しょうらいのゆめ

ぐう

東雲の沈黙



二話

   一瞬また天国にでも来たかと思ったが、流石に違うだろうと辺りをゆっくりと見渡すと、どうやら病室らしいことがわかった。母が僕の足を毛布越しに枕にしているように寝ていて、少し重い。僕が少し動くと母が蚊の羽程度に動いて、目を覚ました。

「あ、奈央。おはよう」

「おはよう。えっと、何から聞いたらいい」

なぜかどちらも自然な振る舞いで、今朝の挨拶と何ら変わらなかった。

「過呼吸で倒れたんだって。苦しかったでしょう。お母さんはなったことないからわからないんだけど」

「そうなの」

別段心配しているわけではないようで、僕もそれにつられて落ち着くことができた。小さい頃からずっと引っ込み思案だった僕にとっては、こんな出来事に動転、憔悴しそうではあったが、母のおかげだ。

「お医者さん呼んでくるわね」

「うん」

病院独特のドアを見届けて、僕はベッドに寝なおした。

   リフ、皆、会いたい。心がひとりぽっちで寂しかった。母が待っていてくれたというのに。あの自然に囲まれる世界にずっといたい。どうせ人間世界にいたって意味などないのに、なぜこちらの世界にいなくちゃならない。あの世界にいれば、僕はヒーローになれるのに。あの世界こそ、僕がいるべき場所なのに。どうしてそれが誰にも言えない。幼心を失くした醜い大人に反吐がでる。

   一人になった途端文句が頭の中で交錯した。あの時あの男に言ってやればよかった。しかし、僕が一番語りたいあの世界は、他言禁止というむず痒い掟がある。残念ながら彼らに素晴らしい世界を見せること、話すことが出来ないのだ。

「やあ、起きたね。ゆっくりできた?」

「ええ、まあなんとか」

「落ち着いているね。少し薬を処方するから、退院していいよ」

「ありがとうございます」

母が頭を下げているのを尻目に時計を見ると、仕事を休んで来たんだと感謝の気持ちと罪悪感と、やはり母にまで迷惑をかけるあの男に怒りが湧いた。

   学校側は何も言ってこないのか。母は聞いていて普段通りなのか、学校側が隠しているのかわからないまま退院した。それにしても、なぜあの時はあんなに動揺していたのだろう。過呼吸は過度のストレスにより、酸素を吸って、二酸化炭素を吐かなくなる症状だが、なったのは初めてだ。呼吸が出来なくなるのなんて水の中くらいだったから、今までにない以上に動転したせいで余計に首を絞めた。あいつは、こんな苦しさわからないに決まってる。



   帰宅した父と母と湯気が立つ夕飯を一緒になって囲んだ。医者が安静にしろとのことだったので、僕は異世界には行かず、家でおかゆを食べていた。久々に三人で食卓を囲うこの空間は、僕と二人の間に数多の蜘蛛の巣がかかっているようだった。

   食器と食器がぶつかる微かな音がBGMとなり、三人とも一切声を出さずに食事を続けた。リビングの端にいるグッピーは休まず出てくる酸素を美味しそうにえらから吸収した。その煌びやかな体は一つ泳ぐだけで様々な色を僕に見せた。やがて母が箸を置いた。

「奈央、聞いてもいい?」

白濁としたゆるいお米をスプーンですくい、頭を出した小さな人参やブロッコリーなどが僕に向かってくる。

「学校で何か、あったのよね」

僕は母の質問を予想していたが、おかゆがスムーズに喉を通らなくなった。何を話せばいい。虐められていることか。あの男のことか。母の顔はおろか、父の顔も視界に入れることができなかった。

「何かって、なに」

言ってから自身に呆れた。こうやって答えを濁らせたところで、母は言及してくるに決まっている。虐められていることなんて情けなくて言えない。それに学校側が必ず揉み消すだろう。グッピーがチラリと僕を見た気がした。

   お前はそんなに綺麗だから優雅でいられるんだ。

「先生が、僕を脅した。凄く声を荒らげて僕を責めたんだ」

「どうしてそんなことをされたの」

「わからないよ」

きっと、保身、体裁のため。自分が担当する学年でいじめ問題が発覚したとなれば、担任だけでなく学年主任にもお咎めはくるだろう。

「それは本当なの」

「本当だよ。また信じないっていうの」

「また?またってなによ」

「だって、僕が子供のとき……」

寸でのところで言うのをやめた。あんなこと根に持っている方がおかしいのだと言われる。

 子供の戯言。世間一般ではそれで済まされるものをいつまでもつっついて、情けない子供だと思われたくない。どこか喧嘩腰になってしまい、それが自分に余裕がないことを気付かせた。

   いつの間にか握ったままだったスプーンはおかゆに沈んでいた。

「じゃあ、どうして最近帰ってくるのが遅かったの」

母もすっかり箸を箸置きに置いて、年甲斐もなく身を乗り出して僕に問う。言葉に詰まったのを誤魔化すために、僕はおかゆを頬張った。

「悪ふざけならやめなさい。取り返しのつかないことになったらどうするの」

体の奥底に熱く燻っているものを嚥下して、僕は深呼吸をした。

「期待外れで悪いけど、僕は何も非行に走っていないし、至って普通の中学生だよ」

「怒らないから。お願いだから早く本当のことを話してちょうだい」

「だから本当だって!」

我慢していたのが一瞬で解放された。すると、静かだった父が箸を置いた。

「お前、その歳だからって何しても許されると思っているのか」

寡黙な父が、怒っている。静かだけど、圧がある。昔から父のこういうところが苦手だった。僕は母にだけ強気なのを知られないように、父にも突っかかった。巨木のような意地とたんぽぽのような沽券を守るためなのは明白だった。

「僕は本当のことしか言ってない。父さんと母さんが信じないから」

「信じることが出来るほどお前は何かしてきたか」

「……え」

「小さい頃から今までずっとお前はおとぎ話のような世界に住んでいるようだが、そんお前の嘘をこっちは聞き飽きているんだ」

「違う!嘘じゃない!」

僕は勢い余って立ち上がった。衝撃でおかゆが溢れる。

「あなた、奈央も落ち着いて。またパニックになったら大変だわ」

「うるさい、僕は普通だ」

「お前母さんにどんな口聞いてるのか分かっているのか」

「お前にも同じ口を聞いてやろうか」

「奈央!お父さんに向かってそんな口の聞き方……」

「子供を信じない親がいるか!?お前らがそんなんだから僕はこっちの世界にいたくないんだよ!!」

息が苦しい。けど、これは過呼吸ではない。目一杯叫んだからだ。肩が上下し、頭に血が上っているのが自分でわかった。

   でも、ここは食い下がって当然だ。二人にわからせてやる。お前らが間違っているんだ。お前らが信じなかったのが悪い。頭の中でぐるぐると揺れる巨木が僕に言葉の実を落としていく。

「母さん、しばらく奈央を休ませよう。一週間学校を休むと連絡しておく」

「ええ。わかりました……」

「勝手に決めるなよ!」

「近所迷惑だ。低知能を知らしめたいか」

「……馬鹿にしてるのか」

「奈央!やめて!」

気付いたら僕は父に噛み付いていた。ありったけの力で父の肩を引っ張り、カウンターで殴ろうと思った。しかしすんでのところで母に引かれ、僕は父の前に伏した。

「離せよ!」

「お願いだから、奈央。落ち着いて」

「ふざけるなよ」

「こっちの台詞だ。反抗期なら反抗期らしくまともな言い分で来るんだな」

「お前らは何もわかってない」

「そうか。俺はお前に付き合っていられない」

「もういいから!やめて!」

母の金切り声が部屋に、いや家中に響いた。そこで僕は我に返った。下半身に縋るようにしてくっつく母が、今にも涙が零れ落ちそうな瞳で俺を見る。

   何が、親だ。僕は母を振り払って自室に駆け上がった。急いでフレデリカのスープを手に取り、玄関で靴を履く。

「なお!!」

母の悲痛な叫びは、玄関の扉が閉まってもなお聞こえ続けていた。しかし、僕は知らん振りして駆けた。ここで戻ったら、あの両親の態度を容認することになってしまう。

   違う。わからず屋はあいつらだ。そう思ってはいるのに、体の端の方で罪悪感が佇んでいた。




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