ギレイの旅

千夜ニイ

ブローザの研究所

「ブローザ様、逃げましょう!」


 研究員の一人がブローザの腕を引き、非常口へとうながす。


「彼らを置いては行けないわ」


 ブローザは首を振る。研究所内には動物へと姿を変えた研究員達がいる。ブローザのためにと身を捧げ、今では、立ち上がることすらできない程に弱った彼らを見放すことはできなかった。


「しかし、このままでは奴らが来ます。ブローザ様から全てを奪おうとするあいつらが」


 悔しそうに奥歯を噛み締めて研究員の男は言う。


「『蜃気楼』。まさか、管理局全てを変えるなんて」


 モニターに表示された画面を見て、ブローザは呆けていいのか、感動すればいいのか、または絶望に沈めばいいのか、それすらも分からなかった。
 蜃気楼の呼びかけで色の変わった世界地図。
 ブローザの気持ちに一番近いものはおそらく、諦め。


 世界の全てが変わったならば、もうブローザ達に逃げる場所はない。管理局の研究室を実験場として使って来た研究者達には、『蜃気楼』の処罰を待つしかない。
 それを認められない者は逆らっただろう。そして、Sランクを持つ者に敗北した。今のブローザのように。


 俄かに外が騒ぎ出す。ついに来たのか、とブローザは覚悟を決める。


「あなた達には申し訳ないわ。私の研究に協力してくれたのに、その結果を出せないまま終わるなんて」


 檻に入った五匹の動物にブローザはせめてもの笑顔を向ける。大切な部下達。
 ブローザの研究に命を張ってくれた者達だ。しかし今、彼らの体は衰弱しきっていた。
 変化の魔法陣は発動したのに、元に戻すために用意した反転の魔法陣は発動しなかった。
 いくつもの可能性を考え、あらゆる手を尽くしたが結果は出なかった。
 変化した者達はみるみる弱っていき今ではもう、一目見て分かるほどに死へと近づいていた。


 ブローザの研究は人類のためだと思っていた。いや、今でも思っている。けれど、ルールの変わった今、ブローザは犯罪者の烙印を押される事になる。
 命をかけていった部下達の死が、無意味になることは耐え難い辛苦だ。


「そうね、せめてこの研究は続けて欲しいわ。あとをあなた達に頼んだわよ」


 研究資料の権限をわずかに残った部下達に託す。


「そんな、無理ですブローザ様」


 音のなるほどに首を振って、研究員達はブローザに縋る。
 ここに残っている研究員達は、変化の魔法陣も反応しない、魔力を持たない者で、さらには研究所を守るために戦える武力もない。


「こんな俺たちがいくら集まったって、魔法薬に精通したブローザ様がいなければ、この研究は進められません!」


「いいえ、あなた達には頭脳があるわ。今まで貯めてきた知識がある。わたくしはあなた達に教えてきたはずよ。覚えているわよね、数々の魔法薬の作り方を」


 ブローザは銀縁の眼鏡を抑え、威厳を見せるように背筋を伸ばす。


「あなた達ならできるはず。無駄にしないで、命をかけたみんなのことを」


 その時、深刻な雰囲気の場に軽やかな声が入り込んだ。


「まだ失ってない、救える人命は救いますよ」


 透き通るような耳に心地よい声。
 白い衣をなびかせて、金髪の少年はその研究室へと走りこんできた。


「やっぱり弱ってる。水分もビタミンも全然足りてない。それに、多分神経への負担が半端ないんだ」


 ブローザへと手枷をかけに来たはずのその人物がまず行ったのは、鍵を開けて檻の中へと入り込むことだった。


「点滴打ちます。もう大丈夫ですからね、きっと助けます。安心してください」


 死の匂いのする場所で、慈愛溢れる笑みを浮かべる。撫でる先から毛の抜けていく獣に跪き、体温を分け与えるように包み込む。


「必ず人間に戻れますから」


 俯せた獣の額に己の額を合わせ、瞳を覗きこんで伝える。絶望に彩られていた室内を、緑の草原のような風が吹き抜ける。
 夏だというのにひやりとしていた室内に、柔らかな陽射しの匂いが立ち昇った。


 照らされたように明るく見え始めた視界に、ブローザは瞬きを繰り返す。
 根拠のない言葉。無責任な励ましの声。
 けれど確かに、少年の行動により、獣と化した者達は瞳の輝きを取り戻した。


 五つの檻の中には五匹の動物がそれぞれ入っていた。
 その動物をベッドへと運び出す。
 猿、牛、虎、熊、そして翼を持たない鳥ドードー。


「ねえ、どうしようアーデス。ドードーいるよ!」


 本物かな、と呟いて後から入ってきたアーデスに「人間でしょう」と突っ込まれる。
 深刻な空気は、いつのまにか払拭されてしまっていた。


「ブローザ様!」


 次に室内へと駆け込んできたのはブローザの部下であるヨルセナ。検体奪取のために、蜃気楼の元へと送り込んだ兵士だった。


「ヨルセナ。無事、だったのね」


 ブローザの送り込んだ刺客。しかし、巻き起こった蜃気楼の宣言に、それは阻止され、既に帰ってこないものと思い込んでいた。


「全員無事です。身柄は拘束されていますが」


 ヨルセナはブローザへと抱きつく。


「ブローザ様こそご無事で何よりです」


「そう。そうね。でもわたくしはこれから裁かれる身だわ」


 諦めの境地に達したか、毅然とした顔で儀礼へと向き直るブローザ。
 その表情を受け止め、儀礼は厳かに告げる。


「ブローザ・ジェイニさん、あなたへの処罰はDランクへの降格」


「そんな、ブローザ様をDランクにするなんてっ。正気じゃないわ!」


 ヨルセナが耐えられないと言うように絶叫する。
 Dランクは駆け出しの研究者と同じランク。研究室の貸し出しなどは受けられるが、何の権限も持たない存在。
 多くの研究者に傅かれていたブローザの身からすれば考えられない処遇だ。


「これは、今までのブローザさんの功績を鑑みた上での決定だ。多くの無関係な人を実験に巻き込み、その命を奪った事は本来、投獄に値する」


 ブローザは儀礼の言葉に苦しそうに眉を寄せた。


「でも、それ以上に。やっぱりブローザさんは人の為になる事をしてきた。魔法の遅れたドルエドの中で、世界と肩を並べる魔法薬の権威になられた」


 言いながら情けなく眉を下げた儀礼は、ブローザの前まで歩み寄る。


「ここに、あなたの力を必要としている人達がいます。彼らは人です。人間ですよ。大勢に観察されている状態で排泄ができますか? 裸をじっと見られて平然としていられますか? 人として扱われずにいて正気を保てると思いますか?」


 ブローザは目を見張って、動物の姿となった研究員達を見回す。
 研究対象として扱ってきた日々を思い返す。それは、元々の研究員達への態度とはかけ離れたものだった。


「見た目は動物ですが、意識は人間そのものです。姿が、形が変わっただけです」


 話すことのできない動物達に、意思の疎通などできるわけがないと、ブローザ達は思い込んでいた。


「あなたの協力が必要です、ブローザ・ジェイニさん。彼らを人の姿に戻すためには、個人に合わせた魔法薬がいります。あなたの頭の中には、彼らの個人の情報が入ってるはずです」


 数値ではない思い出が、人の記憶の中には詰まっている。
 どんな時に感情が昂ぶって、どんな時に落ち込んで、どんな時に笑うのか。
 魔力の流れは無意識の感情にさえ左右される。
 時間をかければできる作業。けれど時間はなく、それができる者が目の前にいる。


 儀礼はブローザへと手を差し出した。


「僕も協力します」


 世界を変える者が、協力を名乗り出た。
 ブローザの瞳は見開かれる。
 救いの手は、『互いに』差し伸べられるものだった。
 ブローザが差し伸ばせば、道は開かれるものだったのだ。


 ブローザは儀礼の手を握る。その手のひらから力強い若い輝きを感じた。
 幼いながらも曲がらない芯の強さ。
 新しい風は世界を駆け抜けた。
 管理局の闇の時代は終わったのだ。

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