しょうらいのゆめ
アリ
二話
「ナオ。起きてナオ」
「…リフ?」
「おはよう、大丈夫?」
目を開けた先にはリフがいた。
「よかった、来られたんだ」
「慣れたら気絶しないで来られると思うよ」
「そうかな、怖かった…」
「ナオさん、このブリオッシュを食べて。栄養のあるものなの」
「ありがとうフレデリカ」
先程までの動転はどこへやら、植物が生い茂ったこの風景を見ただけで心が安らいだ。手のひらにちょこんと乗ったブリオッシュを指先でつまみ、口に運ぼうとしてマスクを外していないことに気づく。
「ナオ、また怪我をしているのか!?」
「えっ」
マスクを外した瞬間リフが焦った様子で僕の足元に駆け寄ってきた。そう言えば、母さんから怪我した顔を隠すためにマスクを付けていたんだっけ。ここに来ることで頭がいっぱいで、走っている間も痛みがなかった。鏡を見ていないから今自分の顔がどうなっているのかわからないが、リフの焦りようでかなり重症なのがわかる。
   リフは僕が指先でつまんでいたブリオッシュを魔法で没収して、宙に浮かした。そして腰に巻いているポケットから何かケースを取り出して、開けたかと思うとそこに叫んだ。
「デイル!」
「なんだリフ」
「怪我人だ」
「なにぃ!?すぐに行く!」
小さなケースの中から声が聞こえて、人間世界でいう通話機能のようなものなのかと解釈したが、やはり見たことのないものを見ると不可解なことに思えてしまう。ケースをしまったリフは、ブリオッシュを浮遊させながら僕に言った。
「彼は僕らリーファの医療部隊隊長だ。先日ナオが来た時も彼の力があったから完治したんだ」
「リフ!私が作ったブリオッシュで遊ばないで」
「ご、ごめんフレデリカ」
背後で怒鳴るフレデリカに、どうにもリフは頭が上がらないといった様子だった。
   嫁の尻に旦那が敷かれるのは人間世界でも、こちらの異世界でも同じなのか。自らの無意識により話に水を差されたリフは、咳払いをするとフレデリカを横目に僕に向き直った。
「ナオにはまだ紹介していない仲間たちが僕らにはたくさんいる。いつか隊長たちだけでも紹介する機会を設けよう」
「ありがとう。でも、みんな仕事中だから僕なんかのために急いで来てもらわなくても大丈夫だよ」
「心配いらない。ゲイルは治療するのが大好きなんだ。それに、僕の治癒魔法だと時間が掛かりすぎる」
「リフ!怪我人はどこだ!」
「お喋りが過ぎたね。もう来たよ」
リフの視線の先にはいかにもな格好をした小人が立っていた。戦闘服のようで白衣のような服を身にまとったこの人物が、ゲイルか。彼はリフの元に近付くと、腕を組んで僕を下から上へと眺めた。
「おやぁ?この間の人間様じゃないか。今日は顔面が潰れているな。この間は神経と骨と内蔵が潰れていたが」
「彼がゲイルだ。治癒魔法の腕と態度の悪さで右に出る者はいない。
ゲイル、彼がナオだ」
闘牛のように鼻から勢いよく息を吐き出すゲイルは、小さい手を僕の方に寄越した。態度が態度なので、僕は彼の意図がわからずたじろいだ。
   するとゲイルは足を地面に叩きつけるともう一度僕に手を寄越した。
「握手だろ!ほら早くしろ」
「ひぃっ!ご、ごめんなさい」
怒鳴られるといつもの反射で体が強ばってしまう。それを見兼ねたリフがため息を吐きながらゲイルに言う。
「ゲイル、乱暴するなといつも言っているだろう」
「乱暴なんかしてねえ、今のは人間が悪いだろ」
僕は例に倣って人差し指を差し出した。リフの時のように細い指が僕の人差し指を覆う。ドクターフィッシュのような感覚で、少しむず痒いのが特徴の握手だ。
「よ、よろしくゲイル。僕はナオ」
「おう、か弱いナオくんだな」
「何でお前はそういう口の聞き方しかできないんだ」
「事実を言っているだけだろ」
「ゲイル、早くナオを治してあげてくれる?体力を消耗しているから私のブリオッシュ食べてもらいたいの」
「フレデリカ!わかった。君のためにすぐに治そう。ナオ、目を瞑れ」
「ゲイルは女に目がない。覚えておけナオ」
まるで人間世界の医者と真逆なゲイルの態度に戸惑いながらも、僕は言われるがまま目を瞑った。前回は感覚がなかったから恐怖感が無かったが、今回は意識の中で治療されるから少なからず身構えた。しかし、一瞬鼻を中心に顔全体に熱を感じると、すぐにその感覚は無くなった。
「終了だ」
「え、もう?」
「俺の手に掛かれば、アロエを微塵切りするより簡単だ」
「例えが分かりづらいし、それは常人なら高等な技術だ」
「うるせえぞリフ」
僕は指で鼻をつついた。そこに痛みはなく、滴る血もなかった。腕は本当に確かなのだと、ゲイルを見ると、フレデリカに必死にアピールしていた。
   しまった、感謝の言葉を言いそびれた。僕は困ってリフを見つめると、リフは優しく微笑み返してくれた。
「彼はああいう奴だ。慣れてくれ」
そう言うと、僕の手の平にブリオッシュを置いた。ゲイルにお礼を言う前に食べてしまうのは如何なものかと考えたが、今はフレデリカに夢中のようなので大人しくブリオッシュを食べることにした。
   半分齧る。芳ばしい香りが鼻腔を掠め、口いっぱいにフレデリカの優しさが染み渡ったように感じた。リフはいいお嫁さんをもらったなあ、なんて親父くさいことを考えながらもうひと口頬張る。
「ナオさん、美味しい?」
「うん。とっても美味しい。ありがとうフレデリカ」
僕がそう言うと、フレデリカは頬を赤く染めて俯いた。照れる姿も人間と何ら変わりない。体長以外は人間のそれと変わりないのだろうか。生憎生物学には興味が無いので、それ以上探究心は揺さぶられなかった。
「おいナオ!お前フレデリカに色目使うんじゃねーぞ」
「つ、使ってないよそんなの」
「いいや、リフの顔を見ろ。
嫉妬で顔が蛸みたいになってやがる」
「嫉妬はしていないが、たことはなんだ、ゲイル」
「ああん?蛸を知らないのか」
ゲイルは僕をそっちのけでリフに蛸の説明を始めた。どうやらリーファたちは草木を扱う種族なので、魚や動物の知識はあまり無いようだった。ゲイルは医者なので、生物の知識を豊富に持っているようで、よくリフはゲイルから習っているとフレデリカは言った。
   黒い液体(タコ炭)や、粘液を体から出すというのを聞いて驚愕するリフを見ると、確かに親身に教えたくなる気持ちがわかった。メモを施した紙をポケットに入れて、リフは僕に向き直った。
「せっかく来てくれたんだ。今日は僕らリーファをはるか昔から見守ってくださっているアンティア様の木をナオに見せよう」
「アンティア?」
「由来はよく分かっていない。先祖様の話を頼りに言うのであれば、人間世界からこちらに迷い込んだ先人が植えた木なのだそうだ。アンティア様と言うのは、その先人が神と崇められた方らしい」
「そうなんだ」
僕が立ち上がると、ゲイルはリフに言った。
「俺は戻るぜ」
「ああ、助かった。ありがとう」
ゲイルはリフと同じようなブーツで思い切り地面を蹴り上げると、木々の間を抜けて風の如く消えた。そりゃあ、あれだけ早くたどり着けたわけだよな。今の技術も魔法を発動したうえのものなのだろうか。それとも、リーファはゲイルのような身体能力を全員が所持しているのだろうか。
   なにはともあれ、魔法も身体能力も、僕にとっては羨ましい限りだ。ゲイルが颯爽といなくなって、リフが進む方向に目を向けたが、僕はここである問題に困惑した。
「リフ、僕行けないや」
思えば、ゲートのある彼らの本拠地らしいこの場所はだいぶ開けた場所だが、そこか僕が五歩歩まない内に辺りは短い木が生い茂っていて、人間の僕が歩くのは不可能に見えた。草も川も木も何かもが小さいこの世界では、僕は身動きすら取れない。
「心配には及ばない」
リフはそう言うが否や、僕に手のひらをかざした。
   突如リフの手の中心から竜巻のような風が出現して、僕を包み込んだ。両腕で咄嗟に自身を守ったが、あえなく僕は完全に飲み込まれた。突風のなか、呼吸の有無すら危ぶまれたが、それは一度またたきすれば元の風景に戻った。
   いや、正確には違った。草が、川が、現実世界と全く同じ風景になっていた。開けた場所だと思っていたのが、まるで林の中だ。奥を臨めばまるで樹海のようだった。前方に立つリフと、同じ高さで視線が絡まった。
   リフは笑って掲げていた手を下ろした。
「これで大丈夫だろう」
「す、すごい…」
なんともないようにリフは踵を返して樹海へと歩を進めた。靴で地面を踏みしめると、草が心地よい音を立てて項垂れた。川の流れが直に耳に流れ込む。先程まで気付かなかった音が、僕の心の中に燻っていた本能を徐々に煽っているのがわかった。頬が微かに紅潮して、僕はスキップする勢いで大きく見えるリフの背中を追った。世界を覆う存在感が僕らを囲う。それらは、文字通り僕らを神隠しに誘っているように見えた。
   どれだけ歩いただろうか。いつの間にか川のせせらぎが無くなり、背後を振り返っても彼らの本拠地はもう見えない。辺りは湿気が漂い、心なしか重圧感があった。
「これが、アンティア様の木だ」
疲労で俯いていた僕がリフの言葉で顔を上げると、そこには見たことのない巨木が僕らを見下ろしていた。
   圧倒的、かつ神々しさを放つこの木が、リーファを長く見守っていた神の木。人は、畏怖感を覚えたら何も言葉が浮かばないのだと、その時初めて知った。威圧される感覚は、どこか僕を虫けら扱いする彼らに似ていて、しかし明らかに僕を優しく包み込む温かさがあった。木の幹は僕が元の大きさに戻って手を回してみてもきっと回りきらないだろう。首を限界まで伸ばしてみても、小さな命を枝状に広げる木のてっぺんなんて見えやしない。
   僕が恐る恐る木に一歩近付くと、横目にリフは帽子を脱いで木に深くお辞儀をした。それに倣って僕も慌ててお辞儀をする。辺りは静かなはずなのに、何故か木から熱の音が聞こえてならなかった。顔を上げて帽子を被り直したリフが言う。
「僕らは五〇日に一度、アンティア様の木にお祈りを捧げているんだ」
「それは、何のために」
「決まっている。僕らの平和を守っていただくために」
リフはそう言うと、僕の手を引いて木の前に押しやった。少し憂いを帯びた表情が僕に言う。
「リーファは、残念ながらこの木に触れないんだ。理由はこれまたわからない。先祖様は人間しか触れないと、この掟を守ってきた。だから、ナオ。ぜひ触ってくれ」
「いいの」
「ここに訪れた人間は軒並みこの木を触ってきたと言い伝えられている」
「わ、わかった」
どこか有無を言わさないリフの口調に、僕は微かに震える指先を木に近づけた。ふる、と爪が木を掠り、次に指の腹が木に触れ、やがて手のひら全体に木の熱を感じた。
   その瞬間、木が異様な音をたてた。密度の高い幹からひしめく音が轟き、周りの木々がざわついた気がした。
「ナオ、手を離せ!」
「ご、ごめんなさい!」
リフに言われるより早く反射で手を退いていた僕は、思わず後ずさった。
「何をした!?」
「わ、わからないよ。僕何もしてないよ!」
憤怒の形相を隠さず、リフは僕の手を掴んで、穴が開くほど見つめた。
「本当だって!僕何もしてないよ!」
「じゃあ今の音はなんなんだ!」
「わからないってば!」
僕の手を放り、リフは木の傍に駆け寄った。どこか異常がないかどうか見ているようだったが、すぐに動きが止まった。同じ背丈になったからわかる。
   リフのこめかみから顎にかけて、冷や汗のようなものが伝った。僕は事の重大さに追いつけず、浅くなった呼吸のなかで必死に酸素を求めた。
「ナオ」
「……」
「ナオ!」
「なんだよ、怒鳴らないでくれよ!ぼ、ぼくはほんとに、なにも」
「もう一度、この木に触ってみてくれ。いや、そこの木でもいい。何でもいいから生えている植物に触ってくれ」
「え?」
「いいから」
僕は言われるがまま近くの木に触れた。すると、再び先程と同じような音が聞こえた。この音の正体がわからず、僕は恐怖で手を離しそうになった。
「ナオ、まだ手を離すな」
しかし、リフのこの言葉に一掃される。僕は真剣な表情のリフから視線を離せず、緊張と恐怖から泣き出しそうになってしまった。
「手を離して」
「な、なんなんだよ……」
僕は言う通りに木から手を離したあとに、元の場所を振り返った。
   すると、僕の眉間に届きそうな枝が太く僕を静寂のなか見つめていた。僕は、まだ状況がわからず慌てふためいていた。
「なんなのリフ」
「わからないのか。ナオが木に触ると、木が成長している。目の前まで伸びているその枝が証拠だ。先程までは生えていなかった」
「そんなこと、あるわけ」
「昔、本で読んだことがある」
リフが小さい頃に読んだ本の物語は次のようなものだった。
   ある地域の中心に、シンボルとなる御神木があった。その地域に住む少年は、ある日、地域の外れた場所で得体の知れない不思議な少年と出会う。しかし、彼の故郷や年齢、何故その地域に訪れたのかもわからなかった。
   判明したのは名前のみ。ナオスルロ・イーシャ。しばらくして二人が仲睦まじい関係になった頃、少年はナオスルロを御神木に案内した。ナオスルロが御神木に触ると、瞬間に成長した。
   超常現象のような出来事に本人達は驚いたが、面白くなって少年はナオスルロを定期的に御神木に連れていった。しかし、その異常な現象に村人が気付き、いたずらと思われナオスルロはその村を追放された。少年は親しい友人が自分のせいでいなくなり、落ち込み悩んだ末にもう一度ナオスルロを村に呼んだ。そして村を覆うほどに御神木を成長させて、村人たちに見せた。
   村人達はナオスルロを神と崇め、その能力に依存したことにより、自らの手で植物を栽培することは無くなり、次第に村が無気力になって廃村になった。バッドエンドの物語。
「この話はいわゆる伝説だ。嘘か真か知るものはもはや誰もいない。しかし、はるか昔にナオスルロのような人物がいたとしたら、今ナオがその能力を持っていたとしても不思議ではない」
「そんなことって」
僕は咄嗟に地面の草に触れた。すると見る見るうちに草が僕の膝まで伸びた。伸びた草は重力に抗えなくなって、僕の靴を見つめた。
「そんな、うそだよ」
「さっきは怒鳴ってすまなかった。僕らのアンティア様の木を危険に晒したのかと気が動転してしまった。きっと物語の村人たちもこうやってナオスルロを追放したのだろうな」
「……うん」
リフの謝罪と見解はほとんど聞き流していたと思う。僕を、隠しきれない高揚とは違う何かが満たして、思考が定まっていなかった。さきほど僕が成長させた草を見つめる。こんな僕が、こんな場所で、こんな能力を発揮できるなんて。つまらない人間だと思っていた自分に、微かな見込みがまだあるのかもしれないと少し頬が和らいだ。その力が善か悪かは分からなかった。
「すぐにフレデリカに報告しよう」
リフはアンティアの木に手短に挨拶をすると僕に向き直った。
「待ってよ、そんな、確証なんて」
「何を言っている。もうその力は確認された。ナオは伝説の少年と同じ能力を持っている」
「でも、もし仮にそうだとしても僕の力はここでは使えないよ」
「なぜ」
「だって、そうしたら物語の結末と同じになるんでしょう」
不安で眉が八の字になる僕を尻目に、リフは微笑しながら僕に言った。
「僕らは高貴なるリーファだ。そのような愚かな結末には僕がさせない」
「リフ……」
自身に溢れたリフの言葉が優しく僕の心を包み込み、僕は気がついたらリフの後を追っていた。いったいリーファがどれほどの規模で生活しているかわからないが、見るからにリフは集団の長だ。
   平均寿命が八〇〇歳のなかで、まだ五〇〇歳にもなっていないリフが取り締まるのには、やはりそれ相応のリードする力があるのだ。この世界のことを何も知らない僕の命はリフに握られていると言っても過言ではない。しかし、それを抜きにしたとしても僕はリフの背中を追っていくだろう。
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