ギレイの旅

千夜ニイ

氷の谷の忘れ人7

「どちらにします?」
男の店員が、両手でゴマをすりながら儀礼へと女性達を推し進めてくる。
「こちらの女性はナイリヤから来た、数少ない貴重な娘です。南国の娘はいいですよぉ。」
ゴマをすりすり、男は言う。


『本当に色んな人種がいるんだね。』
興味深そうに女性達を見回しながら、儀礼は周囲にも目を配る。
この部屋には、儀礼達以外に男はいない。
用心棒たちもこの部屋には入って来ないようだった。
つまり、この部屋には、他の者に知られたくない何かがあるはずだった。


『助けて。』
『もう帰りたい。』
『お母さん。お母さん……。』


 柵の向こう側、様々な言語で、女性たちが言葉を語る。
国のない者達を集めていると言っていた。
誘拐同然に攫われてきたのだろう。


 それを聞きながらも、儀礼はじっと観察を続ける。
どの言葉も、知っているが儀礼の求める古代の言葉ではない。
儀礼は、正義の味方をしに来たわけではない。
全員を助けることなどできないのだ。


 聞き取れてしまう自分の耳が痛かった。


 結局、案内された部屋の中には、儀礼の求める氷の谷の人間はいないようだった。
トラリス以外にも、言語の通じる時代の者がいるかもしれないと注意深く見てみたが、骨格から、現代の人種しか見つけることはできなかった。


 歯がゆい思いで、儀礼は手の平を握り締める。
それでも、顔には笑顔を張り付かせる。
まるで、この観覧会を楽しんでいるかのように。


 その時、儀礼はふいに気付いた。
部屋の広さと、壁への違和感に。柱の位置と、壁の位置にずれがあった。
儀礼は握っていた手の平を開く。


『アーデス、下だ。この部屋、地下にもう一部屋大きな空間がある。』
少し、焦ったような、早口になってしまった言葉を、しかし、アーデスはしっかりと聞き取っていた。


 ドゴォッ!!!!
アーデスは迷いなく床を破壊した。
そして、躊躇なくその穴の中へと飛び込む。
儀礼もすぐにその地下室へと飛び降りた。


***************


 一筋の光も差さないような場所で、その女性はただ死にゆく時を待っていた。
恐ろしかった。
明日まで自分の命があるのかどうか。
今、自分が生きているのかどうか。
人として扱われてこなかったこの3年間の中でも、この部屋に入れられてからの数日の方が女性にとってははるかに恐ろしかった。


 人として動くことのできなかった、気の遠くなるような年月すら、兄姉たちと共にいられたと思えば天国のように感じられた。


 (もう一度、あの時へ還りたい。叶うならば、兄弟仲良く野原を、町を駆けたあの幼い年月へ。)


 女性は暗い室内へ涙をこぼす。
けれどそれを見届ける者はいない。
同じ室内にいる者はみな、死んだように無気力で、本当に生きているのか確認することすら恐ろしかった。
女性の知らぬ間に、本当に命尽きて、ごみのように運び出されていった者を見た。


 恐怖で胸が押し潰されそうだった。
故郷の歌が懐かしい。
故郷の全てが愛おしい。
狂おしい程に、幼い頃の幸せだったあれこれが脳裏によぎっていく。


 これを人は走馬灯と呼ぶのかもしれない。


 女性は尽きかけてきた己の命を悟り、また、虚しい涙を冷たい床に流す。
もう、起き上がる体力すらない。
女性はもうずっと、凍えるように冷たい床に横たわったままだった。


 頭の中に流れてくる故郷の、兄姉たちの囁く声。
『楽しみだね。』
『遊びにいこう。』


 切ないほどに懐かしい声。


『『トラリス。』』
腕を伸ばせば届くのではないかと思えるほど近くで聞こえる、女性の名を呼ぶ温かい声。


今はもう記憶にも遠い、ノティアスの町の市場へと出掛けた時。


『色んな人がいるんだね。』
そう言ったのは、兄だったか、姉だったか。
低すぎず、高くもないけれど、耳に心地好い、楽しげな声。


 足の速い兄と姉はトラリスに差を付けてすぐに駆けて行ってしまう。


『待って、置いてかないで!』
かすれた声でトラリスは囁いていた。
聞こえた自分の声の力なさと虚しさに、途端にまた涙が零れ落ちる。


 それでも、暗い天井に手を伸ばしてトラリスは涙に濡れた声でもう一度呟いた。
『私はここよ。ここにいるの。』
誰一人、今の世界で理解する者がいないと知った、ノティアスと言う町の言語で。


 ドゴオオオオンッ!
その時、トラリスの言葉に答えるように、黒い天井の岩が崩された。
ボロボロと砂煙と共に瓦礫が降ってくる。
そして、とても明るい一筋の光が部屋の中へと降ってきた。


***************


 地下には確かに、広い部屋があった。
そこにも数人の女性たちがいた。
しかしみな、体が弱ったようにやせ細り、衰弱していた。


 商売に出られなくなった娘を収容する部屋。
それが、この地下の部屋だったらしい。
ただ、死を待つだけの冷たい場所。
儀礼は間に合ったことに安堵し、そして、こんな状況になるまで、助けることができなかったことを悔やむ。
世界中には、こういう場所がいくつもあるのだ。


 儀礼は、正義の味方ではない。
でも、関わったからには、助けたい。
それだけの力を、儀礼は祖父から与えられていた。
『よかった。』
それは、とても運のいいことだと、今の儀礼には思えた。


『……時の聖者。』
涙の滲む声で一人の女性が呟いた。
それこそ、儀礼の探していた、古代の言葉。
『もう、死ぬんだと思っていたわ。助けが来るなんて思わなかった……。聖者様。』
アーデスに抱きかかえられ、儀礼の手を取り、掠れた声でその女性が言う。


 しかし、立とうとして、自力で立ち上がれず、儀礼に抱きつくように倒れこむ。
儀礼は慌てて女性を支えた。


 黒い髪、濃紺の瞳、そして、なにより、クロエとよく似た面立ち。
『トラリスさん、ですね。』
『……ええ。』
目に涙を溜めて、けれど嬉しそうにトラリスは頷く。


『もう生きることは、諦めていました。それなのに、聖者様が来てくださるなんて。私、生きていて、よかった。この、知らない土地で……。』
そう言うと、トラリスは次から次ぎへと涙を流して泣き伏した。


 儀礼はトラリスに、クロエに言われて探しに来たのだと伝えた。
『クロエは、姉は無事なんですね!』
嬉しそうに、トラリスは笑う。
しかし、皮肉なことに、3年も前に人間に戻されていたトラリスは、1歳違いのクロエの年齢を上回っていた。


 体が衰弱し、折れてしまいそうなほどに細い腰。
3年で伸びたらしい、長い長い黒い髪。大きく豊かな胸。
ほとんど布をまとっていいない、商売服らしい衣装。
本当に、クロエの年齢を超えてしまった身体的年齢。


 クロエも、兄のファロオと近い年になってしまっていた。
氷の谷の時間のイタズラが、兄妹たちの年齢を変えてしまった。
そして、自力で生きてきたクロエはともかく、トラリスは深く心に傷を負ってしまっている。


 それでも、トラリスはサウルの研究施設で待っていた二人の兄姉に会えると、幼子のように泣いて笑って、喜んだ。
二人の兄姉も嬉しそうにトラリスを迎えた。
何度も儀礼に感謝をして。


『時の聖者様。』
トラリスが言う。
『時の聖者? それって、何?』
首を傾げて儀礼はトラリスを見る。
助け出した店の中でもトラリスは言っていた。


『時を越え、聖なる力を持ち、私達を導いてくださる存在です。』
言葉の分からないトラリスのもとに、古代の言語を持って現れた儀礼を、時を越える力を持った聖者だと、思ったという。
そういう、存在が、ノティアスの町には語り継がれていたのだと言う。


『時を越える存在か……。』
儀礼は呟く。
『それは僕じゃないよ。』
悲しげに儀礼は微笑む。
『今はもう、君たちが時の聖者だ。』
時を越え、新しい時代を生きていく人間達。


 その生き様は、楽ではない。
けれど、彼らの生きる姿勢はとても美しく、清らかなものに、儀礼の目には映った。


『時の聖者……。私たちが?』
戸惑ったようにトラリスが儀礼を見る。
肯定するように儀礼はトラリスの手を取る。


『ここに、時の聖者の先輩たちがたくさんいるよ。生きていこう。この時代で。』
にっこりと儀礼は微笑んだ。
その笑みに、つられるように、安堵したように、トラリスも美しい笑みを浮かべていた。


 そう言えば儀礼達が脱出した直後、トラリスたちがいたあの店は潰れたらしい。
物理的な意味で。
用心棒達が総出で戦っても勝てない、大規模の魔力攻撃を受けたらしいのだが、誰がやったのかは、儀礼は知らない。
中にいた女性達は、全員救出した後なので、犯人探しは必要ないだろう。


「ね、コルロさん。」
「だよな。」
二人は、ニヤリと笑い合った。

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