いつか見た夢

B&B

第34章

 高速で移り変わっていく景色を、どこふく風といったふうに眺めながら俺は今、田神らとともにK市に向かっていた。
 伊達は今日の夕方に、駅に近いホテルで松下薫という女と会うことになっているからだ。正確には会うことになっていた、といった方がいいだろう。伊達はすでにこの世にはいないのだ。
「とりあえず、昨日一日で俺ができうる限りで知ることができた、島津製薬の情報だ」
 茶色い大きな封筒に入れられた資料を渡され、俺はその中身を取り出した。それと、松下薫と思わしき人物の写真も入っている。
「この女が、松下薫か?」
「ああ」
 写真に写っていたのは、髪をボブカットにして妖艶さを醸し出した女だった。日本人のはずだが、あまり日本人らしく見えない。まさしく、妙齢な女だ。
 写真を見た俺は、思わず下半身を反応させてしまい、気を鎮めながら資料を見た。
「島津製薬は、一八八九年に開業医として島津菊乃介が始めた会社で、医者としての腕もなかなかのものと評判だったという話だ。
 現在の雛型となったのは、その菊乃介の孫、新次郎の代になってかららしい。新次郎は医者としては父や祖父にこそ劣ったが、経営者としてはかなりの手腕を持っていたようで、一代で大病院に成長させている。
 当時、最新鋭の技術や多くの医師を抱えたようだが二次大戦の際に、一度は没落しているんだ。けれど新次郎は、その知識と時代を読む力に長けていたため、薬を処方することで新しく立て直した。それが現在まで続く島津製薬だ。
 今は、その孫の宗弘が経営者となって、運営されている」
 田神は車を運転しているためか、こちらには一切目をやることなく、淡々と語った。
「ま、そこらはよく聞く話だな。で、連中がやっているのはどんなことなんだ?」
「あまり良くない噂ばかりだったな。今まで島津の薬を使うことも度々あったが、正直、もう二度と使う気にはならないな」
「あんたがそう言うってことは、よほどみたいだな」
 田神はゆっくりと、首を縦に振った。
「もう分かっていることだろうが、彼らが人体実験を繰り返しているその理由だが……」
 田神はそこで言い淀んだ。
「その理由は? なんなんだ」
「ああ、不死の薬を作るため……なんだそうだ」
「不死の薬だって?」
 田神の口から出た予想外の言葉に、俺は声を裏返してしまった。不死だなんて、一体どういうことなんだ……そんなのとてもではないが信じられるわけがない。この二十一世紀の世の中で、そんなことを本気で実践しようとしているというのか。
 これが雑談であれば、冗談に受け取るところだが、田神がまさか今そんなことを言うはずがない。つまり、連中が行っていることは、大なり小なりそれに近い、もしくは本当にそいつを研究をしているということなのか……。
 全く、一昨日といい、今日といい、とんでもない与太話ばかり飛び出てくる。成り行きとはいえ首を突っ込んでいる俺が、とても馬鹿らしく思えてくる話ばかりだ。
「なぁ、あんたはその話、信じるのか……? 一昨日も同じ台詞を吐いたな」
「……なんとも言えないな。不死なんてものにはお目にかかったことがないし、仮に出会ったにしても、それを確かめる手立てもない」
「全くその通りだ。しかし、あんたがガセネタ掴まされたとも思えないからな……まぁいい。そいつは松下薫に直接聞くとしよう。
 それよりも問題は、松下がきちんと時間に来るかってことだな。伊達の失態は、連中から見限られたとも言い切れない。真田の時みたく、連中が私設の軍隊を持っているかもしれないぜ。
 その場合、下手したらすでに伊達のことを嗅ぎ付けて警戒して、今日現れない可能性があるぜ」
「いや、俺は現れると思う。伊達は鳳凰館のことがあった次の日にも、仕事をこなしていた。だから、きっと今日も来るはずだ。問題は彼女がうまいこと喋ってくれるかどうかだが……」
「ま、そこらは適当になんとかしよう。こんなことは別に今に始まったことじゃぁないしな」
「相変わらず向こう見ずなやつだな、君は」
 田神が半ば呆れながら笑った。自分でもそう思わなくもないが、そういう性分なのだから仕方ないではないか。
「なに、俺に任せてくれ。女の相手は割と慣れてるんだ。特にこういう女はな」
「そうか。なら、今回は君のお手並み拝見といこうかな」
 俺は何も言わず、ただニヤリとしただけだった。



 K駅にほど近いシティホテルを前に、小さなビルの陰に俺達はいた。
「あんたが言ったように、部屋は松下の名義ですでに一室予約されている。後は、女よりも先に行っておく……それから先はなるようになると思う」
「……今回は君がやるといったのだし、島津製薬の件は君のヤマだ。好きにすればいいさ」
 腹をくくったのか、田神はどこか悟ったような口ぶりだった。本来なら自分が行くべきとでも思っているのかもしれない。
「ああ、そうさせてもらう。大丈夫とは思うが、何かあった時は頼むぜ」
 俺は車を離れ、一人ホテルへと向かった。生前伊達が指定していたホテルは、シティホテルというだけあって、かなり豪奢な作りになっていた。
 階数は前に泊まったN市のホテルに比べると少なく、ランクも幾段か落ちると思われるが、俺からしたらそんなのは大したことではない。
 ホテルの正面玄関から堂々と入ってロビーを突っ切り、フロントまでいった。
「今日予約した、松下の連れだが」
「はい。松下薫様のお連れ様ございますね。いつもご利用ありがとうございます。すでに、松下様はお見えになっておいでです」
「わかった。部屋はどこだい?」
「は……いつものスイートでございますが」
「ああ、いや気にしないでくれ。最近ちょっと疲れていてね」
「そうでございますか。でしたら、案内の者をお呼びいたしましょう」
「そうだな、頼む」
 かしこまりましたと告げたフロントマンは、ちょうどロビーにいたボーイを呼んだ。彼に案内させるようだ。
「お荷物の方はよろしいですか?」
「ああ、もう部屋の方に連れがいるんだ」
 適当に相槌を打ち、やや軽薄そうなボーイに受け答えしながら、スイートルームへと案内される。
 格段、怪しいと思われるようなことはないはすだ。今日の服はいつもと比べ、シックなシャツとスーツだ。フロントの人間も、いくらほぼ毎月予約している常連客であっても、正確に顔までは覚えていまい。田神の話によれば、一月ごとに伊達と松下、交互に予約していたらしいので大丈夫だろう。まぁ、仮に覚えがあったにしても、たいした問題ではない。
 とはいえ、さすがに、顔の傷だけはうまくエリナの手で化粧を施してもらいはしたが。
 エレベーターを降り、ホテル上階のスイートに着いた。ボーイはそのすぐ前の扉を叩いて声をかけた。
「松下様、お連れ様がお見えになりました」
 しばらくすると、部屋のチェーンと鍵の開く音が聞こえた。
「では、私はこれで失礼したします」
 行儀よく一礼し、ボーイは去って行った。それと同時に扉が開かれ、中から松下薫が顔を出した。俺は素早く部屋に押し入り、女は唖然として何が何だか分からないといった顔だ。
 もちろん、すぐさま扉は閉め鍵とチェーンを掛けた。この昨今こんなものを付けなくとも、カードキー式になっているが。
 続けざまに、女の口を塞ごうとするがその前に女が言葉を発っした。
「あなた誰なの? 聡一郎さんはどうしたの?」
 俺は少しばかり驚いた。見知らぬ男が押し入ってきたのだから、叫んだりもするかと思ったのだ。
「あんた伊達の話、知らないのか?」
「なに、聡一郎さんに何かあったの?」
 どうやら、伊達と定期的に会っているというのは本当のようだ。口ぶりから推測するに、いちいち連絡をとる必要もない仲なのだろう。
「伊達は一昨日の夜死んだぜ。殺されたんだ」
 前置きもなく淡々と事実を述べると、女はその大きな瞳をさらに大きくし、絶句した。それもそうだろう。今日という日を、きっと心待ちにしていたのだろうから。この女の態度から、そう見ていいだろう。
「ああ……嘘……そんな、聡一郎さんが……嘘……」
 嘘はついていない。事実、俺と田神で奴を地獄に送ってやったのだ。そうされてもおかしくないことを、あの男はしていたのだ。当然と言えることだ。
「死に際に今晩、あんたとここで会うということになっているのを聞いてね。それで推参したというわけさ」
「ああ……聡一郎、さん……」
 松下薫は、みるみるその瞳に涙がたまっていき美しい頬から顎へ、そして床へぽろぽろと流れていった。そしてガクリとその場に膝をついたのだった。

 うっすらとシャワーの音が漏れてくる。松下薫が入浴しているためだ。
 結局、松下は号泣こそしなかったものの、しばらくの間、声を殺すように鳴咽をもらしながら泣き続け、つい数分前にようやく泣き止んだところだ。泣き止んだ彼女は、シャワーを浴びたいと一言だけ告げ、部屋を出ていった。
 まさか、あんなにまで泣かれるとは思わなかった俺は、やや躊躇いがちに軽く頷いただけだった。写真や伊達からの話だけで、つい、ただのビジネスライクな関係で、ことに及んでいたのかと思っていたがそうではなかったらしい。
 勝手な先入観から、あの藤原真紀のような女狐タイプの女とばかり思っていたのだ。だから、今回役をかって出たと言うのに、とんだ誤算だった。
(さて、どうしたものか)
 俺はベッドに腰掛けながら、この後のことを考えていた。多分、松下は俺のことを敵とは思ってはいまい。だからといって、味方だとも思っていないだろう。
 とにかく、島津製薬でどんな実験を行っているのか、そしてその実験のために伊達が行っていた人身売買でえられた子供達が、どうなってしまったのか。半ば予想がついてしまうのに自己嫌悪してしまうが、まだ百パーセントそうだと決まったわけではない。何万分の一、何億分の一の可能性しかなくとも、俺はそれに賭けるしかないのだ。
 その時、聞こえていたシャワーの音がふいに途絶えた。隣の部屋にバスルームから漏れた湯気が見える。
 しばらくすると、松下が白いバスタオル一枚でやってきた。黒いボブカットの髪は水滴で濡れ、その美しい顔に張り付いている。そして、彼女の身体に巻かれたバスタオルは、まるでそのラインを強調するかのようだ。
 俺よりは確実に年上のはずだが、年齢など無意味に感じさせるしなやかな脚は、思わず男の本能を奮わせる。今すぐにでも、この女を抱きたいという衝動に駆られるが、今はまだ駄目だ。まだ早い。
 松下は、その脚を見せ付けるように、俺の隣にやってきて、腰掛けた。その重みのためにベッドが軋む。
「……それで? わざわざ今日ここに来たというのは、別にあの人の死を伝えにきたわけではないんでしょ?」
「ああ、まぁな。あんたにちょいと聞きたいのさ、島津製薬で行っている実験てのがさ」
「別に? 他の製薬会社と同じように、ただ薬を作って売っているだけよ」
「そのために人体実験を行っているわけか」
「人体実験だなんて……人聞きが悪いこというのね。臨床実験なんてどこも同じよ」
「そのために、わざわざ海外から輸入してきた奴隷達を使うのか? そいつは少々おかしな話だな。普通だったら、そこらの人間に金を払ってモニターになってもらえばいい。
 だと言うのにあんたら島津製薬は、少なくとも六年前から、伊達聡一郎から奴隷として買った人間を使ってまで臨床実験を繰り返している。さすがに、ただの新薬作りとは思えないね。
 それにあんた、伊達に言ったらしいじゃぁないか。島津が鳳凰館のバックスポンサーになるってな」
 女は先ほどとまではいかないが、驚きの顔をした。そのまま、少しの間だけ何かを考えていたようだった。
「……そう。まさか、そこまで調べがついていたなんてね、思いもしなかった」
「今の時代、便利なモノがあるのさ。ま、これでも随分と時間がかかっちまったんだがな。さぁ、もうこれ以上は無駄なんだから、洗いざらい喋ってもらうぜ」
 松下は呆れたのか諦めたのか、どちらともいえない渋るような顔をしながら語り出した。
「……私もいつからそんなことをし始めたのかは知らない」
 その瞳を窓の外に向け、女は目を細めた。
「あなた、もう随分前のことだけど、今井重工のお嬢さまが襲われた事件を知ってる?」
「ああ、十二年前の話だろう。それがどうした」
 意外だった。確かに知っている。つい最近、それも二週間かそこら前に見た記憶がある。だが、今この場でその話題が出されたことに、ひどく違和感を覚えた。
「今井の屋敷がなぜ襲撃されたのかって話」
「そいつは俺が聞いてることに関係してるってのか?」
「さあ、どうでしょう?」
 女は流れるような視線を俺に向けた。その流し目に思わずドキリとした。それを見た俺は、突如として沸き起こった性欲にそのまま身を任せてしまいそうになるが、今はまだ駄目だ。
 ぐっと自制しながら、俺は肩をすくめた。そういわれては、黙って聞くしかない。
「今井の家は実をいうと当時、島津の大株主だったのよ。それと、もう一つ。今井の末娘が病気だったこと。この二つがあったから、あの事件は起こった。
 今井は島津製薬に出資し、島津は今井の末娘の病気のために薬を……それが両者の間でなされた契約だったの。だけど、それは突如として破綻した。
 その理由は分からないわ。結果、島津は娘さんに薬を与えず、今井は島津への出資を取りやめた。互いにビジネスであるはずなのに、それをお互い簡単に受託したの。これに関して、いまだ諸説言われてるくらいにね」
 確かにビジネスであれば、そんな簡単に互いの契約を破棄したりするものではない。考えてられるのは、やはり今井の娘に関してだろう。その薬の開発やなんかが芳しくないために、今井側から手を切った、これは十分考慮できるところだ。
 しかし、この考えには一つだけ欠点がある。当時、その屋敷の側近として働いていたあの男、殺し屋だった佐竹がいっていたことだ。今井の娘は家族から見放されていたと。
 あの男の口ぶりに嘘はなかった。そうなると、もっと別の可能性を考えるべきなのかもしれない。
「それで」
「これは推測も入っているから、絶対とは言わない。けど、一番可能性があるわ。おそらく新薬のために、今井のお嬢さんは、
身体をますます悪くしていった。
 それを知って今井は、島津との契約を破棄したのよ。今井は、その時すでに島津をこえる大金持ちだし、わざわざ手を結び続ける必要はない。もとより、そのために手を組んだのなら、それは十分にあると思うわ」
「名探偵さんにはお手上げだ、といいたいとこだがな、残念なことにその推理には一つ大きな穴があるぜ。今井は娘のことなんて、なんとも思っていなかったそうだ。彼女は、親兄弟から見限られていたらしい」
「……そう。ちょっと自信あったんだけどな」
 かなり自信を持っていたのか、苦笑う彼女は、明らかに落胆の色が見てとれた。
「まぁ、いい。それで、そいつがどう話に繋がるんだ?」
「今話したように、今井側から手を切るよう持ちかけたのは間違いないと思うの。そうでなきゃ、屋敷を襲うなんてしないもの。
 屋敷が襲われたその日、幸か不幸か、今井本人が不在の時だった。本当ならその日、屋敷に今井自身が訪れる予定だったそうよ」
「……だが、今井は屋敷には現れなかった」
 松下の言葉をひきとり俺がいうと、女がそれに首を縦にして振った。
 確か佐竹は、襲撃の少し前に解雇されたのだといっていた。そして、隔離されていた少女の屋敷に訪れるはずだった今井……。
 しかし、少女は家族から見限られていたというから、もしかすると今井自身、屋敷が襲撃されるということをあらかじめ知っていたかもしれない。
 だとすれば、少女は父の手によって生き餌にされたということだ。佐竹はそのことに気付いていたのだろうか。今となっては、後の祭りではあるが。
「いくら見限られていたにしろ、彼女の死は今井にとって、大層なスキャンダルになった。それと同時に無言の警告にもなったのね、次はお前だっていうね。
 けど、それでも今井は島津の言いなりにはならなかった。そんな状態が何年か続いて、ある日、今井は姿を消していたの。次期当主になるはずだった息子とともにね」
 女はそこで一旦ベッドを離れ、サイドボードに置いてあるバーボンを取り出してきた。
「あなたもどう?」
「ターキーか。そうだな、俺ももらおう。ストレートだ」
 松下はロックグラスに氷を放り込み、バーボンを注いだ。続いて、同じ形のグラスにとくとくと、うまそうにバーボンを注ぐ。
「はい」
「ああ、ありがとうよ」
「ふふ、ありがとうだなんて。あなたみたいな人って、礼なんて言わないものと思ってたわ」
 ただの癖のようなもので、そう教わって育てられたのだけの話だ。女の言葉を受け流しながら、俺はバーボンウイスキーの液体を口に流し込む。
 ターキーは五十パーセントを超えるアルコール度数のわりに、マイルドな口あたりが特徴のウイスキーだ。スコッチに慣れてしまうと、やや物足りなさを感じなくもないが、久しぶりに呑むとやはり美味いものだ。
 女もそっとグラスに口づけながら、琥珀色をした液体を飲んでいる。その姿は実に蠱惑的で、せっかく押さえ込んだ性欲が、またずくずくと理性の壁を破って顔をのぞかせる。
 その口からグラスを離すと、カランと氷が心地よい音を響かせた。
「それで、どこまで話したかしら」
「息子ととんずらしたんだろう? そこからだ」
「そうだったわね。だけど、それから一年ほどして今井は死んだらしいという話を聞いたわ。私も詳しくは知らないけどね。
 だけどそれに前後して、島津製薬からある物が盗まれるようになっていたの」
 この話は聞き覚えがあった。確か、あのストーカー事件の時に青山から聞いた話だ。盗まれたのは確か……。
「……カメラ。デジタル機器……」
 記憶をたよりに、俺はそうつぶやいていた。それで間違いはなかったはずだ。松下はなぜそれをと言わんばかりの顔になり、肩をすくめた。
「あなたこそ素晴らしい探偵だわ。そう、島津の研究所から盗まれたのには、場違いとも言える高精度のカメラなんかもあったわ。それ以外にも新薬なんかもね。
 いえ、島津にとっては、その新薬が盗み出されることのほうが、はるかに由々しき事態だった」
「その薬ってのは、どんなものだったんだ?」
 不死の薬を作るという、正気の沙汰とは思えない話をすでに聞いていた俺は、確認程度に聞き返した。
 だが、松下の口から出てきたのは、それとは違い、全く予想だにしないことだった。
「……人間を進化させるため」
「進化?」
 俺は声が少し裏返っていた。当然だ。人間の進化という単語が語られるなど、思いもしないことだ。
「そして、人間を不死の存在にするというのが最終目標だとも聞いたわ。いえ、逆かもしれない」
「おいおい、あんた、まさかそんな眉つばな話を信じてるんじゃぁあるまいな」
「見損なわないで。確かに不老だったら良いと思うことはあるわよ。だって当然でしょ? 女なんだから。
 でもね、だからと言ってそんなこと信じられるわけないわ。自分を知っている人が老いては死んでいくのに、それを横目に、一人だけ生きながらえていくなんて、考えたくもないわよ。
 でも……そんな実験を本気になって続けている島津は、もはや、狂気にとりつかれているとしか私には思えないのも事実」
 松下は、自分の雇い主を随分ときつくいっている。まともな思考をもった人間なら、それが当然だろう。
「クックック、あんたも存外、大変みたいだな」
「お給料が良くなければ、さっさと辞めてるわよ」
 そうか。だからこの女は伊達にとり入ろうとしたのかもしれない。しかし、気付けば伊達のことを本気になってしまったのだろう。伊達をやったのが自分であるというのを明かさなかったのは、やはり正解だった。
「だが、その狂気に取り込まれた人間は、伊達から何人もの人間を買って、実験していたんだろう」
 俺がそういうと、松下は黙った。どうもこの女は印象ほど、凝り固まった人間ではないようだ。この女の爪の垢を煎じて、あの女狐に飲ませてやりたいと俺は思えたほどだ。
「……それを否定したいけど、できないのが痛いわね。しかも、それでお給料貰っている訳だしね……」
「それで実験の方はどうなったんだ?」
「当然失敗に決まってるわ。でも、それとは別に、様々な新薬ができたのも否定できないの。今、島津製薬から市販されている薬は、どれもがその実験からの副産物にすぎないわ。もちろん、市販できないものもあるわ」
「その市販できないような薬ってのは、どんなものなんだ」
「人間の感覚をとても鋭敏にして、集中力を増大させるという効果があるらしい。何年か前だったか、それが一応の完成ということで合意がなされたらしいけど、副作用がいくつもあってとてもではないけど、そんなものを完成品だなんて言えない代物だった」
「……その副作用ってのは、唐突に頭がいたくなったりしないか? それと麻薬のような常習性と同時にだ」
「……あなた、やっぱり探偵になるべきじゃない? ううん、本当は探偵なの? その通りよ」
 そうか……六年半前、奴の明らかな異常さは、その薬が原因だったのだ。そうに違いない。
 だとすれば、奴も実験体にされた被害者だったというわけか。
「その薬は、肉体に劇的な変化をもたらすかもしれないらしくて、それが今なお研究中といったところね。
 ……だけどそこまでに、あなたの言う通り、何百、いいえ何千かもしれないわ。人間を使って実験しているのよ、島津は。そして、それらも全て今井重工とのコネクションがあったからなのよ。それと、今井の持っていた株や事業の一部の買収もね。
 以来、島津製薬は市場を拡大し続けているわけ」
「なるほどな、こいつは面白い話が聞けたよ。で、あんたはずっと今のポストにいたいのか? いや、島津の下で働いていたいのか?」
「……残念ながら、私には辞められないわけがあるの。でも、それができるのなら、すぐにだって辞めたいわ」
「なんなんだ、その理由ってのは」
「……単純よ。母がね、とても重い難病にかかっているの。治せなくはないけど、それには数千万のお金が必要なのよ。それを、会社に肩代わりさせているというわけなの」
「なるほどな。……もしかしたら、俺、いや俺達がなんとかできるかもしれない」
「え?」
 俺の言葉に、今度は松下が素っ頓狂な声をあげた。
「な、何いっているの。そんなの無理よ」
「いいや、決して無理な話じゃぁないぜ。ようするに、連中に金の話なんざできないくらいに混乱させてやればいいのさ。後は、あんたはその隙にとんずらすればいい」
 俺の出した提案に、松下はえらく困惑しているようだが、俺は見逃さなかった。その顔には、そんな可能性があるというなら、それに賭けてみたいという思惑が滲み出ているのを。
「まぁいい。あんたが乗り気であろうとなかろうと、俺には島津とはどうしても決着を付けなくちゃぁならない因縁があるんでね。もし、あんたがその気になれば、多少なりとも、それを手伝ってやってもいいってだけの話だ。ま、ついでだと思えばいい」
「……少し時間をくれない?」
「ああ、構わない。だが、あまり時間があるわけではないから、早めにな。
 それと、こいつは俺の個人的に聞きたいことなんだが、いいか?」
 そう、俺にとってはこっちの方が重要なのだ。サックの中から、伊達の家で手に入れたファイルを取り出して、松下に見せる。沙弥佳のページを開いて、指差した。
「この少女のことだ。あんた、何か知らないか?」
 松下は俺からファイルを受け取り、しげしげとページに添付された妹の写真を見た。
「……ごめんなさい、分からないわ。でもこれを見る限り、六年前に島津の研究所に連れて行かれたのは間違いないと思うわ」
「そうか……」
 そう簡単にはいかないか。あまり期待はしていなかったが、どこかで期待していたのだろう、やはり少なからず落胆があった。
「でも」
「でも、なんだ?」
「島津の研究所に行けば、何かしら記録があるはずよ。連れてこられた人達は、行動が逐一記録されることになっているから。だから、きっとこの子のことも何か分かるはずよ」
 松下ははっきりとした口調でいった。もちろん、島津製薬にはもとより行くつもりではあったが、スムースに行くというならそれに越したことはない。そして、連中が何も知らず呆けているうちに、大暴れしてやるつもりなのだ。
 松下にはいえないが、伊達を地獄に落としたのだから、島津の連中を地獄に落とさない道理はないというものだ。ましてや連中は、不死だとか人間の進化だとか、狂気の沙汰としか思えないことに取り組み、何百何千という人間を殺したのだ。
 だというのに、連中を地獄に落とさないというのでは、沽券に関わる問題だ。奴らは、間違いなく沙弥佳を実験動物のように扱ったのだ。そんな連中を許しておけるわけがない。
 カラン、という氷がグラスの内側をたたいた音がした。その音にはっとし、音の発生源の方をみやると、松下がひどく扇情的な眼差しで俺を見ていた。
 ルージュがひかれ、わずかに開かれた唇の内側で、舌がちろちろと別の生物かのように動いているのが分かる。俺としても、いい加減限界にきている。そろそろ理性を取っ払い、その下にある性欲の塊をぶつけてもいいだろう。目の前には、バスタオル一枚でいる一匹の牝がいるのだ。もう我慢することもない。
 俺はバーボンを一息に呑み、グラスを柔らかそうな絨毯の上に投げる。その勢いのまま、女の肩に手をやった。
「時間をちょうだいっていったけど、いいわ、あなたに賭けてみたい。その代わり、お願い。私をこの不安から解放して。
 今だけ……今だけでいいから」
 これより先、言葉はいらなかった。語りかける言葉など、たとえどんな愛の言葉であっても陳腐でしかない。
 女の身体を引き寄せ、その唇に口付ける。舌が俺の口内に割って入り、それに俺も舌で応える。舌の絡み合いに女は興奮し、鼻息が荒い。
 グラスはそばのテーブルに置き、俺の背中や頭に手を廻してくる。
「お願い……何もかも、今は忘れさせて」
 強引に女をベッドに寝かせた。身体に巻かれたバスタオルがはだけ、その長い脚がより強調される。
 すでに湿り気を帯びた女の股間に手をやり、さらにその高ぶりを解放させてやる。
 女は頬を桜色に染め、乳首を立たせていく。その様子を、俺はニヤリと唇を歪ませながら、濡れそぼってきたそこに顔をもっていった。
 部屋の中は、裸になった男女の荒い息と、ベッドが軋む音。それに混じって女の嬌声だけがあった。




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