唯一不変の切札

白結 陽

第一章 天馬の刃

 七月一〇日、午後九時。
三日月の下、薄暗い街で二つの刃が交差する。
 仕事を終えてのんきに歩いていたサラリーマンは甲高い衝突音を聞くと慌て顔になり、懸命に走って家路を急いだ。
 その間にも衝突は幾度となく続く。
 今、一人の男がビルの壁を駆けあがった。黒服とサングラス、手にはよく磨かれた両刃の洋剣。五階あたりに達すると、窓の枠を使って下方に跳躍する。
 重力が男を加速させる。
 相対する人影は背から生えた蝙蝠のような翼を広げ、黒服の男に向かって飛翔する。上半身が露となった格好で、しかし見えている肌は人間のものではない。全身には光沢のある鱗、頭部には角が生えている。そして鰐のような顔、黄土色の眼には瞳孔がない。
 近接する二人。黒服の剣を迎え撃つは、異形の者の鋭く長い爪だ。上方から放たれる全身全霊の一撃、どちらが有利かは一目瞭然だった。
 だが――、
「ぐあッ!」
 短い悲鳴を残し、アスファルトに叩きつけられたのは黒服の男だった。
 遅れて落下してくる異形の者の爪が、男の首を狙う。
「させないっ!」
 今まさに命が一つ消えようとしていた時、救済の横槍、女性の声と共に短めのランスが飛んできた。異形の者は素早くその場を離れ、乱入者を品定めするように見つめる。
 槍を拾ったのは男と同じく、黒いスーツにサングラスの女性だった。
「笹巻さん、大丈夫ですか?」
「すまない、助かった」
 黒服たちは体勢を立て直し、とりあえず剣と槍を構える。
「相手はユニオン型……ですね」
「少しでも弱らせられれば、と思ったが、やはり手に余る相手のようだ。無理はせず、応援が来るまで時間を稼ごう。どれくらい持ちこたえればいい?」
 女は耳を小型イヤホンごと手で覆う。
「別所にて戦闘を終えた天馬の刃が、そのままこちらに向かってくれるそうです。五分ほどで到着するものと思われます」
 異形の者はじっと男たちの様子を窺っている。理性と本能が入り混じった瞳――武人の睨みとは違う、言うなれば獲物を狙う肉食獣の眼だ。
「ところで笹巻さん、通信機はどうされました?」
「さっきの衝撃でぶっ壊れたらしい」
「そうですか。では私が連絡を中継します」
「頼む」
 さて、と意気込み、黒服たちは形だけだった構えに魂を込めた。それぞれの武器にか細い月の明かりが反射する。命の奪い合いに相応しい、冷たい光だ。
 心の移り変わりを察知し、異形の者はゆっくりと間合いを詰める。
「このまま五分、睨み合っていられれば良かったのですが……来ますね」
「ああ、死ぬなよ沢峰」
 二人は時間を稼げばいい。その考えから、詰められた分だけ退こうと体重を後ろに掛けたその時――風が吹き、三日月に雲がかかった。
 アスファルトを蹴る音が鳴る。
 高速で迫るヒトではない者の体。
 普段ならば自動車が行き交う道路、その上を車よりも速く、より威圧感を持った存在が殺意を持って駆けてくるのだ。恐怖の大波が全身の毛穴を揺さぶる。動かしかけた足が縛られたように止まった。
 直後、遥か遠方に飛ばされ、転がり回る笹巻。盾に使った剣の刃が僅かに欠けた。
 爪を振り切った敵に間髪入れず、沢峰がランスを突き出す。その鋭い先端が対象の腹部に当たり……止まった。
 細腕からの一撃では、鱗のない皮膚にすら五ミリ程度の傷しか負わせることができない。
 代わりに襲来する長い爪。女の身をよじった緊急回避は不完全に終わり、衝撃の緩和が精一杯だった。
 短い悲鳴が上がり、服の右肩あたりが小さく裂けて鮮血が舞う。
 体勢を崩した女に容赦ない追撃の手――それを、男が弾丸の様に突っ込み、全力の体当たりで阻止する。成人男性に体ごと、それも異常な速度でぶつけられては、如何に強固な体だろうと相応に後退させられる。足に根が生えているわけではないのだから当然だ。
 ただ、動かせたというだけで傷の一つも与えることはできなかった。
「ありがとうございます」
「礼はいい。まだやれるな?」
 沢峰は頷き、立ち上がる。
 五分――たったそれだけの時間が長い。かの爪は、まともに受ければ一撃で彼らを死に至らしめる。確実ではないが、それほどの威力がある。
 常にその脅威に晒され、その一撃は雨のように襲いくる。気の休まる暇のない攻防が、一秒をどれほど長く感じさせるか。また、どれだけの疲労を積もらせるか。
 人形のように飛ばされ、身を傷つけ、ほぼ効き目のない攻撃を繰り出し、必殺の爪を命懸けでやり過ごす。
 勝利の可能性など見えない、引き延ばしの勝負。
 それでも剣を振るうのは、受け手ばかりに回りたくないからだ。敵も攻撃には反応し、身を守る。目などの急所に当てられれば、いくらか防御もしやすくなるかもしれない。
 そんな想いが込められた一閃、顔を狙った刀身が――肘打ちによって砕かれた。続けて男の腹に膝がめり込む。
 助けに入った女のランスも蹴り砕かれ、男と同じ道を辿った。受け身を取り、通信機からの声を聞いて女は目を見開く。
「……えっ?」
「どうした」
 二人は急いで距離を取る。
「それが……」
 女は言い淀み、沈んだ口調で答える。
「……本部から報告です。天馬の刃が新たに敵と遭遇した模様。ユニオン型ではないとのことなので手間取ることはないでしょうが、私達の援護には少々遅れるそうです」
 散々疲弊した精神には辛い報告だ。武器を失った今、敗戦は目に見えている。
 素手のまま、失意の彼らに抗う術はなかった。
 強大な暴力の前に、ただただ傷つけられるのみ。ヒトの形をしていながら、彼らも常人離れした肉体と力を持っている。しかしそれでも、どれだけ上手く立ち回ろうと骨身を削られていく。
 ビルの壁を突き破った沢峰が覚束ない足取りで路上に出る。全身が血だらけで、限界は誰の目にも明らかだった。
「これは、もう……」
「撤退しろ、沢峰!」
 敵と格闘しながら男が叫ぶ。
「し、しかし……」
 仲間を置いて逃げることに抵抗があったのだろう、沢峰が迷いを見せる。が、その躊躇いこそが戦場では命取りとなるのだ。複数が相手の場合、弱った者を狙うのは多くの者にとって常套手段。それはこの異形の者にとっても例外ではない。
 男を蹴り飛ばし、もう腕を上げる力すら残っていない棒立ちの女へ一直線に走る。
 細い首を目掛けて振りかぶられる刀のような爪。
 訪れてしまった最悪の展開に、笹巻は目が眩んだ。
――早く来てくれ、天馬の刃。
 笹巻は願う。自身の足では絶対に追い付けない。
――あんな子供に頼るしかないなんて情けない話だが……頼む!
 だが、見慣れた姿は影すら見えない。
――いや、もう誰でもいい。彼女を助けてやってくれ。
 時間がゆっくりと進むような感覚が男を支配する。無力感が長々と続き、すっかりと気弱になった笹巻は、やがて目を閉じて祈った。
……お願いします、神様!
 男は普段、神頼みをするような性格ではない。存在そのものを信じていないのだ。それでもこんな窮地に立たされた時、祈らずにはいられない。
 奇跡でも起こらない限り、彼女は死ぬのだから――。
 不意に、男とも女ともわからない神秘的な声が聞こえた。
「人間というのは、どうしてこう無茶をするのかな」
 続いて光の柱が夜空から降り、爪を振る異形の者を明るく照らした。どこまでも白く、輝かしい光だ。
「なにが……」
 閉じた瞼を悠々と貫く不思議な光を感じた男は、目を開けて唖然とした。
 異形の者の腕が、彼女を切り裂く寸前で止まっている。必死の形相で振り抜こうとしているものの、張り付いたように動かない。
光の柱を通って降りてくる人影が沢峰に話しかける。
「……君、そこに居られると邪魔なんだ。下がってくれないかな」
 半ば放心状態だった女はハッとし、駆け足でその場を離れる。
「笹巻さん、あれは一体……」
「……わからん」
 黒服たちは見ていることしかできない。
 柱は徐々に細くなり、人影が地面に降り立つと同時に消滅した。
 現れた人物は、まだ若い青年だった。年の頃は二〇あたり。首元あたりまで伸びる長めの髪を風に揺らし、余裕の微笑みを浮かべ、異形の者と相対している。綺麗に整った顔の中で一際目を引くのは、瞳孔がなく、煌々と光る銀の瞳だ。
「もう動けるだろう。かかってきなよ」
 青年が手招きする。
 黒服達から口の動きは見えず、聞こえず、異形の者が言葉を発する。
「オマエハ、タシカ……裏切ルノカ?」
「知り合い?」
 青年が問う。それは対面する相手に向けてではなく、宙に語りかけるようだった。
「勘違いじゃないかな。僕達は初対面だと思うよ」
「……タシカニ、別人ノ目ダナ」
 両者、眼を鋭く尖らせて敵対の意を示す。
「シネ」
 先制して動いたのは異形の者だった。鱗を纏った腕が伸びる。
「君、逃げろ!」
 成り行きを見つめていた笹巻が叫ぶ。しかし青年はその場から動かない。剣と対等以上に渡り合える爪が、夜風を切り裂いて青年を狙う。
「そして君も無茶をするわけだ」
 青年がくすりと笑みを見せた。
 同時に悲鳴、飛び散る肉片と大量の血液。鋼鉄よりも硬い鱗に覆われていた腕が、一瞬にして弾けた。傍から見つめていた黒服達にも腕を失った本人にも、青年が何をしたのか、まるでわからない。
 青年の細い腕が淡い光を放ち、突きの予備動作を起こす。
「トドメだ。せめて安らかに眠ってくれ」
「待ってくれ、まだそいつを殺してはいけない!」
 また笹巻が叫ぶ。しかし、そんな制止の声は受け入れられなかった。
 勢いよく突き出された手刀が、防ごうと下ろされた敵の腕ごと腹部を完全に貫いた。
 夜の街に響き渡る断末魔の声。
 戦闘は終わったかに思えた、その矢先――。
「殺してしまった……笹巻さん、どうしましょう」
「退避だ。我々にできることなど何もない」
「しかしあの方は……」
「どれほどの力があるかはわからないが、簡単には死なないはずだ」
 黒服の男女は、更に遠くへと走り出す。
 彼らが恐れているのは、彼らのいうユニオン型というものが討たれた際に現れる、正真正銘の怪物だ。辛うじてヒトの名残が見られる先ほどまでの敵とは、何もかもが違う。理性などなく、人の何倍もの高さを誇る巨大な体躯。
 異形なる者の頭部から溢れだした気体のような何かが形成したのは、竜。ティラノサウルスを思わせる胴体に翼竜のような翼を持った怪物だった。二メートルにも満たない青年と比べれば、その存在は圧倒的。
 竜は地響きのような咆哮を上げる。それだけで近くのビルに振動が走り、窓が割れた。
 黒服達は恐れ戦く。これまで幾度となく怪物たちの力を目の当たりにしてきたのだ、どれほどの脅威か、彼らはよく知っている。
 一方、青年はといえば、相変わらずの涼しげな表情。
「大きさよりも質が大事だと思うよ、僕は」

 建物の屋上から屋上へ跳ぶ、小柄な少年が月明かりに照らされる。目的地に着くと、ダイナミックに路上へ落下した。それでいて着地は羽のように軽やか。彼もまた、普通の人間とは異なる能力を持っている。
 寝ぐせが目立つ童顔、しかも身長は一六〇程度。
「ごめん、遅れちゃった」
 眠たそうに半目で黒服の男女を見る。
「んで、敵は?」
 態度は落ち着いているものの、まるで子供。しかし彼こそが、笹巻たちが戦いの最中に待ち焦がれていた「天馬の刃」なのである。黒服二人よりも上位の戦闘員、それゆえ腰には上物の日本刀が収まっている。学生服を改造し、鞘を差しやすくしてある。
「それが……急に若い男が現れて、討伐した」
「二〇歳くらいでした、天馬の刃」
 黒服たちは半ば放心状態で報告する。
「討伐って……こっちに出たのはユニオン型だったんじゃないの?」
「ああ、竜だった」
 天馬の刃は顎に手を当てる。
「後に出てくるデカイ奴も?」
「ええ。信じ難いことですが、一撃で……」
「へえ」
 少年は頷く。そんな事があったのなら、彼らが未だに動揺しているのにも納得できる。
「二人は結構やられたみたいだけど、重傷ってわけじゃないみたいだね」
「あの男のおかげで、どうにかな」
 満身創痍の二人を見て、天馬の刃は頬を膨らませた。
「……悪かったね、僕がそいつと違って無能だったばかりに怪我をさせて」
 笹巻は慌てて付け加える。
「いや、皮肉ったつもりはない。気を悪くしないでくれ」
「そうですよ。あなたには助けられてばかりで、本当に感謝しています」
 必死でご機嫌を取ろうとする大人達の姿を見て、天馬の刃が笑う。
「冗談だって。手際の悪さは僕も二人も、本部にもあったと思う。今回は結果オーライってことで、反省を踏まえて次回から改善しようか」
「そうだな……っと、場所を移そう」
 戦いが終わったことで、路上に通行人や車が戻ってきた。彼らの所属する組織が近辺の警戒を解いたらしい。
 あまり目立ちたくない三人は、近くの河川敷まで足を運んだ。人気のない夜の堤防。街灯の周りを虫が狂ったように飛んでいる。
 階段状のコンクリートに三人並び、腰を落ち着ける。
「……ふーん、手からビームを出して巨大な竜を一撃、ねえ……」
 ここに至るまで、天馬の刃はおおよその経緯を聞いた。
「夢でも見たんじゃない?」
「それはない」
 疑うのも無理はない。天馬の刃と呼ばれ、仲間から絶大な信頼を得ている彼でさえ、あれほどの竜が相手では苦戦を強いられる。
「ま、二人とも怪我が酷いし、本部には僕が報告しておくよ。まだでしょ?」
「すみません。私の方の通信機も壊れてしまいましたので」
「いいよ。どうせ耐久を上げても壊されるってんで、安物を使い捨て感覚で使ってんだから」
 天馬の刃も壊れた通信機を摘まんで見せる。先の戦いで破損したらしい。
「それに僕の報告もあるし、ね」
 少年はさっそく本部へ向かおうと立ち上り、去ろうとして足を止めた。
「あ、そのビームの人の特徴も聞いておいた方がいいよね」
 遅れて立ち上がった二人が、思い出しながら青年の特徴を天馬の刃に伝える。
「ふんふん、身長は一七五くらいで二〇歳前後ね。それで髪の長さは首元あたりまで。服装は白いシャツに黒のズボン……と」
 少年は淡々とメモを取る。
「体型は細身で綺麗な顔立ち……こんくらい? これじゃ特定できないんだけど。特に顔なんて、綺麗と言われたってわからないし」
「遠くからだったからな、よく見えなかったんだ。沢峰、お前はあの青年が現れたとき近くにいたが、顔を覚えているか? 他に気付いた点とかは?」
「不甲斐ないのですが、私に観察する余裕は……」
 言いかけて、女は言葉を止めた。
「……そういえば、ズボンからストラップがはみ出ていたような……」
 彼女は天馬の刃からメモ帳を借りてペンを走らせる。
「この様な物だったかと……」
「どれどれ」
 笹巻たちは街灯を頼りに覗き込む。紙上にはガタガタの線で歪な何かが描かれていた。
「お前、絵ヘタだな」
「なっ……放っておいてください!」
 もはや何が描いてあるのか理解できないような落書きを、天馬の刃はジッと見つめる。それも今日一番の真剣な顔で。
「あのさ、これってちょっと変わった鎖に球体と飾りがついているってことでいいのかな」
「鎖ではなくヒモです」
 その紐と飾りの説明が難しかったから絵を描いたのだろう。しかし天馬の刃が注目しているのはそこではない。
「珠は何色だった?」
「台座の銀色が混じって見えましたが、本来は半透明の赤色だと思います」
 天馬の刃は片眉を上げた。答えに納得しきっていない顔だ。しかしそれも一瞬のこと、すぐに無関心顔になり、二人にメモ帳を見せる。
「特徴はこれくらい?」
 笹巻たちは瞳に文字を追わせる。
「いや、一つ忘れていた。台座が銀色ってので思い出したんだが……」
「あっ、私も思い出しました。一番印象的なはずなのに、どうして忘れていたのでしょう」
 単に忘れていた、というよりは、その特異点が普通だと錯覚していたような感覚だ。
「へえ、なにさ」
「……奴の眼は、銀色だった」
 話し合いを終え、天馬の刃は黒服の男女を残して本部に向かった。二人は傷ついた体を気遣いながら、ゆっくりと帰路に着く。
 途中、道の上にまだ新しい血を見つけた。すぐに天馬の刃のものだと悟った。いつもと何一つ変わらぬ表情で、痛みも負傷も隠していたのだ。
「天馬の刃が怪我をするなんて……それほどの強敵を相手にしたとは聞いていませんが」
「おそらく急いでいたんだろう、俺達を助けるためにな」
 女は少し笑ってみせる。
「あの子、無気力無関心に見えて意外と優しいですよね」
「ああ。だが、その優しさと強さに甘えてしまう無力な俺は……惨めなものだな。まだ子供のあいつに頼る自分が情けない」
「気持ちはわかります。ですが焦っても仕方のないことです。私達は私達にできる事をしていきましょう」
 覇気を失った彼らの背中が、闇間に溶けた。

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