しょうらいのゆめ
東雲の沈黙
三話
学校の裏に着き、肩を上下させて校舎に背中を預けた。ひんやりとした校舎の無機質な感覚が僕を微かに落ち着かせたような気がした。
   僕の掠れた息だけが聞こえる。キリギリスの声も、蝉の声も、最近は随分なくなったように思える。しかしふと空を仰げば、まだ夏の大三角形が臨めた。
   ああ、嫌いだ。綺麗なもの、すべて。この夏の大三角形も。周りの脇役星Aも、Bも。家のグッピーも。海だって嫌いだし、山も嫌いだ。学年一可愛いと言われているC子でさえ僕にとってはただの大根だ。僕の存在に目もくれず、楽しそうにしているその姿が、気に食わない。
   僕は鍋を一口で飲み込み、階段を降りるような動作で異世界へのゲートを目指した。わずか二回経験しただけで、どうやら僕は恐怖を克服したらしい。
「わっとと」
辿り着いたとき、やはり上手くは着地できず尻をついてしまった。その振動で何人かが起き上がった。どうやらこちらの世界ではまだ夜らしい。しっかり時間を計算してから来るんだったと後悔しても遅い。僕は四つん這いになってゆっくり起き上がった者の場所に行く。
「ごめんね、こんな時間に」
「なんだナオか。まだリフは寝てるぞ」
自身も眠気眼で僕を見上げるゲイルは、欠伸をすると勢いよく飛び起きた。
「怪我は」
「ああ、大丈夫。今日は怪我していないよ」
「そうは見えない」
暗がりの中でも真剣な面持ちなのがわかった。僕はゲイルの言っていることがわからなくて、ただ首を捻った。今日は誰かに暴力を振られる前に病院にいたから、怪我はないはずだ。
「どこも血出てないよ」
「心が、リーファのマナが宿るその心が怪我をしている」
「こころ?」
ゲイルは小さく頷くとどこかへ歩いた。僕は体が大きいのでゲイルが横たわる人の波にのまれても後を追えなかった。
   しばらくすると、奥の波が荒くなった。一人が起き上がって、二人でこちらに近づいてきて初めて叩き起こされたのがリフだと気付いた。
「リフ、あの突然来てごめんね」
「こちらこそ寝起きですまない」
そう言ってすぐにリフは眉をひそめた。
「どうしたの」
ゲイルと同じ目付きになったリフは、真下から僕を見上げた。視線の先にあるのは僕の胸元。
   心が傷ついているのが見えるなんて、本当におとぎ話みたいだ。しかし、魔法の力であっても、心の内を見られるというのはあまり気持ちのいいものではないな。先程の家での騒動があった後だから多少荒んでいてもおかしくないが、キラキラとしたこの世界の住人には知られたくなかったような気もする。
「なにが」
「心が傷つく要因があったはずだ」
言わせるまで言及してきそうなリフの気迫に負けて、僕は話した。
「家族と、喧嘩をね。少しだけ」
「少しなんてものじゃないだろう。心の約六割が破損している」
「君には僕の心がどう見えているの」
「棘だ。棘が至る所に刺さっている」
「言葉の棘ってやつじゃないかな」
「そんなに簡単に済ませていいもんじゃねえだろ」
予想以上に声を荒らげたゲイルに、僕はびくりと肩を竦ませた。それを見たリフが僕との壁を作るようにゲイルの前に立った。
「ゲイル、やめろ」
いつになく命令口調なリフも、どこかで僕に不満を抱えているような表情をしていた。
   いったい、何なんだろう。この違和感は。彼らは単純に僕を心配していない。言うとするならば、警戒のような。ゲイルは睨むように僕を一瞥すると軽く舌打ちをした。
「ぼ、僕、何かしたかな」
「いや、別に……何もしていないよ」
歯切れの悪いリフの返事が静寂の中響いた。なんだって言うんだ。
「嘘だ」
「嘘なんかじゃない。何も無い」
「言ってくれないとわからないだろう」
「俺たちの方が教わりてえよ。お前ら人間の闇の構造を」
「ゲイル!」
「だってそうだろ!このままだったら、また……」
「ナオは関係ないじゃないか!」
遠くから枯葉を連れて木枯らしが吹いた。僕らの髪を踊らせるようにしてやがて川の向こうに消える。二人の声に気付いた者がのそのそと起き上がってきた。
   にわかに賑やかになったその場で、一人金切り声をあげた者がいた。
「皆!こころ!ナオの心を見て!」
それはフレデリカだった。フレデリカの声に続いて皆が一斉に悲鳴を上げた。
「おい、逃げろ皆!」
「悪魔だ!」
「アンティア様を脅かす存在がまた来やがった!」
「リーファになんの恨みがあるっていうんだ!」
見る人見る人が僕から離れていく。制止するリフの声はもう聞こえない。なんで、また居場所が無くなる。どうして、僕は何もしていないのに。
「僕は何もしようとしてない!」
「悪魔の咆哮だ、皆耳を塞げ!」
「ほ、本気で言ってるの……?」
何なんだ。なんなんだよ。皆して、そんなに僕のことが嫌いだったのか。だったら、そう言えば良かったじゃないか。言ってくれたなら、僕はここに通いつめなかったのに。言ってくれなくちゃ、わからないよ。
「俺はまだ死ぬわけにはいかない!」
「おい!アーサー!やめろ!」
ゲリラのように突如動乱化してしまった群衆の中で、異彩な光を纏う者がいた。それは瞬く間に膨張し、僕の視界を白に染めた。
「頼む!やめてくれ!」
劈く声が誰の声か、もはや分からなかった。頭に衝撃が走り、続いて激痛も伴った。温かい血が生い茂った地面に滴る。目の中に血が入ってしみる。
「アーサーー!!!!」
視界がぼやけた状態で、リフが僕に魔法を使った青年を捕まえているのを見た。僕は、リーファから見てもう敵なのか。理由も聞かされないまま攻撃されるほど、僕は異端者だったのか。
   何が何だかわからない。ただ、ゲイルが駆け寄ってくれたことだけはわかった。
「頭に命中させたぞ!皆、殺される前に殺せ!まだ死にたくないだろ!」
「黙れアーサー!お前はリーファの風上にも置けないクズだ!」
リフとアーサーと呼ばれる青年の攻防の中に、もう一人光を持つ者が僕とゲイルの前に現れた。
「お、俺だって死にたくない」
「ナオは関係ないだろ!やめるんだ!」
「人間が本気になったら俺らなんて一瞬で殺されるんだ!」
「僕もまだ死にたくないよ」
「私だって、人間なんかに殺されるなんてごめんだわ!」
数珠繋ぎに魔法を僕に向ける人だかりが出来た。ゲイルは必死に僕の治療を続けてくれていた。
   僕はそんな彼の手をそっと小指でなぞった。彼は体を強ばらせて、僕を怯えた様子で見た。あぁ、君もそうなのか。そうだよなあ。
「ゲイル、君が危ない。逃げていいよ」
「で、でも俺……」
戸惑う彼を、リーファの皆の声が覆う。
「ゲイル隊長!早く退いたほうがいい。殺されるぞ!」
目付きが鋭くなってしまった皆を前に、彼が尻込みしていることは手に取るように分かった。
「大丈夫。僕はこんなに体が大きいんだもの。約束するよ、反撃はしないし引き続きここの事を他言しない」
「本当か?死なないよな?」
今にも泣きそうなゲイルの胸を、僕は優しく押した。よろめきながら僕から離れたゲイルを見て、皆が同時に僕に魔法を放った。僕が何をしたのかはわからないけれど、これで皆の気が済むならそれでもいいよ。僕の世界はここにしかないんだから。僕がすべて飲み込むよ。
   怖い思いをさせてごめんね。辛い思いをさせてごめんなさい。
「頼むよみんなっ……やめてくれ……」
リフの嗚咽混じりの声は、誰にも届かなかった。
「ごめんなさい……」
ついでに、僕の声も届かなかった。
   しかし、熱い光が僕を包み込んだかと思うと待ち受けていた激痛は来なかった。ゆっくりと目を開けると、薄い緑色をした壁が僕と彼を覆い包んでいた。激しい音が壁から鳴っている。
「大丈夫かい?本当にすまない。皆馬鹿だから、過敏になっているんだ。代わりに僕が謝ろう」
「えっと、あの……」
「覚えていないかい?無理もないか。魔法部隊隊長ディフだ。理不尽な攻撃を受けている君を全身全霊で守るよ」
そう言っている間も壁から鳴る音は徐々に大きくなっていき、ディフの表情が強ばって見えた。どうして。そんなことより、僕は涙を流してこう言った。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「それはこちらが言うべきことだ。君は反撃しなかった。それだけで充分なのさ」
煌々と光る先に、皆がどれほどの敵意を含んだ目で僕を見ているかと想像すると、ひどく悲しく思えた。なぜこうなってしまったんだろう。
「仲間相手に魔法を使うのは……なんというか、虚しいものだな」
「ごめん。僕がここに来てしまったから」
「違う。君は何もしていない。しかし、〝前例〟があるんだ」
「前例……?」
「さあ、弾き飛ばすよ。人間には刺激が強いから目をつぶっていて」
躱されてしまった僕の疑問は傷ついた心の中にわだかまりとして落ちた。子供の泣き真似よろしく顔を窄めると、一瞬で轟音が鳴り止んだ。うっすらと目を開けると、怒った形相のディフが彼らに向けて手のひらを向けた。それは実質脅しだった。
「弁明があるならば聞こう。魔法部隊隊長の腕をあまり舐めない方がいいぞ。自分が何をしているのか分かっているのか!!」
すっかりディフの気迫に怯んでしまった彼らは、誰も口を開かなかった。そして僕に魔法を向ける人もいなかった。
   一時の動転と興奮。集団心理による攻撃だったことはわかる。しかし、理由が知りたい。僕に聞く権利があるのかは不明だったが、リフならまだ僕に耳を傾けてくれると思った。
「リフ、お願いだよ。誓って言う。何もしないから、理由を教えて」
「そんなことより、ゲイルに治療を」
「僕にとっては重要なことなんだ!ここは、僕にとっての世界で、ここで存在価値が無かったら、僕は、きっと」
大粒の涙が頬を伝った。止まれ、止まれ。そう願っても洪水のように溢れて止むことを知らない。すぐに彼らの前に水たまりができた。跳ねた涙がリフに被り、彼は幼児をいたわるような表情をして息を飲んだ。
「わかった、話そう。その前に、皆。僕に逆らうことがどういうことかわかるか」
やっと顔を見せた空は曇天で、低く響くリフの声を酷く恐ろしく感じた。彼らは俯いたままリフの言葉を待っていた。弁解する者も反論する者ももはやいなかった。
「ナオに魔法を使った奴はマナを感じればわかる。アンティア様の前で同じことをしてこい」
「……そんなことできません」
「なら何でナオにそれをした!僕はお前達のことを許さないぞ。お前達全員からマナを奪う。全てだ」
僕はリフが言っていることが、彼らにどれほどの影響を与えることなのか分からなかった。だが彼らの表情を見る限り、日常の終わりを言いつけられたものと同意だと言うことが分かった。魔法を使うリーファにとって、きっとマナは大切なもの。
「リフ、そこまでしなくても」
「ナオは黙っていてくれ。明日の朝、アンティア様の前で儀式を行う。こんな事は前代未聞だぞ!反省して末代まで謝罪の念を持ち続けろ」
「アラゲルト様…すみません、私は」
「わかったか!!」
「……ヘーウレーカッ」
涙を流しながら返事をする彼らが不憫であったが、リーファの長が決めたことならば、僕が口を出すべきではない。煮えるように滾る罪悪感で胸焼けしそうだった。
「皆、いつも通り作業に移れ。変な気を起こすなよ。僕はいつでもお前達全員を見張っているぞ。ディフ、感謝を言う。ゲイルお前は一緒に来い」
振り向いたリフは泣きそうな顔で僕を見た。
「本当にすまないことをした……。移動の都合で体を小さくする。一瞬で終わるから」
例によって視界が広がり、僕は先をゆく彼らの後をゆっくり追った。生い茂る植物がどこか喧騒感を漂わせ、胸騒ぎが治まらなかった。
   たどり着いた先は、以前僕が怪訝に思った岩の前だった。変わらず異様な圧を感じる岩にリフが手を翳す。低い音をたてて岩が縦に割れて空洞が僕らを招いた。
「なに、これ」
「他人に聞かれたくない事は基本的にここで話すようにしている。さあ入ってくれ、落ち着かないかもしれないが」
そんなに大事な岩だったから、この間僕の能力が全く効かなかったのか。まるで赤子の腕を捻るようにいとも簡単に僕の能力を薙ぎ払われたのが納得できた。
   彼らに続き足を一歩踏み入れると、気温が下がり無音の世界が僕らを招いた。一人一人の呼吸音さえ聞こえてきそうな場で、リフが後ろ手に岩を動かして閉鎖した。
「まず、治療をしよう。ゲイル頼むぞ」
「わかった」
僕に手をかざしながら、ゲイルは俯いたまま治療を続けた。罪悪感があるのだろうか。あの場で僕に駆け寄ってくれたことはまったく勇ましい行為であり、僕を安心させた。何も自分を咎めることないのに。
   地面を見つめるゲイルを僕が黙って見ていると、リフが頭を下げた。
「ナオ。本当に今回のことはすまない。全ては統率者である僕が未熟であったことに責任がある。本当にすまなかった。罪人である彼らへの処分が軽いというならばナオの気が済むまで煮るなり焼くなりしてくれ」
「そんな、マナを全て奪うことが既に軽くないよ。十分過ぎるくらいだ」
「優しいな、ナオは。頭が上がらないよ」
「僕は、優しくなんか……」
ふおん、と風のような音がなり、ゲイルが手を下ろした。
「終わった」
リフが手で合図をすると、ゲイルはリフの後ろに下がった。ゲイルは敬意を払うように跪く。
「ゲイル、立ちなよ」
「いいんだ。彼がこうしたいらしい」
リフは一つ咳払いをすると、乾燥した唇を開いた。
「羞恥を忍んで話したい。時は約三〇〇年前に遡る」
リフの言ったことは、いつか僕が想像した物語そのものだった。
現実世界で言う約五〇年前に、一人の人間がゲートに降ってきたらしい。容姿を聞くに、どうやら彼も僕と同じ中学校の生徒だったようだ。彼はその人柄ですんなり異世界の人達に馴染み、僕と同じように入り浸っていた。時に狩猟を手伝い、時に魔法を学び、時に喧嘩しては酒を飲み合ったという。そんな彼のことをリーファの皆は好ましく思っていた。
   しかしある日、彼は禁断である他言を犯してしまう。それに気が付いた当時のリーファの長、リフの祖父はゲートに向かって矢を放った。それは苦悩の決断だった。人間に異世界を荒らされてはいけない。リーファを守るにはそれしかなかったのだ。
   しかしその攻撃を防いだ彼は、裏切られたのだと逆行し、この異世界に乗り込んできた。リーファが何度彼が犯した過ちを説明しようにも、彼は耳を傾けなかった。
   その時、彼の心に傷があったという。半分以上が黒くくすみ、ヒビもはいっていたらしい。結果リーファのこの土地は散々に荒らされ、数え切れないほどの被害が出たという。以来、人間が来たことは無かったが、心に傷がある者は容赦なく疑えというのが新たな教訓となった。
   僕の秘められた能力と人間性に安心していた皆も、心の傷を見て動揺したらしかった。もう一度この世界が荒らされるかもしれないと考え、死者も出たようだから、殺されたくないと思うのも当然だ。
「原因がわかってよかった」
「ナオの話も聞かず、僕の制止も聞かずに攻撃した彼らには心底失望した。おこがましいかもしれないが、まだ仲良くしてくれるだろうか」
ゲイルは顔を上げず、ずっと僕らの話に耳を傾けている。時折唇を噛み締めるような音がし、リフと同じ心境なのが見て取れた。リフは今にも泣きそうになりながら懇願する。真意は侵攻を防ぐことだろうが、僕はそれでも彼らを許すことにした。怪我はゲイルが治してくれたし、彼らにも処罰が与えられるのであれば今後同じことは繰り返されないだろう。
   そうだと信じたい。
「僕の方こそ、信用してくれるのならリーファの皆とこれからも仲良くしていきたい」
「ほ、本当か」
胸をなでおろした様子のリフは、へたりと座り込んだ。
「こんなに素敵な場所、手放す方がおかしいよ」
僕はそう言って傷ついた心を隠すように胸の前で拳を握った。
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