の名前程度しか、シエンの文字と意味を知らない。
それをまさか、小学3年の子供に指摘されるとは礼一も思わなかった。
幼い頃から領主として里を治めることを見据えている、本当に、拓は優秀な生徒なのだ。


「あ、エリ先生!」


 エリが戻ってきたのに気付き、嬉しそうに駆けて行く拓。
まるで、親鳥が戻ってきた時に騒ぐひな鳥のようだと、礼一はいつもそれを微笑ましく眺めた。




*********************


 その夜。
「そう、ありがとう。」
暗くなった家の中、ふわりと優しい笑みを浮かべて、エリは空中に語りかけた。
その光景はやはり、とても美しくて。
思わず見惚れていた礼一は、はっと我に返り、その中空へと視線を向ける。


「私からも礼を言った方がいいのかな?」
その虚空に手を伸ばして、礼一はエリに聞いてみる。
儀礼を見守ってくれているという、そこにいるはずの精霊たちに。
くすっと可愛らしい笑みを浮かべて、エリが笑う。
「もう、もらったって。」


 礼一の伸ばした手を掴み、エリは優しく微笑む。嬉しそうに。
(手に入れて、よかったのか。この存在を。)
愛しくて、大切でたまらないこの存在を、本当に自分の手の中に入れてしまってよかったのか。
問いかけながらも、礼一は掴まれた手に力をこめる。
その人は、世界の宝のような人なのに。その全てを奪ってしまったようで――。


「幸せね。」
ふふ、とまた少女のような、最上に嬉しそうな微笑みで、エリは礼一を見上げる。
「ここは幸せな所ね。」
愛おしむように瞳を閉じて、エリは礼一の手に頬を寄せた。


 本当に幸せそうで、その人から全てを奪った礼一は、許された気持ちになる。
全てを奪った礼一を、許すと言う様に、幸せそうに笑うエリ。
「君がいれば、どこでも幸せな場所だ。」
愛おしい存在を手放したくなくて、礼一はエリを抱きしめる。
強く、失うことのないように。
けれど、傷つけることのないように。


「静かね……。」
エリが言う。
「静か……なのか。」
はぁ、と息を吐き、礼一はエリを見る。
「ガレージと倉庫と研究室、どれだと思う?」
溜息と共に、礼一は愛しい人に訊ねる。その顔には仕方なさそうにしながらも、どこか楽しげな笑み。


「お父様の、お部屋かしらね。」
黙って、そちらを指差す精霊を見て、エリはくすりと微笑みをもらす。
騒がしい、強い力を持った精霊たちが、エリの周りに一人もいない。
そういう時、決まって儀礼と修一郎が、何かの実験を始めている。
それは大抵、時代に見合わぬ不思議なもの。


たぐいまれなる才を持つ、父と息子を持ってしまった礼一は、今日も忙しく二人を止めに行く。
二人が世界に目をつけられる前に。
世界中の国や研究者たちから、その技術を狙われるようになる前に。

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