ギレイの旅

千夜ニイ

検体

 儀礼が買い物から帰ると、研究室の前が騒がしくなっていた。
借りているとは言え、研究室は絶対不可侵。
その入口でもめごととはありえないできごとだ。
人垣を越えて、儀礼は自分の借りた研究室へとたどり着いた。


「――ですから、その検体をそちらの言い値で買い取ると言っているのです。それがどれだけ優遇された事か分からないわけがないでしょう。」
苛立ったような女性の声はブローザのもののようだ。
銀髪に眼鏡の女性が複数の供を連れだって儀礼の研究室の前を塞いでいる。


「何度言われても、主の意見は変わらない。彼らをそちらに渡す理由がない。」
対応しているのはアーデスだった。
ブロウザとは逆に冷めきったような目で研究者たちを見下ろしている。
「一体につき2000万。それでどう? 検体としては破格の値段よ。」
銀色の髪を荒々しくかきあげて、ブローザは言った。


「2億と言われても、10億と言われても、彼らを引き渡すことはありません。」
アーデスとブロウザの間に割って入るようにして儀礼は告げた。
「彼らは人間です。僕は人身売買を行う気はない!」
はっきりと怒りの意思を示して儀礼はブローザを睨み付ける。


「……っ。何を言っているの、その姿はどう見ても人間のものではない。わたくしの研究する題材の資料となるものたちよ。」
銀縁の眼鏡を押し上げて、儀礼を睨み返すようにしてブローザは続ける。
「だいたい、よく考えてみなさい。あなたたちが人間だと言うなら尚更、わたくしの所に来た方がいいということがわかるはず。何しろ、わたくしの元には、狼化した人間の全てのデータが揃っているのですから。少しでも早く人間に戻りたいなら、わたくしの研究所に来るべきだと分からないはずがないわ。」
勝ち誇ったようにブローザは儀礼の研究室内の3頭の狼を見る。
グレイシルが、その言葉に、悩むかのように俯いていた。


「データ、ね。あなたの研究資料は全て、僕の手の内にありますよ。」
くすりと儀礼は邪悪な笑みを浮かべる。
儀礼の示したパソコンには、非公開のはずのブローザの研究データがびっしりと映し出されていた。


「Sランクの能力、なめてもらっては困りますね。」
にやりと笑って、Sランクの特権を誇示する儀礼だが、このデータを集めたのはあくまで『アナザー』であり、Sランクとしての権利は全く関係ない。
が、しかし。そんなことを、Sランクになりえない人間が知るはずもないので、このはったりに問題はない。
例えアナザーが非合法の手段を使っていたとしても、ブローザ達は儀礼が正規の権力でもって、この資料を手に入れたと思うことだろう。


 ここに悪魔がいる。
合わせて3体の悪魔だ。
言わずともわかるだろう、裏の情報を入手する『アナザー』に、それを正当化する『蜃気楼』、そして、それら全てを容認する『双璧』。
管理局の上層部に切り込みを入れるには十分な実力者たちだ。


「仕方ないわっ、今日のところはこれで引くけれど、あなたたち、必ずわたくしの元で研究を受けた方がためになるとわかるはずよ。こんな、レンタルの研究施設なんかで、研究を進めようなんて人間とは、レベルが違うのよ。いつでもわたくしたちは歓迎するわ。」
最後に研究室内をもう一度見回して、3頭の狼をそれぞれ見ると、ブローザはようやく自分の研究施設へと帰っていったようだった。


「ふう〜。」
買ってきた物を机の上に置いて、儀礼は大きく息を吐く。
「なんとか帰ってもらえましたね。でも……。」
悩むように瞳を伏せて儀礼は床を睨んでいた。
「もし本当に、ブローザさんの元に行きたいのでしたらそう言ってください。」
苦しげな瞳で儀礼はガスカルたち3頭を見る。


「ブローザさんが言った通り、設備も研究歴もあちらが正規であり、上です。 まだ解決策を見つけていないとはいえ、先に対処法を見付けるのはブローザさんの方かもしれません。」
大切なことであるので、儀礼は偽りのない真実を3人に伝える。
それで、彼らがブローザの方へ行きたいと言うならば、儀礼に止める権利はない。


 タザニアが、儀礼の買ってきたサンドイッチやおにぎりにがっつく。
大きな口で、2つ3つを丸ごとばくりと飲み込んでしまう。
次に動いたのはグレイシルで、毛布を被ったままおずおずと動き出して、儀礼が買ってきた衣類を手に取る。
狼が人間の服を着ている姿は違和感があるが、当のグレイシルは満足そうに手足を伸ばしていた。


 ガスカルはと言えば、
『さすが、蜃気楼さんです! カッコ良かった! 俺はあんな偉そうなババアの所になんて行きたくねえよ。』
キーボードを叩いて、好き放題に呟いていた。


「研究設備なら、私の研究所使えますしね。」
爽やかな笑みを浮かべてアーデスはすでにそこへと資料を送り始めている。
「魔法薬と魔方陣の組み合わせと法則か。昔からある重大な問いだな。今使えてる魔方陣は、古代の魔方陣を解きほぐしたものだ。未発見や、使用できない魔方陣の形は無数にある。」


「アーデスが難しいこと言い始めた。つまり、元に戻すには無数の魔方陣の型を試さないとならないってことでしょう。」
アーデスにやる気があるようなので、儀礼はあえて止めるようなことはしない。儀礼が口を出すよりも、アーデスやコルロが解決する可能性の方がずっと高いのだ。


「落ち着いたらさ、シャワー浴びに行こうよ。埃まみれだし、毛皮で暑いでしょう。」
いいことを思い付いたと言わんばかりに儀礼は3頭の狼を見回す。
「シャンプーで綺麗に洗ってあげるよ。あ、グレイシルさんはクリームに頼むから安心して。」
警戒したように後ろに下がったグレイシルに儀礼はすぐそばにいたゼラードの姿のクリームを示す。


「クリームは女の子だから。」
言われてしぶしぶとゼラードは結わいていた髪を解いた。
肩までかかる長い髪は確かに、少女のものだった。
グレイシルも安心したように頷く。


「で、ギレイ。まさかとは思うが、シャワーを浴びるのは……。」
「管理局の公共施設だよ。他にある? 風呂屋まで行くのも遠いし、学院の寮で入れてもらってもいいけど手続きが面倒だし。」


 数分後、管理局のシャワー室から、大勢の人間の悲鳴と同時に、たくさんの人が飛び出してきた。
「狼が……狼が……。」
逃げ出してきた人々は口々にそう口にする。


「そこまで気にすることないのにね。」
静かになったシャワー室の中で、儀礼はガスカルの全身を洗う。
隣のスペースでは、獅子が大柄なタザニアを洗っている。
埃や土、何より獣の匂いが染み付いていた。
それをシャンプーで綺麗に流し落とす。


 さっぱりと石鹸の香りのする自分の毛皮に満足して、グレイシルは上機嫌なようすで研究室へと戻ってきた。



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