シエンの領主は苦労する

千夜ニイ

領主テオドラ・ラクシー

 彼の名前はテオドラ・ラクシー。
少し赤の混じった茶色の髪に、茶色の瞳。
1ヶ月ほど前にシエンの領主となった20代半ばの男だ。


 シエン国が彼の祖国、ドルエドに吸収されて、ただのシエン領になってからはプラス半月が経っている。
残念ながら、テオドラはその戦には出動していない。
大事な首都の守備を任されていたのだ。


 そう、彼は、国王からも一目置かれる、優秀な人材であるはずだったのだ。
それがなぜ、……このような田舎の、小さな村で、たった一つの領土しか持たぬ領主になってしまったのか。


「俺にだって、わからない。」
誰もいない領主の部屋で、テオドラは頭を抱えてポツリとつぶやく。
領主に任命されて一月ひとつき
祖国ドルエドからは、部下が一人も送られて来ない。


 この状況で確実に言えることは、テオドラはこのシエンの領主であり、シエンが「平凡で、ありふれた田舎」そんな言葉で表現できる、おとなしい土地などではなかったということだ。


 最初にも言ったが、テオドラがこの土地に来てからすでに、1ヶ月が過ぎている。
領民達は皆、彼のことを「領主様」と呼び、確かに敬っているように感じる。
しかし、もともと言葉の違う国であったシエンとドルエド。
意思の疎通が、うまくいってないのではと思えることがしばしば起こる。


「領主様、これが今日の分の書類になります。目を通していただけたら、いつものようにサインをよろしくお願いいたします。」
黒い髪に黒い瞳の男が一人、領主の机の上に、丁寧なドルエドの文字で書かれた書類の束を乗せる。
流暢なドルエドの言葉を操って。


「りょうしゅう、洗濯ものが終わったぞ。みな、元気に乾いた。」
元は身分の高いはずの娘が嬉々として、領主の着物をたんすの中へとしまう。
この少女の言葉使いが少しおかしいのは、ドルエドとシエンの言葉の違いだけではなく、直す気のない、少女の元来の気質のせいなのだと、最近テオドラはなんとなく理解してきた。


 その少女を後ろから追いかけてきて、ドタバタと下働きの女たちが声を荒げて、騒ぐのもいつものことだ。


「領主様、ご飯の支度ができました。」
テオドラの剣の稽古の相手も務める少年が、トレーに乗った食事を運んできた。
言葉の通じる者が少ないので、子供でもこの白壁という少年は、立派にテオドラの部下だ。
その重たい食器を抱えた手元にも、腰に提げた剣の見える足元にもまったくと言っていいほど、隙がない。


 領主様、領主様、領主様。
別に、テオドラにその呼び方に不満があるわけではないのだ、不満は。
しかし、最近、こいつらは、俺の名前を知らないのではないかと、テオドラには思えてきた。


団居まどい、お前、俺の名を知っているか?」
仕事のために一番よく会う男に、テオドラは試しに問いかけてみた。
「もちろんですよ。テオドラ・ラクシー様。何か、気になることでもありましたか?」
マドイがためらう事もなく、瞬時に問い返してきた。
「いや、皆が皆、俺のことを『領主様』と呼ぶのでな。誰も俺の名を、知らないのではないか、と思ったんだ。」
このシエンと言う、まったく知らない土地に来て、テオドラは自分の価値観というものを色々と壊されていた。
自分自身についても、そうだが、努力によって培われた「国の中でも特に優秀」と言われた「テオドラ・ラクシー」の価値が損なわれたような気がしてならなかったのだ。


 それだけ、このシエンと言う土地は異様だった。
このままでは、ドルエドの上流貴族、ドルエドの騎士、ラクシー家のテオドラは、ただの名もない一人の人間になってしまう。
そんな風に自分の存在が薄ぼけていくような気がして、テオドラは不安になっていたのだ。


「里の者は皆、存じていますよ。ただ、シエンの国では、王の名を呼ぶのは礼儀に反していたので、ただ『王』と呼んでいました。これからはその役目が『領主』と言うものに変わると伝えたので、里の者はテオドラ様を『領主様』とお呼びしています。お気に召しませんか?」
精悍な顔つきの男が、穏やかに問いかける。


「いや、構わん。……そういえば、お前の名は? マドイは確か、家名、だよな。」
自分の名を当然のように呼ばれ、感じていた焦燥が杞憂であったことに気付いたテオドラは、今度は自分が部下の名を知らなかったことに気付いた。
これはもう自分に呆れる。
そしてそれから、別のことにも気付いて、テオドラは愕然とした。


(俺は、この里に住むほとんどの者の名を知らない。)


シエンの国に、いくつかしかない、少ない家名をやっと、覚えただけだった。
1ヶ月もこの里にいて、覚えたのがそれだけ。


(薄っぺらい俺の存在は、こんな所にあったのか。)
テオドラは額を押さえて笑う。


(この里に、『俺』、テオドラ・ラクシーは、まだ、存在していなかったんだ。)


「『ソウ』です。」
聞き慣れた部下の声が、その名らしい音を告げた。ドルエドでは聞かない、珍しい名前。
「ドルエド風に言うと、ソウ・マドイ。あおいと言う字を書くんですよ。天や草木の色のことです。」
幼子にでも教えるように、丁寧な物言いで、マドイは言った。
子供たちにものを教える仕事を多くするために、くせにでもなっているのだろう。
しかし。


「天の青はわかるが、草も木も『緑』だろう。それに、お前のどこに青がある。髪も目も黒で、肌は黄色おうしょくではないか。」
苦笑するようにテオドラが言えば。
「はは。本当ですね。他人の顔を蒼くするのは得意なんですが、自分は蒼くなりませんね。」
声を立て、可笑しそうにマドイは笑った。


 それまで、絶対の信頼を寄せていた、一の部下に、新領主テオドラが不安を抱いた瞬間だった。

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