しょうらいのゆめ

ぐう

東雲の沈黙



一話

   僕は連日彼らの世界に入り浸っていた。人間世界の日を跨ぐことなんてざらにあった。しかし、それでも両親は僕を叱らなかった。

   ある日、教室で本を読んでいると、どこからか視線が向かっているような気がした。鋭利なものが。僕の心の中で警報が鳴った。体の中で容赦無くかき鳴らす。
   地面を這うようにゆっくりと視線を上げて、警報の対象を見る。すると、教室のドアのところから学年主任が僕を見つめていた。まるで僕はカメレオンに見つかった蟻のようだと、この乾いた地で一人思った。

「飯塚、来い」

一瞬で教室が静まり、皆が静寂をもたらした先生ではなく僕を見る。読み進めた本の内容は忘れた。
   角部屋に連れて行かれ、先生はどかっと偉そうに座り、僕は後ろに腕を組んで立って先生を見下ろした。先生はニコチン中毒者のように口を頻繁に触る癖がある。僕を殴ったり蹴ったりしてきた連中は、翌日僕の怪我が治っているのを見てこの間の連中みたく僕に手を出してこなくなった。なんとなく、クラスで僕の不気味さが浮き彫りになってきた頃にこの呼び出しだ。僕はこれ以上自分の立場が崩壊していくのが嫌だった。
   睨みつける度胸は僕にはなかったが、それでも精一杯に振り絞った蟻の体液程の反抗心はあった。唇を触っていた指を押し退けるようにして、先生が口を開いた。

「お前、最近家にちゃんと帰らず何をしているんだ」

まさか、両親より先にこのニコチン中毒野郎に言及されるとは思いも寄らなかった。組んでいた腕が無意識に締まり、僕は唇が震えた。

「言えないようなことをしているのか」

僕は何も言えなかった。なんと言えば正しいのか、リフだったらすぐにいい案を出してくれるかもしれない。そう思った。依然として口を開かない僕に対して、ニコチン中毒野郎は足と腕を組み替えて大きなため息を吐いた。

「夜中に帰ってくるようになったらしいじゃないか、え?」

加えて、爪で机をコツコツと叩く催促が起きた。

「非行か?学校の校則に縛られることが嫌になったのか?逃げているのか」

「ち、ちがう……」

「ほら、ちゃんと先生に話してみろ。煙草とか酒、バイクだったら先生も若い頃していたから、な?そうだろ?」

「あの、僕……」

「なんだ」

「実は……虐められていて」

突如、机が激しい音を立てて跳ね上がった。僕はひゅっと喉の奥に息が詰まり、組んでいた腕は無意識に更に締められた。

「よく考えろよ。あと一年以上は俺がいるこの中学で生活するんだからな」

それが、事実上の脅迫だと言うことは理解できた。身体も精神も同時に成長する人は稀なのだと、その時思った。僕が押し黙っていると、先生が間髪入れずに口を開く。

「どうすればいいかわかるか」

「……わかりません」

ニコチン中毒野郎は薄汚い笑みを浮かべて、僕を下から舐めるように見上げた。

「悪い連中と夜遊びをしていた。ただそう言えばいい」

「僕、そんな人達と遊んでいません」

「違う。お前は遊んでいた。そこで色んな遊び方を知ったんだ」

「知りませんっ」

「煙草と酒とバイクと車と、女を知ったんだろう」

「し、知りませんっ」

「そうか、女は知らないか。じゃあそういうことで。よく話してくれたな」

「だから、僕はっ……」

「さすがに薬には手を出していないよな」

「僕は何も悪いことをしていません!ただ、校舎の裏でっ……」

「校舎の裏?」

「……!」

ニコチン中毒野郎の目付きがガラリと変わったのがわかった。嵌められたと気付いた時にはもう遅かった。こうやって自白するように、僕に冤罪を着せて燻らせたんだ。
   後悔と憤怒の念がぐつぐつと胸で煮えた。

「校舎の裏で何をしていたんだ」

「違う、僕は」

「何をしていたんだと聞いている!」

一切の思考をなぎ払われ、僕は喉が詰まったように息が出来なくなった。声を出したいのに、出せない。先生は余裕そうにゆっくりと立ち上がり、僕の眉間に顔を寄せて視線を合わせようとする。オタマジャクシの群れのように泳ぐ僕を一向に捕えられない。珈琲と煙草の臭いが身体中にまとわりつく感覚。
   息は微かに排出されていく。

「ぼ、ぼく、は」

「なんだ、言え!」

「っ、……ちが、う……ぼくはっ」

先生は大きくため息を吐くと、僕から身を離した。


「そうやってしていれば誰かが助けてくれると思ったら大間違いだ」

「ちがっ……ちがう……っ」

先生の顔が何重にもなって僕を責め立てる。蜃気楼のように見える顔が地獄の際で見る閻魔大王かと思えた。

「お前の周りに助けてくれる人なんかいない。それだから」

「はあっ……はあっ」

何も、考えられない。頭が、回らない。

「だからお前は虐められるんだよ」

「はぁっはぁっぅ……ぅっ」

苦しい。苦しい。息が、出来ない。酸素が、入ってきて。二酸化炭素が、出ていかない。助けて。誰か。誰でもいい。

「過呼吸か?気絶して逃げるか」

「ひゅーっ……ひゅっ……っ」

「お前はいつも……」

男の声を最後に、僕の意識は途切れた。

   待ちに待った酸素が外から入り込み、僕にひとつ挨拶をして短い距離を共にして出て行く。たくさんの大きさがある酸素は、時に合体して成長してから僕の体から出て行く。景色は目まぐるしく変わり、体感速度は人生で経験した中で一番早い。
   やがて濁流になったかと思うと、広い場所に出て勢いが分散される。滝が目の前なのを知らせていた。僕は巻き込まれる魚がいるかどうか辺りを確認をした。川である僕の役目だった。
   幸い今回は見当たらず、僕は大胆に滝壺を目指して落下した。以前にも何か似た風景を見たことがあるなと考える間もなく、遠すぎて真っ暗に見える滝壺に飲み込まれた。
僕から分かれた分身が皆わあわあと騒いでいるのに、僕だけが静かだった。水がどうした、滝がどうしたとどこから他人事な僕に、皆が言った。
   突然皆がひょうや氷にのように固くなり、僕に攻撃し始めた。

「それだから」

そう言って皆が僕を責め立てた。僕は真っ暗な滝壺に一人沈んだ。

「ナオ」

リフの声が響いた。真っ暗だったはずの視界が一気に真っ白に変わる。



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