ギレイの旅 番外編

千夜ニイ

エリと礼一

 エリ。
それだけが今の彼女の名前だった。
生まれ育ったアルバドリスクではなく、隣国ドルエドで暮らし始めて半年になる。
いつ襲われるかわからない、恐怖と、周りにいる人間すべてが敵方ではないかと疑ってしまう猜疑心。
神経はすでに擦り減っていた。
ドルエドの国王は必ず守ると言ってくれたが、すでに何度か危険な目に遭い、場所を変えていた。


 今は王都にある学院に通っている。たくさんの人に紛れ、かえって安全だとドルエド王は言った。
3ヶ月、ここで留学生としてできるだけ目立たないように、静かに生活していた。
しかし、茶髪・茶瞳のドルエド人ばかりの学院に、金髪青い目の彼女は目立つ。
美貌をもちながら、あまりひと付き合いをしない彼女はおとなしい人、という評価を得ていた。
そして、エリ本人は気付いてないが、隠れたファンは非常に多かったりする。


 とりあえず、怯え暮らしていたエリ。16歳の時のこと。
放課後、エリは自分の携わる研究室への移動の時だった。
廊下の先の方の教室から悲鳴があがった。
一人二人ではない。男女含む複数の声。
エリは身構えていた。
自分の刺客が現れたのかもしれない。思わず、持っていた研究資料を抱きしめ、いつでも逃げられるように気を張りながら前方の様子を探る。


 ドドドド
と、地響きと共に、10人を超える学生達が走ってくる。
全員が、驚愕と、怯えを浮かべ顔色を青くしている。
押し潰されないよう、エリは咄嗟に壁に張り付くようにしてその集団を見送った。
先の教室へ視線を戻す。


 ウ゛ォ゛ーー!!
何か、大きな獣のような物の咆哮が聞こえて来た。
そして、エリの深青の瞳に映ったのは――――問題の教室の前で笑い転げている火の精霊だった。
アルバドリスクに稀に生まれる深い青の瞳を持つ人間。
その人達は精霊の隣人、精霊の繋ぎ人などと呼ばれていて、とても大切にされている。
何故なら深青はその瞳に精霊達を映すからだ。
アルバドリスクは精霊に守護される国。彼等の助けなくては成り立たない。
彼等の意志を聞き、また人々の意志を伝えるのが繋ぎ人達の役目でもある。


 話がずれた。
要するに、エリは幼い頃から精霊を見ることができ声を聞くことができた。
だが、微笑んだり、いたずらをして笑っている精霊を見たことはあるが、お腹を抱えて、ここまで笑い転げている精霊は初めて見たのだった。
「何がそんなにおかしいの?」
エリは首を傾げて精霊に問う。
火の精霊は、言葉では答えず、片手で涙を吹きながらもう片方の手で教室の中を指差す。
そこには――――炎のように赤い鱗を纏った、巨大な『ドラゴン』がいた。
「ーっ!」
エリは驚きに息を飲む。
ギロリとドラゴンの目が動き、エリをとらえる。
エリの守護精霊が素早くエリの前に現れ、青い結界を張る。
だが、ドラゴンは、何をすることもなく、
シューッ
と音をさせて煙りのように消えていった。
パチパチと瞬きを繰り返すエリ。
アーッハッハッハ!
と人には聞こえない笑い声がすぐ側から聞こえる。
「はぁ。やっと消えてくれましたか。」
突如、教室の中から、男の声がした。今あった光景が嘘かのように落ち着いた声と、穏やかな表情。
エリのいる扉から遠い、黒板に近い席に座っていたらしい彼は、珍しい黒い髪をしていた。ちょうどドラゴンを挟んでいたために、今までお互いの存在に気付いていなかったのだ。
「あれ? あなたは逃げなかったんですか?」
エリに気付いた男が優しく笑いかけるように言う。
その笑顔はあまりに自然で、見た目も学者風の彼がいかにも穏やかな性格なのを教えてくれる。
エリはほっと息をついた。ずっと、息をつめて暮らしていて、今ドルエドに来てから初めて、気が抜けた気がした。
見たこともない、想像の世界の『ドラゴン』を目の前にして落ち着いている彼と、馬鹿みたいに笑っている火の精霊。
「くすっ」
「くすくすくすっ」
エリは笑い出していた。
「え? 何? どうしたの?」
驚いたように目を開いて、戸惑いつつもエリに近づいてくる男。
ぽんぽんとなんだか彼を慰めるように肩を叩く火の精霊のしぐさ。
それがまた、エリの心をくすぐった。
「ふふっ、ごめんさい……くすくす、なんだか楽しくて」
「まいったな、なんか副作用でもあったのかな……」
男は考え込む様な仕草をしてから心配そうにエリの顔を覗き込む。
「ううん、違うわ。とても珍しい物が見れたので、嬉しくて。」
エリはまだ頬が緩んだままなのを感じながら男に言う。
つられたように男は微笑む。
「そっか、よかった。僕はレイイチ・マドイ。古代学の研究をしてるんだ。よかったら君の名前も教えてくれる?」


「私はエリ。精霊学の研究をしているわ。」
「エリ? 覚えやすいね。」
それが二人の出会った日。


「どうしてあんなに笑ってたの?」
あれから仲良くなった火の精霊に聞くエリ。
「だってあいつ、エータをイーターとか、イオータをイオチャとか、発音おかしいんだもん。真剣な顔して赤ちゃんみたいに……ぷぷっ」
アハハハ
思い出したのか、再び笑い出す精霊。
「そんな、笑うなんて……。」
「しかもあいつ、火トカゲじゃなくて、火竜なんて呼び出して、幻じゃなかったらどうすんだよなぁ」
けらけらと笑い続ける火の精霊。
普通、精霊は個別の意識が薄く、世界に同調してるというが……。誰か彼に魔力を与え続けた人でもいるのだろうか?
エリは首を傾げる。
儀礼が生まれるより数年前の話である。

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