ギレイの旅

千夜ニイ

ネネ

 儀礼は宿の部屋で一人、留守番をしていた。
一緒にギルドへ行こうとは誘われたが、先日壊れたトラバサミの仕掛けなどを直したかったために断った。
管理局を借りるまでもないと、儀礼は部屋の中で作業を進めていた。
儀礼にとって、暖炉の火があれば、たたらは要らない。不思議とそれで鋳造ちゅうぞうが出来る。
 【※鋳造――金属を溶かして型に流し入れ、物を造ること。】
そのことに気付いた日から、便利だとは思っても儀礼が、疑問に思うことはなかった。


 コンコンと扉が鳴った。
「はい。」
全ての道具をしまい、儀礼は警戒しながら応じる。
白と獅子は二人で冒険者ギルドへと出かけて行った。帰って来るにはまだ少し早い。


「わかるかしら、私。ネネと言うの。」
聞き覚えのある声が軽やかに告げた。
警戒を保ちながら開けてみれば、ネネがするりと部屋の中へと入ってきた。
「こんにちは。お邪魔するわね。」
友人を装う親しげな態度で。


「なかなかいい所に泊まってるわね。宿自体は小さいけど、手入れは行き届いてるし、警備も万全。」
ふふっと笑ってネネは言う。
その警備の中を、どうやってか入り込んだ、怪しげな占い師が。
招いてもいないのだが、ネネは部屋の中が十分に暖かいことに気付き、羽織っていたコートを脱いだ。
ネネの服は、軽い旅装のようにも見えたが、襟元はひらけ、寒い時期だと言うのに、足首まで覆う長いズボンは、夏に着るような薄衣うすぎぬでできている。
綺麗な脚の形がくっきりと透けて見えた。


 後ろ手で扉の鍵をかけると、ネネは嬉しそうな微笑みを浮かべる。
「あなたに、また会いたいと思っていたのよ。」
耳に心地いい、優しい響きを含んだ甘い声。
「どうしてここが……って、聞くだけ野暮でしたね。」
ネネは一流の情報屋だ。アナザーを相手にしていると思えばいい、と儀礼は苦笑する。
どこにいるかなど、儀礼と獅子の容姿をたどって目撃情報を集めれば、簡単に探れる。
儀礼の流した偽情報に惑わされない、それが一流の情報屋だ。


 うっとりとした瞳を儀礼に向け、ネネは細い腕を伸ばし、儀礼の頬に白い手を添えた。
目線はほんの少しだけネネの方が高い位置にあった。
「すみません。何の用でしょうか。」
芳しくない態勢に、儀礼は硬い声で答える。
情報屋相手に、油断はできない。
警戒して、儀礼は一歩後ずさった。


 しかしネネは慣れた様子で、なめらかな動作を見せ、儀礼の目の前に身を滑らせた。
そのしなやかな動きは、儀礼の防備していた手と意識の間をすり抜けた。
気付けば、ネネの体は儀礼の腕の中に納まっている。
身体は細いのに、全体が柔らかい感触。
思わず儀礼は、後ろに引いて逃げようとしたが、ネネに肩と頭の後ろに手を回され、体重を預けられた。
いつの間にか儀礼の手はネネの腰に回されている。
儀礼が自分から手を出したわけではない……はずだ。
片腕で抱え込めてしまうほど細い腰。


「あなたのことが知りたいの。」
甘い匂いと共に、耳に響く切ない声が囁かれる。
目の前で誘うように動く、つやのあるピンク色の唇。
甘い、甘い匂い。


 危険だ、と儀礼の頭の奥で警鐘が鳴る。
この匂いは危険だと、儀礼の記憶が語る。


 儀礼が、全力でその体を振り払う前に、ネネは慣れた様子で、儀礼の口を塞いだ。
顔を上向きにされ、薬を流し込まれ、のどの奥の方へと送り込まれ、儀礼は無意識のうちにのどを鳴らした。
それで、液状の薬を飲み込まされてしまった。


「……何の薬を飲ませた。」
勢いよくネネの体を押しのけて、儀礼は顔をしかめて自分の口を覆う。
「あらあら、よく知っているでしょ。あなたが作ったんですもの。」
楽しそうに妖艶な笑みを浮かべてネネは細い指で自分の唇を拭う。
「あなたの、情報を渡しなさい。」
あやしい笑みを浮かべ、優しい声で言う占い師。


「う……。」
自分で作った薬を飲まされ、意識を保とうと儀礼は苦しむ。
(これは、自業自得か?)
儀礼は心の中で皮肉る。


 視神経へ働きかけ、本人の信頼している者や、警戒しない者へと自分を信じ込ませることができる薬品。
使われた者に幻覚を見せ、聞こえる声すらも変えてしまう。
以前、どこかの領主の息子に使った物を改良し、どこぞの軍人の娘に使用した物をさらに改良した。
本人と話しているよう錯覚させる薬。
言葉の誘導が効くように、思考能力を奪うので、頭はボーッとする。


(僕の情報が知られているなら、化けてくるのは獅子。でも獅子は情報なんて欲しがらない。理解しない。)
儀礼は自由を奪われた脳ではなく、自分の心に言い聞かせる。


 やはり、儀礼の前に現れたのは、黒髪の少年の姿だった。
(僕が一番信頼してるのは獅子か。)
心の中で、儀礼は笑う。


「ほら、見せろよ、お前のパソコン。パスワードってのがあるんだろ?」
乱暴な言葉をはきながら、獅子が近付く。
「アクセスコードは何だ? どこにデータを置いてある?」
真剣な顔をして獅子がさらに儀礼に近付いてくる。
見たこともない真面目な顔で、難しいことを話す。


「ぷっ、くくく、あははは。だめだ。笑える。」
儀礼は腹を抱えて笑い出した。
「何!?」
獅子の姿をしたネネが、怒りの表情を浮かべる。
「獅子、『アクセスコード』なんて言葉いつ覚えたの?」
笑い転げたせいだろうか、薬でボーっとしていた頭が少し、すっとしていた。


 目の前にいる人の姿が、黒髪の少年と、桃色の長い髪の女性とが重なり、次々と入れ替わるように揺れている。
「まさか、薬の効果がもう切れたの? さすがにSランクと言われるだけあるわね。」
冷や汗を流し、身をひるがえすネネ。
「仕方ないわね。今回は、これでひくわ。」
意味深な視線を流して、ネネは部屋を出て行った。
「……半分は獅子の姿だから不気味だ。」


 扉の向こうに消えた女性を思い、儀礼は手の平で両目を覆う。
薬に無理に耐えたために、ひどい頭痛がしていた。
儀礼は反対の手で無造作にポケットを漁る。
「くそっ、やっぱり一瓶持ってかれた。手癖の悪い占い師だ。」
苦々しく、儀礼は女性の消えた扉をにらみつける。
なのに、なぜか憎みきれない自分に戸惑う。


 儀礼は薬を飲まされる時に無理やり触れられた唇に親指で触れた。
「僕も案外単純てことか?」
柔らかい唇の感触と、甘い口紅の香りがリアルによみがえった。
「幻覚切れてないし……。初めての大人のキスがSランク情報を奪いに来た情報屋プロ?」
儀礼は頭を抱える。
ネネの体から漂ったあの甘い香りは、人の思考を奪うタイプの物だ。
「二度と会いたくない。」
扉に鍵がかかっていないことも忘れ、儀礼は疲れた様子でベッドに倒れこんだ。

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