唯一不変の切札

白結 陽

第六章 ユズリとユシュ

 足まですっぽりと包むローブを着た小さな人影が、人気の少ない道を走り抜ける。口からは荒い息が漏れ、何度も振り返っているとフードが外れそうになる。いかにも怪しい風貌。しかし稀にすれ違う人の誰もが、仮にぶつかったとしても、道端に生えた雑草のであるかのごとく気にも留めない。
 しかしそれは相手が一般人の話。その子は布の隙間からわずかに覗くボロボロの靴で、懸命に彼らから逃げている。
 鬼羅――そう名乗る組織から。
 近づいてくる強力な気配。寄せ集めの戦闘員ではない。高い潜在能力を持ちながら厳しい鍛錬を積み、なにより組織の目的に賛同している正規の戦士だ。実力はもちろん、意志の強さも非正規の者とは比較にならない。
 執拗に追われる日々、それがどれだけ続いているだろう。休める時などほとんどない、世界を股にかけた少女の逃走劇を知っているのは当事者だけだ。
 今の追手は二人、竜と鬼の憑装者だ。竜と言ってもよくある量産型ではなく、使い手に合わせて作られた特別製――角を持った白竜の霊素体である。鬼は悪魔にも見える風貌で禍々しい褐色の肌、筋肉質の肉体――これも特別製だ。つまり彼らは鬼羅のエース格、聖霊騎士団での粋と同じような立ち位置の人間だ。
 少女は廃ビル同士の狭間に駆け込み、廃棄物の陰に身を潜めた。五分くらいは時間が稼げるだろう。
『……ユズリ、大丈夫?』
 少女の胸元から声が聞こえる。物静かながら優しさを含んだ声だ。フードを下ろした少女は長く鮮やかな緑髪で、尖った耳と金の眼を持っている。十二歳、学校に通っていれば中学生になっているはずのユズリは同年齢の平均よりも小柄で、幼いながら整った顔立ちだ。
少女はローブの中から、か細い手でネックレス――小瓶の中に土と双葉が入ったものを取り出し、それと対話を始めた。
「うん。心配しないで、ユシュ」
 台詞とは反対に、ひどく疲れ切った様子だ。
『……顔、怪我してる』
「えっ?」
 ほとんど無意識に痛みを感じているのか、なんとなしに頬を撫でるとパックリ皮膚が切れている感触があり、指には血液が付着した。普通の人と何も変わらない、赤色の血だ。
 双葉が淡い光を発した。
『動かないで。今、治してあげる』
「これくらい大丈夫だよ」
 ユシュは特別な霊素体だ。小瓶の中にある双葉が本体であり、物質と霊素の性能を併せ持っている。その霊素の一部がユズリに流れ込んでおり、常に半分憑装したような状態だ。それが彼女達の関係であり、片方が死ねばもう片方も死ぬほど深く結びついてしまっている。まさに一蓮托生の間柄だ。
 通常の憑装も可能で、高い戦闘力と治癒能力も備えた強力な霊素体ではあるが、万能とはなかなか無いもので、ユシュには虚弱という弱点があった。ゆえに優秀な能力は一部を一時しか発揮できない。
 刺客を返り討ちにできる実力がありながら逃げ回っているのは、そういうわけだ。また、ユズリが治癒を遠慮した理由も。
 少女は労わるような表情で言う。
「無理はしないで、ユシュ」
『……治さないとダメ』
 ユズリは少し驚いた。
 彼女は普通の人間として生を受けた。そんな少女が組織的に狙われるのは、ユシュの存在があってのものだ。そんな負い目もあって、基本的にユシュはユズリに背かない。こうして意見を押し通すことは珍しいのだ。
「どうして?」
『探している人に、その顔で会いたくないでしょ?』
 ユズリはほんのり顔を赤らめた。
「それは――うん」
『だから私に任せて。切り傷ひとつなら負担じゃない』
 双葉が発した淡い光がユズリの頬に移って覆い包むと、あっという間に傷口がふさがる。
「ありがと、ユシュ」
 壁に背中を預けて座りながら、少女達はわずかな休息に身を委ねた。もうすぐ八月が終わる頃、まだ夏の暑さが汗を湧かせて体力を奪う。ビルの間から見える狭い青空を仰ぎながら、ユズリは呟いた。
「……どこにいるのかな」
『探し方が悪いのかも』
「そうだよね。あの人達が本当のことを言っているとは限らないし」
 たまに彼女達は鬼羅の刺客を相手にする。そうして倒した敵から探している人物の情報を聞き出すのだ。どういうわけか鬼羅では有名な人物らしく、正規の戦闘員はその行方を知っていることが多い。
 彼らとしても教えた方が、ただ逃げられるよりもユズリの居場所を把握しやすい。
 真偽を疑いつつも他に手掛かりのないユズリは八年も鬼羅の言葉に乗せられ、世界中を巡り巡ってきた。そして先日、日本に戻ってきたわけだが……。
「はやく会いたいなぁ」
 希望に瞳を輝かせる少女に、ユシュは言えないでいた。再会だけを糧として生きてきた少女に「その人はもう死んでいるかもしれない」などと、言えるものか。どんな窮地でも耐え抜いて、こうして活きた顔をできるのも、全てはその希望のおかげなのだ。
 ユズリは命の恩人に関しての記憶しかないが、ユシュはあの時の状況もよく覚えている。とても助かるようには思えず、少年も死ぬ覚悟が整った顔をしていた。当時ユズリが幼すぎたために一時の憑装もできなかった、そのことが悔やまれる。
もしもユズリの体が憑装に耐えられるほど安定していたら、あるいはそれをカバーできるほどユシュに力があれば――あの家族くらいは助けられたかもしれない。
『ユズリ、残念だけど……』
「えっ?」
『……もう休憩は終わりみたい』
 ユシュは敵の気配を感じ取った。白竜と鬼のタッグは海外でも何度か手を合わせており、その強さはよく知っている。虚弱という制限、憑装者ユズリの未熟さ、それらを抱えて討ち倒せる相手ではない。
 二度、瀕死の重傷を負わされたコンビだ。逃げる以外の選択肢はない。
『もう少し休ませてあげたいけど』
「ううん。頑張るよ、わたし」
 小瓶を両手で包み込むように気合を伝える。
『気をつけて。いざという時は……』
「うん、憑装おねがいね」
 ローブの中にユシュを戻し、再びフードで頭をすっぽり覆う。背丈や服装ですぐに正体を見抜かれるが、目立つ頭を隠すだけでも気休めにはなる。
 ユズリは鬼羅の二人に見つからないよう、静かに素早く移動を始めた。

 ユズリはこの八年の経験で逃亡には慣れている。事実として鬼羅と接触するのは、一般人への襲撃にまんまとおびき出される時がほとんどだ。そんな彼女でも白竜の憑装者は振り切れなかった。
 鋭い勘と高い捜査能力で居場所を特定され、鬼との協力で逃走経路を暗に誘導する。そうしてユズリが辿り着かされたのは、先ほど背にしていた廃ビルの地下だった。
 地下の一階は駐車場として使われていたらしい。広々としたアスファルトばかりの室内は、冷たい空気で満ちている。上の階へ繋がる階段から一つ、路上へ直接つづいている出入り口からも一つ、足音が聞こえてくる。
 もう居場所は確定している。ユズリはせめてもの悪あがきとして、いくつかある柱の一つを選んで、陰に飛び込んだ。小さな胸が大きな鼓動を鳴らす。少なくとも一戦は覚悟しなくてはならない。彼らの力を考慮すれば、死の可能性すらある。
 不意打ちで一発たたきこみ、その隙に逃げるのが得策か――ユシュは考える。しかしこれは何度か使った手だ。そして上手くいったのは最初の一度だけ……。正面突破が無謀なのは明らかだ。
「ねえ、ユシュ」
『なに?』
 二人は声を潜めて話す。
「逃げるなら天井をつきやぶったらどうかな。この建物、使っていないみたいだし」
『上に逃げるってこと?』
 ユズリはこくりと頷く。追手が地下に向かってきている今、その手は有効かもしれない。
『……それなら私の力で足止めもできる』
 方針を固め、憑装をしようとした時だ。刺客の足音がピタリと止まった。
「もう鬼ごっこは止めにしようか」
 嫌味な声色、気だるそうな口調。これだけの言葉に性格の悪さが滲み出ている。
 当然ユズリ達は何も答えない。
「君ももうそんな歳じゃないだろう、小さなユズリちゃん……いや、千石ユズリ」
 柱を背にしたユズリからは声だけが聞こえる。しかし脳裏には彼らの姿が容易に浮かんでくる。どちらも顔立ちの整った輩である。多弁な方は線が細くメガネをかけた中性的な男で、白竜を相棒にしている。もう一人はやや筋肉質で男らしい風貌、鬼を従え鬼人と化す。向こうはユズリの名を知っているらしいが、こちらは知らない。
「そう、まだまだ子供ではあるが、そろそろ分別のつく年頃だ。だから今日は話し合いをしようと思うんだ」
 白竜の男は、なおも意地悪く言葉を続ける。話し合い――それを聞き、ユズリは憑装を取りやめた。
「話し合い……」
『ユズリ、耳を貸しちゃダメ』
「ううん。逃げるのは聞いてからでも遅くないよ」
 まともな話し合いなら多少は価値もあるだろうに、相手が白竜の憑装者では試みる必要すらない。少なくともユシュはそう思っている。色々な鬼羅の戦闘員を見てきた中でも、これほど油断できない者はいない。
「いいよ。お話、聞いてあげる」
 ユズリは身を隠したまま返事をした。
「いい加減、飽き飽きなんだよ。何年間、ユズリ……君を追って世界を回らされていると思っているんだ?」
 遠慮の欠片もなく冷たい言葉が飛んでくる。あまりに自分勝手な物言いに、ユズリはムッとした。飽きたならば放っておいて欲しいものだ。
「わたしには会いたい人がいるの。邪魔しないで!」
 言いたい文句は尽きず、全ては言えない。だからユズリは一番強い気持ちを言葉にした。今のユズリにはそれだけでいい。それだけが叶えたいことであり、希望なのだ。
「勝手だな。そんなワガママのために周りを巻き込むのか。君の捜索でどれだけの人間が傷つき、死んだと思っている」
「そんなの、わたしのせいじゃない。あなた達が悪いんだもん!」
 ユズリが声を荒げると、男は冷酷な笑みを浮かべた。
「いいや、悪いのは君だ。君が悪い。君が逃げるから我々は追う。君が隠れるから、あぶり出すために我々は人を襲う。君が素直について来さえすれば、誰も傷つかずに済むのに」
 まるで何人もの人間に責められているかのような威圧感が、少女に迫る。暴論だが、理がないわけでもないのが悪質だ。
「……わたしが、悪いの……?」
「わかっているだろう? 願いを叶えようとするほど、犠牲者が増えていく。たとえ君に悪意がなくとも、悪ではなくとも。正義がどちらにあるかは関係ない。君が逃げることで周囲が傷つく現実は変わらない」
 ユズリはすっかり黙り込んでしまった。男の言葉が頭を支配し、ぐるぐる巡る思考を徐々に染めていく。
 もう限界だ。やはりユシュは力づくでも会話を止めるべきだった。まともな教育も受けていないユズリと成人男性が口論すれば、丸めこまれるのは当り前なのだから。
 この短時間でユズリの目は輝きを失い、泣きそうな顔へと変わってしまった。
「わたしが、悪いのかな……」
『ユズリ、もう行こう。やっぱり話を聞く必要なんてなかった』
「でも、わたしが逃げたら……」
『しっかりして。そう思わせることが敵の狙いだから』
 少女の意気消沈を悟り、鬼羅は歩を再開した。ユズリが隠れている柱に、どんどん近づいてくる。このままでは、ユズリは捕まってしまうだろう。
『ユズリ、今は何も考えないで』
 動揺が混乱を誘い、判断力を著しく低下させている。ならばいっそ、心を空にしてしまうのも一つの手だ。
「でも……」
『今は逃げよう。私に任せて』
 ユシュは強制的に憑装し、意識の支配率を高める。精神力が尽きかけている今のユズリでは共闘しても足手まといになるだけだ。
 拳を作っては開いて……ユシュは何度かそんな動きを繰り返す。調子を確かめる時によくやる動作だ。ユシュは虚弱ゆえに憑装できる時間には制限があり、その日その時で毎回期限が変わってくる。
今回のタイムリミットは五分ほどか。あまり長くはない。
 ユシュは自分の抜け殻――双葉が入った瓶をローブに収めた。自分を見下ろし、服にしまうというのは、何度やっても奇妙なものだ。
「さあ、ユズリ。くだらない希望は捨てて、共に来るんだ。どうせ願いなんて叶わない」
 あと三メートルほどというところまで来た時、ユシュは柱を垂直に駆けあがって天井を蹴り飛ばした。人外の力が加わり、轟音とともに大穴が空く。
「くだらなくなんてない。きっと願いだって叶う」
 鬼羅たちは素早く白竜と鬼の力を纏う。腕と脚が変化するくらいの支配率だ。天井を砕いて落ちてきたユシュを取り押さえようという腹だろう。そして白竜の動きは異常に速く、ユシュの足が地につく前に、すでに接触しようとしていた。
「……ユシュか。君は知っているはずだろう。今のこの世界に、君の犠牲以上の希望などないことを!」
「この子の邪魔はさせない。この子は死なせない!」
 突如、大量の植物がアスファルトを突き破って生えてきた。何本もの蔦や根が、力強く男達の足に巻きつく。植物操作……霊素体ユシュの能力の一つだ。
 着地すると、もう一度、柱を駆けあがって穴から脱出する。
「逃がすか!」
 振られた爪の衝撃波をどうにか避け、ユシュは猛スピードでその場から離れて行った。
「…………」
 白竜人は溜息を吐き、懐からナイフを取り出して植物を薙ぎ払う。鬼人は剛腕で強引に引き千切った。
「最近、あまり協力的ではないな。どういうつもりだ?」
 白竜人は意識を高め、変化した腕を人間体に戻しながら鬼人に問う。
「……お前のやり方は気に食わない」
「そんなことを言っている暇はないだろう」
「むしろ俺には、捕らえるには早すぎると思えるのだがな」
 力強く熱い鬼人の目と、メガネの奥に光る冷たい目がぶつかり合う。
「――わかったよ。君は本部に戻れ。あとは一人でやる」
「個人行動は規則違反だ」
「ユズリ捕獲の命に背いている君が言えることじゃないな」
 白竜人は軽々とユシュが開けた大穴を飛び抜け、地上に出た。獲物の行く先など調べる必要もない。
使い捨ての駒に暴れさせれば良いのだ。
 彼女達は元から一般人への襲撃を放っておけない性格だ。加えて先に散々と責めたことで義務感も増していることだろう。力を無駄遣いできないながらも憑装し、必死に逃げた後であったとしても、必ず止めに現れる。

 高い建物の屋上を跳ね回り、充分な距離が取れたところでユシュは地上に降り立った。憑装してから三分、まだ限界まで時間はありそうだが、そろそろ辛くなってきた。
「……もう大丈夫、かな」
 ユシュは憑装を解き、ユズリに体の主導権を返した。
 先の廃ビルからは遠く離れ、繁華街をまるまる横切って住宅街に来ている。
二車線の車道を走る車の運転手も、たまに横を通り抜ける歩行者も、誰一人として立ちつくしているみすぼらしい姿の少女に声を掛けることはない。視界にすら入らない、というよりは認識できない――強い霊素体にはそんな特徴がある。
その力は追われにくく逃亡しやすいという利益をもたらしており、憎めるものではない。しかし常に軽い憑装状態にあるユズリは、たとえ道の往来で涙を堪えていようと気にも留められないのだ。
それなりの力量を持つ霊素体と憑装すれば、ユズリを認識できるようにはなる。だが憑装を行う者など限られている。ゆえにユズリを認識してくれるというのは、ユニオン型を従えた鬼羅くらいのものだった。
「…………」
 必死に抗っていたユズリの金の眼から、ついに透き通った涙がこぼれ落ちる。
『ユズリ、惑わされないで。悪いのは向こう』
「……でも、あの人が言ったのは本当のことだよね。わたしが逃げるから、みんな傷ついちゃうんだ」
 これまで巻き込まれた人達の姿でも思い出しているのだろう。ユズリは心底、辛そうな表情をしている。自分の境遇で、こんな顔をしたことは一度だってありはしない。今、ユズリを苦しめているのは、自分を認識できない人達への純粋な思いやりだ。
 親のような立場でもあるユシュは、よく彼女はまともに育ってくれたものだと思う。どんな過酷にも耐え、自棄になることもなく優しい心を持ち続けている。口下手で、教育どころか人間のことすら満足に知らない霊素体の下で。
「……ここにいちゃ、いけないよね」
 どこもかしこも民家ばかりが建ち並んでいる平和な通りだ。憑装者の戦いに巻き込むわけにはいかない、とユズリは考えたのだ。
ところがそれは大きな間違いだ。
『むしろ、ここにいないとダメ』
「どうして?」
『どうしても』
 あの話を聞いた後だ。彼らがユズリをあぶり出そうと街に刺客を放つのは目に見えている。
 人々を助けるためには、戦うしかない。それが相手の狙い通りであったとしても、ユズリが心に傷を負うよりはマシだ。
 まるで詰将棋のようだ。退路を断たれ封じられ、じわじわと追い詰められていく。思えば廃ビルに追い込まれた時も、物理的にそういう手段を取られていた。
 相手は策士だ。逃げ続けることが難しいのなら、そろそろ覚悟を決めなければならないのかもしれない。執拗に追い、立ちふさがってくるのなら、なぎ倒してしまえばいい。
「あっ!」
 ユズリが声を上げる。その目線の先には立ち上る噴煙があり、その元には燃え上がる家屋があった。こうして目で見て、ようやくユズリにも鬼羅の狙いが理解できた。
「これ以上、わたしのせいで誰かに傷ついて欲しくないよ。力を貸して、ユシュ」
『……うん、大丈夫。あなたの命も夢も、どんな望みだって守ってみせるから』
 光に包まれて、温かな力がユズリの胸から全身に広がっていく。体中に、指の先にまで力が駆け巡る。ユズリに生まれる万能感、安心感。
 彼女達は一体となって走り出した。悲鳴が響く方へと。
 途中、児童公園が横目に見えた。今まで遊んでいただろう子供たちは怯え顔で、逃げることもできずに立ちつくしていた。中には制服を着た、ユズリくらいの歳の子もいる。
 避難を誘導する暇はない。それ以前に、認識されない彼女達ではその手立てもない。ならば先に脅威を殲滅するまでのこと。ユズリは脚に更なる力を込めた。

 夜の闇に突如、静寂を引き裂いて絶叫が響き渡る。まるで断末魔の叫び声。粋は深い眠りから急浮上し、眼を最大限に開いた。かと思うと、もう廊下に飛び出している。
 この世でもっとも聞きたくない悲鳴だった。
 急ぐ最中でもしっかりと日本刀を手にし、一直線に駆け抜ける。一般よりも広い久遠寺邸だが、憑装した粋にとってはかなり手狭である。
 声は一階から聞こえた。粋が泊めてもらった二階の空き部屋からは離れているが、そこへ辿り着くのに時間はそう掛からない。
 数時間前、夕凪が寝ると言って入っていった部屋の前に、こそりと動く人影があった。それが誰なのかは闇に包まれていてわからない。しかしどうやら夕凪ではないらしい。その人物の挙動を見て、それだけは判断できた。
 ならば、そいつは――。
「キサマかァ!」
 銀の刃で闇ごとその人物を斬り裂こうと抜刀する。
「わぁっ! 待ったッス、待ってくださいッス、俺じゃねぇッスよ!」
 ヘタレた声を聞き、首の皮に触れるか触れないかのところで粋は刀をピタリと止めた。相手が安堵する間も与えずに詰め寄る。
「竹中さん、そこをどいて」
「……そ、それはできねぇッス」
 竹中はいかつい顔には似合わない淡い色の可愛らしいパジャマ姿で、首元の刃を意識して全身をガクガク震わせながらも、懸命に両手で粋の行く手を阻んでいた。
「ゆ、夕凪さんなら無事ッス。心配いらないッス」
「あの声を聞いたでしょ。ただ事じゃない」
 今も中から苦痛に耐えるような声がしている。ということは生きてはいるらしい。しかし今にも息絶えそうな喘ぎ声だ。
「まだ苦しんでる。……そこを退かないなら、斬る!」
「退かねぇッスよ。例え斬られたとしても!」
 突然集められた非正規の戦闘員、竹中は――ただの一般人だ。そんな人間が百戦錬磨の粋から放たれる殺気にも耐え、あれだけ惜しんでいた自らの命をも捨てる覚悟で立っている。それほどの決意は、一体どこから来ている――?
「……どういうこと?」
 粋は刀を収めた。まだ柄には手がかかっている。
「昨日と一昨日も同じように叫んでいたんスよ。だから夕凪さんは、きっと毎晩……」
 毎晩、あの死にそうな叫び声をあげているというのか。
「なんで、何が原因なのさ!」
 思わず粋の口調が荒くなる。
「多分、悪夢にうなされてるんスよ。俺も初日は驚いて部屋に突入したんスけど、ケロッとして『ちょっと悪い夢を見た』とか言ってたんで。……ただの悪夢であそこまで叫ぶもんなんスかね」
 粋は夕凪の境遇を思い返した。目の前で両親や兄が怪物に惨殺され、自身も重傷を負わされたという。その時のトラウマならば、ただの悪夢を越えた地獄の夢の一つや二つを見せても不思議はないのかもしれない。
「でもそれ以上は何を聞いても微笑むばかりで……あまり触れて欲しくないみたいッス。だからいくらアンタでも、ここを通すわけにはいかねぇんスよ」
「……わかった」
 粋は柄から手を離す。そこへ寝ぼけた半目の吉田が、よだれを拭きながらやってくる。
「にゃんのしゃわぎ……?」
「うっさい、寝てろ」
 竹中が事情を説明しにいくと同時に、粋はその場を後にした。そしてふと思う。もしかしてあの日からずっとうなされているのだろうか。というかそれ以前に、確かにトラウマを抱えるには充分すぎる事件だったらしいが、あのお気楽が何年も悪夢に縛られるだろうか。
 粋には、あの苦しみが悪夢によるものとは思えなかった。嫌な予感がする。ただの思い過ごしであれば良いのだが……。

 翌日の朝、夕凪は何事もなかったかのようにアホ面で起きてきた。ごくごく普通に朝食の席へと着き、平和そうに竹中が作った飯を口に運んだ。粋が夕凪や竹中、吉田と笑い合いながら過ごした朝の時間は、心安らげるものだった。
 粋は玄関で靴を履き、トントンとつま先を鳴らす。いつもの癖髪が、寝ぐせで更なる進化を遂げている。
「じゃ、僕は学校に行ってくるから」
「そっか。いってらっしゃい」
 夕凪が笑顔で手を振り、吉田もぎこちない笑みでそれに倣う。
「いってらっしゃいッス。晩ごはんの用意もあるんで、何時くらいに帰ってくるか教えてもらえないッスか?」
「んー、今日の放課後は聖霊騎士団に行って、この状況をどうにかこうにか隠して来なきゃいけないし、任務もあるし……」
 ここまで言って、ハッとする。
「――って、いやいや。その前に今日は自分の家に帰るから。今回はアンタらの監視と今後の相談のために泊まっただけだから」
 あまりに居心地が良く、雰囲気に呑まれかけていた。
「え、そうなの? 今日はみんなのためにケーキとか買ってこようと思ってたのになー」
 チラ、チラと夕凪が視線を送ってくる。
「……それで釣られると思ってんの?」
「……釣られないの?」
「釣られないね。んじゃ、そういうことで」
 夕凪と吉田がブーブーと文句を垂れる中、竹中が声を上げる。
「ちょっと待つッス。はいこれ、弁当ッス!」
 布で丁寧に包まれた弁当箱を差し出されると、粋の顔が引きつった。
「……ここまでされると、さすがにキショイ」
「ええっ?」
 一層ブーイングが強くなったけれども、粋は何も気にせず出発した。
「夕凪さん、吉田さん。俺……俺ってキショイんスか?」
「照れてるだけさ、きっと。あいつはほら、シャイだから」
「そ、そうなんだぜ。お前は悪くない、悪くないんだ!」

「……まあ、ざっとこんな感じ」
 放課後、粋はその後の経過を瑞音に話していた。授業が終わるまで話さなかったのは、携帯端末での報告は面倒くさ……もとい、情報の漏えいを防ぐために控え、瑞音が珍しく遅刻してきたためだ。
 遅刻の理由は、朝に瑞音の管轄で霊素体が出没したとか。核を持たない野生のナチュラルだったため、駆除であろうと捕獲であろうとエース格の出る幕ではなかったのだが、目の良い瑞音は捜索に借り出された。
「あ、これ上には内緒ね」
「えー、どうしよっかなー?」
 瑞音は悪戯っぽく笑った。
「そういうの要らないから」
「……ちょっとは乗ってよね、もう」
 ぷくっと彼女の頬が膨らむ。
「で、あたしは粋に口裏を合わせて嘘を言って、正義の組織に対して事実を隠蔽するのに協力すればいいわけだ」
「そう。理解が速くて助かるよ」
「皮肉もスルー……粋、つまんない」
 粋は残暑だろうと非難されようと涼しい顔をしている。冬と同様で制服の上着まで着ているというのに。身長以外はまったく可愛げがない。
「でも許せないよね。みんなで寄ってたかって小さい子を追い回すなんて!」
「まあそうだけど、僕としてはその理由が気になるところだよ。ただの女の子がそこまで狙われるなんて、ありえないからね」
 チッチッチと指が振られる。
「わからないよ。全員が変態の組織なら、あるいは……」
「なるほど、一理ある」
 繁華街に来たあたりで、瑞音は目ざとくオープンしたてのクレープ屋を発見した。
「あれはっ! ベリーベリーベリーミックス……ブルーベリーとストロベリーをベリーマッチ使っている、だって……? なんたる超盛り、なんたる豪華さ。ちょっと買ってくる」
 走り出そうとして急停止する。
「粋は?」
「買ってくれんの?」
 タダなら喜んで食べますが、と言った感情を露骨に表す。
「なんでっ! 自分の分は自分で出してよ!」
「いいじゃん。稼いでるでしょ、紫電の魔槍さん」
「そのまま返すよ、天馬の刃! 月収そっちの方がちょっと上でしょ?」
 給料の違いは地区と勤続。粋の方が広く重要な管轄で、所属年数も一年ほど長い。そのせいで二人の月収には三万円ほどの差があった。
「べつに奢って欲しいとは言わないけどさ、そんなにケチじゃ女の子にモテないよ」
「……なんでそこに飛ぶの、話題」
「笹巻さんとか見習ったら? あの人けっこう人気あるんだよ、本人に自覚ないけど」
「どうでもいいよ、極めて」
 なんかもう面倒くさくなって、粋はベリーベリーベリーミックスとやらを奢ってやることで黙らせた。品名こそ大仰ではあるものの実際ベリーは二種類で、クレープ自体がそんなに盛れる食べ物ではない。これで八〇〇円……言い知れぬ敗北感に襲われた。
「美味しい!」
「そうなんだ、おめでとう」
 粋は店員と瑞音のタッグに押し切られて、チョコバナナ・イチゴクリームスペシャルなどという同じく八〇〇円のブツを買わされた。
「粋のも一口ちょうだい」
「べつに全部あげてもいいよ」
「それはダメ! ……っちゃうでしょ?」
 クレープを差し出す粋に、瑞音は少しむくれて言った。
「はぁ? なんて?」
「だから、その……もう、バカっ!」
 半ば怒りながら、粋のクレープを一口かじった。
「……なんなのさ、一体」
 どうせ太るだとかそんなところなのだろうと、粋にも推測は容易だ。ただ、それならば食べた分だけ運動するなり最初から食べないなり、どうとでもなるだろうに。そもそも聖霊騎士団として訓練を受けて任務につく瑞音ならば、少しくらい食べ過ぎたところで普段以上の努力など不要なはずだ。
 考えてもわからないので、粋は気にしないことにした。
「さて、今日は色々と言い訳しないといけないし、ちょいと急ごうか」
 本部へは夕凪の独断行動について「現時点で問題はないから後で詳しく伝える」とだけ連絡してある。粋への信頼や夕凪の実績もあり、目を瞑ってもらっている状態だ。急ぐに越したことはない。
 粋は一口分が欠けたクレープを雑に口へと押し込んだ。かなり強引に突っ込んだせいで、頬がはちきれんばかりに膨らんでいる。もはや租借が難しく、逆に時間がかかりそうだ。
「……もっと味わって食べなよー」
 瑞音は一口ずつを大切に、舌で転がすように食べ、ふわふわな甘みと爽やかな酸味にうっとりしていた。

 本部に来てみると夕凪の姿はなかった。粋はホッと胸を撫で下ろす。一応くぎは刺してきたけれど、それでも夕凪ならばいつも通り出勤するのではないか、そんな不安があった。それどころか竹中や吉田まで連れてくる可能性すら否定できない。とはいえ、さすがにそこまでの暴挙には出なかったようだ。
 さて、どうも本部が騒がしい。慌ただしく職員や戦闘員が動きまわっている。ここ最近は夕凪の起用で平穏そのものだったから、余計にそう思えるのかもしれない。
「どうしたの?」
 手近にいた沢峰を捕まえて尋ねる。
「来ましたか、お二人とも。実は先ほど、強力な憑装の波動をいくつか捕捉しまして。反応はすぐに消えましたが、引き続き警戒を続けているところです」
 遠くのモニターを見るに、どうやら粋の管轄地域ではないようだ。
「それと、怪しい人物が本部まで乗り込んで来まして。『かぐや姫』と名乗る……」
「なにそれ」
「強面の若い男が、女性用の着物と羽衣を身に着けて……」
 名前だけでも意味がわからないのに、男と聞いて唖然とした。ただの変態じゃないか。
「これを天馬の刃にと……」
 淡い桃色の手紙が差し出された。宛名にはどう見ても無理して書いた丸文字で「天馬の刃さまへ」などとあり、裏はハートのシールで封がされている。
「…………」
「なにこれ! ラブレター?」
 瑞音が興奮気味に身を乗り出す。
「違うでしょ。ていうか男かららしいし」
「あ、そっか。……でも男だからって、あり得ない話じゃないよね」
「ねーよ」
 封筒をビリビリと破り捨てて中身を取り出す粋を横目に、瑞音は沢峰に尋ねる。
「ところで、その不審者はどうして本部のことを知っていたのかな」
「わかりません」
「ていうかココまで来たの?」
「いえ、受付の子が門前払いしたそうです。私がその場にいればそんな危険人物、捕らえて拘束していますよ」
 危険なのは趣味嗜好ではなく、本部の場所など情報を握っているという点だ。
「だよねぇ。受付は一般業務の方が担当しているけど、一人くらいこっちから回した方がいいのかな」
「そうですね。提案しておきましょう」
 などという会話に耳半分を貸しながら手紙に目を落とした粋は、一行目で呆れ果てた。
「粋、何が書いてあるの?」
「読んでもいいよ」
 瑞音がひょっこり覗き込み、音読を試みると、さっそく目に入った横文字に頭を悩ませた。
「えっと……天馬の刃へ。こちら、エ、エターナル……タンプル?」
「テンプルじゃないかな。つづり間違えてるけど」
 この滲み出る間抜け臭をヒントに推測すると、エターナルテンプルは久遠寺ってことなのだろう。そうすると手紙を持ってきた「かぐや姫」というのは……なるほど、竹の中にいたということで竹中か。強面の若い男と言っていたし、まず間違いない。
 あまりに稚拙な暗号で頭が痛くなりそうだ。
「目標の手掛かりを察知した。すぐ捜索に入るから今日はそっちの仕事を手伝えない。家にかぐや姫とよしりんを残しておくから遊びに来てもいいよ、俺いないけど。……なにこれ」
「よしりん……一人だけ偽名が雑だなぁ。どうせネタ切れなんだろうけど」
 などと言いつつ、粋は頭を働かせる。他人に読まれることを警戒して、肝心な部分の詳細は書かれていない。目標……おそらく緑髪の少女のことだ。ならば察知とは……。
「まさか……」
 粋は手紙をポケットに突っ込み、モニターに駆け寄った。丁度その時だ。街の各地で一斉に憑装の反応が表れた。本部内にやかましいほどアラートが鳴り響く。
「なに、この数……!」
 今まで見たこともない数で、モニターには気持ち悪いほど反応を示すマークが浮かび上がっている。しかも明らかに他とは違った強力な反応が二つ……いや、三つ。
「これは……戦闘員はただちに戦闘準備を整え、出撃してくれ!」
 隣の部屋から勢いよく乗り込んできた本部長が声を張り上げる。
「まずは各々の担当地区へ向かって欲しい。詳しい地点はこちらから追って指示を出す。現在反応がない地区の団員も、非難誘導や戦闘の拡大に備えて出撃だ!」
 鋭い命令が飛ぶと、戦闘員たちは迷いなく動き始めた。
「じゃあ、粋、気をつけてね」
 瑞音は遠ざかり、年上の部下たちと合流して指示を出す。
入れ替わりに笹巻がやって来た。その後ろに黒服が三人。沢峰も合わせて、粋の部下は五人いる。
「天馬の刃、指示を頼む」
「どうしよっかな。んー……各自いつも見回りをしているルートに散開。住民の安全を最優先に、それぞれの判断で動いて。ただし新作が出てくる可能性が高いから、戦闘は可能な限り避けること。やむを得ない場合は僕を呼んで時間を稼いで、決して無理はしない。いい?」
 五人の部下たちは「了解」と返事をし、非常階段へ急いだ。一度は先を越されたその背中を追い越して、粋は本部から飛び出す。
 夕凪が探している少女の手掛かり……彼が「察知した」ということは、おそらく憑装したということ。話の通り鬼羅の狙いが彼女ならば、隠密には不向きな波動を発する憑装をしなければならない状況……危険な立場にある可能性が高い。
 街を守ることが先決か、あるいは少女か。
 ――どっちも守ってみせる。二兎を追うものは一兎も得ずとはよく言うが、人の命がかかっているんだ。簡単に切り捨てられるか。
「憑装!」
 粋は純白の翼を大空にはためかせ、真紅の炎が燃え上がる街の上を飛んでいく。

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