『触れる』

むらもんた

触れる

♦︎♢♦︎♢


 ブーッ、ブーッ、ブーッとマナーモードにしてあるスマホがバイブした。画面には【母】と表示されている。
 すっかり汚れてしまった部屋を一度見渡し、ふぅと一息ついてから【応答】の文字をタップした。


「……もしもし」


『もしもし俊介……あんなことがあったんけ、辛いと思うけどあんたそろそろ会社いくんよ。有給休暇だっていつまでもとれんのだし、そんな生活してたらーーちゃんに顔向けできんでしょ』


「あぁ、そうだな……今日から行こうと思う」


『そうかい。まぁ何かあればすぐこっち帰ってきていいから、もうちょっと頑張ってみぃ。身体には気をつけるんよ』


「うん。じゃあ準備するから……」


 短い会話を交わし、すぐに切った。
 俺の気持ちは誰にもわからない。そう思うと人と関わる気になれなかった。たとえ親だとしても。




 子供の頃、この世界の中心には常に自分がいると、なんの根拠もないのに漠然とそう思っていた。自分が死んだらこの世界は終わるとさえ。
 だが違った。大人になり様々なことを経験する中で、所詮自分はこの世界のほんの一部であり、歯車の一つでしかないと気付いた。いや、もしかしたら歯車ですらないのかもしれない。
 そう、この世界はあまりにも残酷だ。誰に何が起きようとも、決して止まることはなく時が進む。あたかも何もなかったかのように……。
 はぁ。また新しい1日が始まる。なんの代わり映えもしない1日。まるで自分だけが別の世界に生きているんじゃないかという感覚。
 そんなことを感じながら1週間ぶりに会社に向かった。




 久々の仕事だったが、上司や同僚の配慮もあり、定時には仕事を終えた。そして最寄りの駅に向かう。
 週末だということ、そしてオフィス街だということもあり、路地は行き交う人々で溢れていた。
 かくいう俺もその中の1人だ。


「おにいさん。ちょっとそこのおにいさん」


 誰かに呼び止められた気がする。
 気のせいかと思い、周りを見渡してみる。すると路地裏に黒い服を着た怪しげな老婆が、こちらを向いて椅子に座っていた。
 老婆の前には学校で使用するような簡易的な机ともう一脚の椅子が置いてある。そして大きな文字で【占い】と貼り紙がされていた。


 近付いてみると
「だいぶ疲れた顔をしているねぇ」と老婆が一言。


「まぁ……何か用ですか?」と素っ気なく聞き返すと再び老婆が口を開く。


「用ってほどじゃあないんだけど……あんた大切な人を失ったね?」


「えっ!? ちょっと待っ……」


 正直かなり動揺した。いくら暗い顔をしていたからと言って、いきなりそんなことを言い当てられるなんて夢にも思っていなかった。


「そんなビックリしなくてもいいでしょう? ハッキリと顔に書いてあるよ。特別にタダで見てあげるから手を出してみなさい」


 そう言って老婆が両手を机の上に乗せた。


「そんな分かりやすいですか……てか人のプライベートにズケズケと干渉するのは、いい趣味とは言えないですよ。間に合っているので失礼します」


 図星を突かれもちろん気にはなったが、どんな占いをされたところで俺の傷が癒えることはない。それに言い当てられたのがかんさわった。だから少し嫌味を言ってその場を離れた。


「確かにねぇ。でもそんな顔をした人を放っておくのも、とてもじゃないがいい趣味とは言えないねぇ。それに……」


 老婆が俺の後ろ姿に言葉を投げかけてきた。その妙な間が気になり俺は足を止める。


「それにもう一度大切な人に会えるとしたら?」


 この老婆今なんて言った? もう一度大切な人に会えるとしたら?
  馬鹿馬鹿しい。この世界はそんな都合よく作られちゃいない。


「はぁ? 馬鹿馬鹿しい。死んだ人間と会えるとかありえないですよ。からかうのはやめてください」


「もう一度聞くよ。会えるとしたらあんたはどうするんだい?」


「あ、会えるんですか?」


 わらにもすがる思いで、老婆に駆け寄った。


「あんた次第だけどねぇ」


「なんでもする! なんでもするからお願いします! 梨花にもう一度合わせてください」


「だったらまずそこに座って、手を出しなさい」


 言われるがままに手を出した。もう一度梨花に会えるのであれば、どんなことでもしようと思った。


 老婆はじっと俺の両手を見たまま
「あんた名前は?」と尋ねてきた。


佐藤俊介さとうしゅんすけです」


「会いたい人の名前と、その人にあんたはなんて呼ばれていたのかを教えなさい」


金子梨花かねこりかです。俊ちゃんて呼ばれていました」


 金子梨花。俺の大切な人。一週間前に事故で亡くなった俺の婚約者だ。
 梨花は車にかれそうになった小学生をかばい、仕事中に亡くなった。
 来月、挙式を控えていた俺達は幸せの真っ只中にいた。
 先に家を出る俺に、いつものように「行ってらっしゃい」と笑顔で手を振ってくれたのが、まさか最後のやりとりになるなんて……。
 正直未だに信じられない。今でも何食わぬ顔で、ひょっこり「俊ちゃんただいまぁ」って玄関のドアが開くんじゃないかと期待してしまう。そんなことはありえないのに。
 でもこの老婆によって梨花にもう一度会えるかもしれない……。
 鼓動が早まるのを感じた。




「そうかいそうかい。じゃあちょっと準備するから、そのまま少し待ってなさい」


 そう言って後ろを向き、何やら袋をガサゴソとあさっている。時間にして約二、三分。俺はじっと待った。


「じゃあ今から説明を始めるよ。いいかい、大事な注意点もあるから聞き逃すんじゃあないよ」


 老婆が机の上に四角いガラス瓶を置いた。中にはお香らしきものが入っている。


「説明をお願いします」


 俺は真剣な表情で老婆の目を見つめた。


「やることは簡単だよ。まず帰ったらこのお香をいてみなさい。それでおしまい。あんたは梨花って娘に会える。しかも会えるだけじゃあない。彼女とまた生活ができる」


 正直予想外だった。やることはお香を焚くだけだし、それに梨花に会えるだけじゃなく、また生活ができるなんて。


 だが当然それだけではない。老婆が説明を付け加える。
「ただし、彼女に【触れる】ことだけは絶対したらダメなんじゃよ。なにせあんたの記憶をもとにしてこの世界に存在させるんだからねぇ。触れてしまえば、あんたの記憶へとかえってしまうってわけさ」


「触れてはダメ……でも触れさえしなければいいんだろ? それで梨花とまた生活ができるなら、全然問題ない!」


「ほう。触れないというのはあんたが思っているよりずっと辛いことじゃよぉ。その覚悟はあるんだねぇ?」


 俺を試すような、老婆のねっとりとした声。触れられないということが辛いことくらい想像できる。だけど梨花のいないこの世界で生きていくことほど辛いものはない。
 迷いなんて全くなかった。


「大丈夫です。お香をください」


「そうかい……じゃあこれを。お金はいらんからねぇ」


 目の前に差し出されたお香を手に取る。そして一言。
「本当にありがとうございます!」と頭を深く下げて帰路についた。




 もう一度梨花に会える。そんな、はやる気持ちを抑えきれず、無意識のうちに駆け足でマンションを目指していた。
 ここ数日まともに外出すらしていなかった為、部屋の前に着いた時には息が上がっていて、俺は両膝に手をついた。
 一度、深呼吸をして息を整える。
 玄関のドアを開けると、当然だが朝のままの光景が目の前に広がる。そして少し嫌な臭いがした。


 カップ麺の空容器。
 飲みかけの炭酸飲料。
 投げっぱなしの洗濯物。


 掃除や洗濯は梨花がいつも担当してくれていた。だから梨花がいなくなってから部屋は汚くなるばかりだった。


「これは怒られるなぁ……お香を焚いたら少し片付けるか」


 独り言を呟き、リビングにある茶色い木目の座卓にお香をセットする。
 袋に入っていたマッチで早速、お香に火をつけた。


 幼少期の夏を思い出すような少し懐かしい線香の匂い。それでいて微かに香る木の匂いはとても幻想的で心を落ち着かせてくれた。


「少し掃除しないと、梨花におこ……ら……れ」


 強烈な眠気に襲われ、俺はそこで意識を失った。






♦︎♢♦︎♢


「……うーん」


 眠気に勝てず、まぶたを開けられないでいると何かを炒める香ばしい匂いが鼻を刺激した。そして聞き慣れた女性アーティストの曲が聞こえる。
 あぁ、これは梨花の大好きだったアーティストの曲だ。


 タッタッタッと忍び寄る足音。


「俊ちゃん! いつまで寝てんの!」


 懐かしい声に目を開ける。


「梨花……」


 目の前には朝日で照らされた梨花の姿があった。
 肩より少し短い茶色い髪。
 パッチリとした大きな目。
 少し丸い鼻。
 透き通るような白い肌。
 高くて伸びのある綺麗な声。




 ずっとずっと見たかった梨花の顔。
 ずっとずっと聞きたかった梨花の声。


 失ってしまった、見慣れた光景がそこにはあった。




「朝ごはん出来たよ! 早く顔洗って一緒に食べよっ!」


 たった一週間しか経っていないのに、この引っ張ってくれる感じがとても懐かしく、そして愛おしい。
 それにしてもあの老婆の言っていたことは本当だったんだな。もちろん信じてはいたが、正直【信じたかった・信じるしかなかった】というのが本音だ。


「あぁ。今洗ってくる」


 でも老婆の言っていたことが本当だった訳だから、梨花には絶対に触れてはいけない。そしてそれを梨花に伝えなくてはいけない。不意に触れられてしまえば、梨花は俺の記憶へとかえってしまう。一刻も早くそのリスクを無くしたい。


 顔を洗い終え、リビングに戻る。
「梨花! あのさぁ……大事な話があるんだ」


 俺の話を聞きながらも、動きを止めずテーブルの上に朝食を並べる。


「触っちゃダメなんでしょ?」


「えっ!? 知ってるのか?」


「当たり前でしょ! あたしは俊ちゃんの記憶を基にこの世界に存在しているんだから、俊ちゃんの記憶にあることは全部把握してるよ! あたしが死んだってこともね……」


 少し寂しそうな梨花の表情を見るのは辛かった。今すぐ抱きしめてあげたい……だけどできない。
 早速触れてはいけないという辛さを実感した。


「そっか……」


 情けなく言葉を詰まらせてしまった。


「でもさぁ、また一緒に暮らせるんだからそれ以上幸せなことはないよね! ということでまた今日から宜しくお願いします。さぁ冷めないうちに食べよ食べよ!」




 梨花が寂しそうな表情を見せたのは一瞬だけだった。すぐにいつもの明るい笑顔でおどけて見せた。






 驚くべきことに、それからはいつもの暮らしが本当に帰ってきた。
 梨花自身、実体があり物に触れることができたし、周りの人間からも梨花は見えていた。
 だから俺たちは普通に、近所のショッピングモールに車で出かけて買い物をしたり、外食をしたり。映画だって観たし、カラオケに行ったりもした。生きている時と全く変わらないデートを楽しんだ。
 触れないということ以外は、本当に何一つ不自由なく生活を送ることができた。




 そして何よりも驚いたのはふらっと俺の様子を見に来た母が、梨花と鉢合わせた時のことだった。


 母は梨花を見るなり開口一番に
「り、梨花ちゃんなのかい? もしかして今噂の占い師の人に呼び戻してもらったんかねぇ?」と言った。


 どうやら俺が知らないだけであの老婆は【死者を呼び戻せる占い師】としてネットやSNSで相当有名な人物だったらしい。
 だがそれも俺にとっては都合が良かった。再び梨花と生活を送るということに関して、周囲の人間に面倒くさい説明は必要としなかったし、堂々とできた。
 この世界の中心に再び存在できたような、そんな感覚だった。






 俺たちに普通の暮らしが戻ってきて、二週間ほど経った日の夜。
 借りていた洋画のDVDを二人で観ていた時だった。
 触れてはいけないという状況だったから、レンタルするDVDのジャンルにももちろん気を付けていた。恋愛映画なんて借りてしまったら、お互いに触れたくなってしまう。そう思うとお互いアクションやホラー、そしてコメディーなどを選ぶしかなかった。
 この日、観ていた映画も【超大作アクション】と紹介されており、恋愛要素は少なそうだった。
 だが、実際観てみると恋愛要素がこれでもかというほどに詰め込まれていた……。




「俊ちゃん……もう少し近くに座ってもいい?」


 梨花が甘えた声をだした。


「いいよ」と返して、梨花の方に近づく。1メートルあった二人の距離は30センチくらいまで縮まった。


「俊ちゃんに触れたいな……」


「俺だって梨花に触れたいよ」


「こんなに近くにいるのにすっごく遠い気がするの」


 ソワァーの上で体育座りをしながら、梨花はコップに入った氷を指で回した。


 カランカランと小気味よい音がする。


「ちょっと待ってて!」


 俺はキッチンからステンレス製のタンブラーを取り出した。そして梨花の隣で1分ほど両手でそれを温めた。


「はい」と言って、温めたタンブラーを梨花に渡す。


「はぁ……あったかぁい。俊ちゃんの手の温もりだぁ! 俊ちゃん。ありがとう」


 嬉しそうにタンブラーを頬に当てる梨花。


「こんなことしかしてあげられなくてごめんな。けど俺な、何があっても梨花と一緒にいたい」


「ううん! すっごく嬉しいよ。俊ちゃん大好き」


 首を横に振り、クシャッとした笑顔をこちらに向ける。
 ステンレス製のタンブラーに残る俺の手の温もりを、大事そうにしている梨花がたまらなく愛おしかった。
 抱きしめられたらどんなに幸せか……。
 触れられないことがこんなに辛いなんて知らなかった。予想以上だった。




「そろそろお風呂入ってくるね」


 梨花がタンブラーをテーブルの上に置いて立ち上がった。


「俺も一緒に入るー」


 高まった気持ちを抑えられなくなっていた俺は冗談交じりに甘えてみた。


「嫌だ! それはだぁめ!」


 梨花の反応は意外なものだった。一緒に風呂に入るのは別に始めてではなかったし、冗談交じりのお願いがここまで真剣な表情で断られるとは思ってもいなかった。


「そこまで拒否らなくてもいいじゃん! 梨花の裸見たい! ねるぞ!」


 拗ねるぞと言いながら、もう若干拗ねていた。


「嫌だよ! だって……轢かれた時の傷跡があるんだもん……俊ちゃんに汚いって思われたくない! 比べられてさぁ、ほかの人をいいなって思ったら嫌なんだよ……」と俯く梨花。




 俺はバカだ。さっきまであんなに幸せそうに笑っていた梨花をもうこんな顔にさせている。梨花の気持ちをもっと考えてあげるべきだった。


「ごめん……傷跡のこととか知らないのに無理言った。梨花のこと大事にしたいのに傷つけちゃったね。でも……それでも一緒に入りたい。傷跡があってもなくても梨花は綺麗だし、俺には梨花以上の人は絶対いない! 俺の知らない梨花の傷とか痛みとかも全て愛したい!」


 どんな言葉を並べたら上手く梨花に伝わるのかなんてわからない。たぶん理屈とかじゃないんだと思う。だから上手く言葉にできなくて伝えられない。
 梨花の全てを愛しているし、愛したい。それがたとえ梨花の命を奪った傷跡でも。
 伝えたいことはただそれだけだった。




「嫌いにならない?」


「なるわけないじゃん! 俺には梨花しかいないから」


「じゃあ……いいよ。体洗ったら呼ぶね」


「うん」


 浴室に向かう梨花のうしろ姿からは、恥ずかしさや緊張といった感情に混じって少し嬉しそうなのが感じ取れた。


 10分程経っただろうか。浴室から梨花が俺を呼んだ。
 高鳴った鼓動を落ち着かせ浴室に向かう。ガチャ、と浴室のドアを開けると湯船に浸かった梨花が胸を手で隠していた。


「ジロジロ見ないで……恥ずかしいよ」


「やばい。メッチャ可愛いしエロい」


「ばぁか」


 普段と違う濡れた髪、恥ずかしそうにする仕草や表情は凄く魅力的だった。
 そして何よりもお湯の中で、ぼんやり揺れながらあらわになる裸体に俺はそそられた。


「傷跡……見せて」


「明るすぎてやっぱり嫌だ! 暗くして」


「わかったよ」


 言われるがままに浴室の電気を消した。脱衣場の灯りのみでわずかに薄暗く照らされた浴室に、梨花の裸体が姿を現わす。
 依然として胸を手で隠す梨花。その腹部に痛々しい事故の傷跡が見えた。傷自体はしっかりと治っているものの、その傷跡はあの事故が如何いかに悲惨なものだったかを物語っていた。


 想像を絶する痛み。あるいは痛みを感じる間もなく命をおとしたのか……。
 どちらにせよ梨花の傷跡を見ると胸が激しく締め付けられた。


 守ってあげられなかった。
 そばにいてあげられなかった。
 何か少しでも時間がずれてさえいれば、梨花があの事故に巻き込まれることはなかった……。
 そんな後悔の念に駆られ、唇を噛み締めた。


「痛かったよな? 苦しかったよな? 怖かったよな? ごめんな一人で死なせて。そばにいてあげられなくて」


「あたしは大丈夫だよ……今こうやってまた俊ちゃんと一緒に生活出来てるし! それにあの小学生の子が助かったのが何よりだよ」


 死んでも尚、他人のことを気遣う梨花。
 俺が好きになった人は、世界で一番強くて優しくて可愛くて。そんな誇らしい女性。
 梨花自身が前を向いて、自分の死を受け入れているのだから、俺も肯定してあげなくてどうする。
 その傷跡は小さな命を守った勲章でもある。そう思ったら梨花の命を奪った、その痛々しい傷跡さえ愛おしく思えた。


「梨花……愛してるよ」


「あたしもだよ、俊ちゃん! てか勃ってるし……どんなタイミングだよ変態俊介」


 久々に見た梨花の裸に興奮しないわけがない。それに愛しいと思えば思うほど体は正直に反応した。


「好きなんだから勃つもんは勃つ! それにエロすぎる梨花が悪い! 完全に誘惑してるやん! ということで……お願い! 抜いてもいい?」


「ばぁか! まぁ、1分でだせるって言うなら考えてあげてもいいよ」


「マジ!? そんなん全然余裕! じゃあいっただっきまーす」


 全てをさらけ出した梨花。
 全てを受け入れた俺。
 前よりも深い所で繋がれた気がしたし、目を背けていた梨花の死も乗り越えられた気がした。
 そんな状況だから気付けば、性的なことですら冗談を交えやりとりをする、いつもの二人のテンションになっていた。


 そして俺の人生史上最速且つ、最高に愛に満ち溢れた自慰行為が一瞬にして幕を閉じた。






 それからも梨花との生活は当たり前のように続いた。
 もちろん触れられない辛さはあったものの、それが当たり前だと慣れてくれば、梨花との生活は幸せ以外のなにものでもなかった。
 そんな中、俺は1つサプライズを仕掛けることにした。




 三連休の初日、俺と梨花はいつものように朝の身支度を済ませる。


「ねぇ俊ちゃん。今日は何する〜?」


「三連休じゃん? 実は予約とってあるから、今から旅行に行こう!」


「えー!? 旅行? メッチャ嬉しい! てかどこいくの? 何するの?」


 旅行というワードに目を輝かせている梨花。喜び過ぎて次から次へと質問が止まらない。


「今回の旅行は……ジャジャジャーン。沖縄! シュノーケリングしたり、ゴーヤチャンプルとかソーキそば食べたり、色々しよう!」


 そう言って梨花に沖縄の観光ガイドブックを見せた。
 沖縄は生前梨花がずっと行きたがっていた場所の一つだ。


「沖縄!? やったぁ!!! 最高すぎるよ俊ちゃん! えーっと、あれもするでしょ。これもするでしょ」


「って訳だから、さぁ準備準備!」


 俺たちはすぐ、準備に取り掛かった。


 成田空港から飛行機に乗り約3時間。那覇空港に着くと、モワッとした空気の中に漂う独特の匂いが鼻に広がった。
 六月の午後三時ということもあり、とても暑い。


 レンタカーで初日はちゅら海水族館に向かい、彩り豊かな魚達に心を癒された。中でも全長八メートルを超えるジンベイザメの姿には圧倒されたし、深い青色の水槽を神秘的に泳ぐ様に心を奪われた。


 
 旅行自体もサプライズだったのだが、本当のサプライズは二日目に用意していた。
 この日、梨花にはシュノーケリングをすると言ってあったが、レンタカーで向かった場所は違った。


「俊ちゃん。ここ……は?」


 目の前に見える海辺の教会に戸惑う梨花。


「シュノーケリングってのは嘘。今回の旅行さぁ、本当はここに連れて来たかったんだ。結婚式まだしてなかったから」


「……ありがとう。ありがとう」


 梨花の目から溢れ落ちる涙。俺はそっとハンカチを渡し、教会の中にエスコートした。


 中に入ると担当の方から結婚式について一通り簡単に説明があった。
 そして俺と梨花は別々の控え室に案内された。
 グレーのタキシードに着替えを済ませ、梨花が来るのをソワソワしながら待つ。


 コンコンと軽くノックの音が二度鳴った。
 扉が開くとそこには純白のドレスに身を包んだ梨花の姿があった。


 可憐、華やか、繊細、あどけない、上品、どんな言葉をもってしても表現しきれない美しさ。
 前撮りの時に一度見ていたはずの梨花のドレス姿に見惚れてしまう。何度見ても世界で一番美しい。そう言い切れる。
 でも「世界で一番綺麗だよ」なんて言ったら、嘘くさく思われるし、こういう場で改めて言うのは、こっちもなんだか照れてしまう。


「どう……かな?」


 少し恥ずかしそうに梨花の頬が赤く染まる。


「すっごく似合ってる! 綺麗だよ」


「ありがとう」


 赤く染まった頬は更に色を濃くした。


 結局俺は、照れてしまい「世界で一番綺麗だよ」とは言えなかった。






 教会の大きな扉が開き、梨花と並んで一歩一歩ゆっくり足を前に進める。


 出会った時のこと。
 付き合った時のこと。
 デートした時のこと。
 喧嘩した時のこと。
 初めて一つになった時のこと。


 嬉しいことも悲しいことも、一歩ずつ思い出しながら歩いた。


 横に見える広い客席には、当然家族や友人の姿はない。
 これは二人だけの結婚式。




 壇上の前まで来ると、神父がニコリと優しく微笑みながら口を開いた。


「御結婚おめでとうございます。これより俊介さんと梨花さんの結婚式を執り行います」


 そして神父の進行に従い、誓いの言葉を交わし、指輪の交換をそれぞれ自分達で行った。


「それでは誓いのキスを」


 神父の言葉に梨花は戸惑っている。


「キスできないよね……」


「これなら出来るだろ?」と言って、ガラスの板を神父から受け取り梨花に見せた。


「俊ちゃん……」


 涙で梨花の大きな瞳がキラキラ輝いている。


「それでは誓いのキスを」と再度、神父がうながした。




 お互いにガラスの板を半分ずつ持ち、唇をつける。
 俺たちを隔てているのはたった一ミリのガラス。
 近いようで遠い一ミリ。だけどその距離は梨花が生き返ってから初めて近づく距離だった。




 ゆっくりと唇を離し、お互いに見つめ合う。


「俊ちゃん本当にありがとう。愛してるよ」


「俺も愛してる。喜んでもらえてよかった」


 この幸せが永遠に続けばいいと心の底から願った。
 だけど……。


「はぁ、幸せだなぁ……あのさぁ俊ちゃんに一つだけお願いがあるの。聞いてくれる?」


 幸せそうに笑いながらも、何かを諦めているようなそんな寂しそうな表情を梨花はしていた。


「何? 俺に出来ることなら」


「キスして」


「キス? キスなら今しただろ?」


「違くて。ガラス無しでキスしてほしいの! 抱きしめてほしいの!」


「いや、ちょっとまって! 触れたら梨花は消えて、俺の記憶にかえってしまうんだよ!?」


「分かってる! 分かってるよ。でももうあまり時間がないの!」


 そう言ってドレスの裾を少しまくると梨花の足は透明になりかけていた。


 嘘だろ? 触れていないのに?


「なんで? 俺たち触れてないだろ!」


「仕方ないの。最初からこうなるって分かってたから……お願い! 人生で一番幸せな今、俊ちゃんに触れて俊ちゃんのところにかえりたいの! わがまま言ってるのはわかるけどお願い」


「嫌だ! 絶対に嫌だ! 梨花のいない世界で俺が生きる意味なんてない!」


 言葉とは裏腹に、笑顔のまま涙を流している梨花を見ると体は勝手に動いた。




 ゆっくりと右手の親指で梨花の涙を拭う。
 そして梨花のおでこに自分のおでこを軽く当てる。
 数秒の沈黙。


「梨花、愛してる。俺と出逢ってくれて、付き合ってくれて本当にありがとな。ずっとずっと一緒だ」


「うん……」 


 触れた梨花の頬は温かく、重ねた唇はすごく柔らかかった。
 抱きしめた腕の中で梨花の体が少しずつ透明になっていく。
 それと同時に何か温かいものが俺を包み、頭の中に流れ込んで来る。
 不思議な感覚だが、それが凄く心地よくて、『生きて』と梨花に背中を押されているような気がした。


 十秒も経たずに、完全に梨花の姿は消え、俺の記憶へと戻ってきた。


「おかえり」と独り言を呟いて、俺の意識は遠のいた。







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